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6.疑惑は5
◇
あんなにもいじらしい子を、どうやったら痛め付けられるのだ。痣が残るほど殴りつけ、煙草の火を押し当てるなど正気の沙汰ではない。
こんなことを思うのは良くないのかもしれないが、ハッキリ言って彼の母親は鬼だ。
冬季くんは、当時のことは幼すぎてあまり思い出せないと言っていた。それだけ凄惨だったということだろう。
だが幼少期に大変な傷を負わせた母親と引き離されたのは、結果的に彼にとっては良かったと思わざるを得ない。
「……はぁ……」
彼の過去についてを考え始めると、ため息ばかりが出る。
俺たちの関係が、あまりにも対等じゃないということが浮き彫りになるからだ。
冬季くんが知らん顔をしてくれているからこそ成り立っているだけであって、おそらくそれは今後、俺が意を決しなければ崩れることはない。
はたしてそれでいいのか、俺は一晩中寝ずに考えていた。否、隣でスヤスヤ眠る冬季くんにドギマギして眠れなかっただけとも言う。
酒が抜けているであろう頃合いに、冬季くんを起こさぬようこっそり家を出て院長室で仮眠を取らなけらば、診療に差し支えるほどには寝付けなかった。
「……あんなこと言われちゃうとなぁ……」
それというのも、ベッドでの診察後、布団に入った冬季くんが絶妙に男心をくすぐる台詞を吐いたせいだ。
苦い思い出としてしか記憶に残っていないが、俺にも一応は女性とのそういう経験がある。それなりに一通りのことは済ませてきたつもりだったが、あんなにも終始狼狽えた一日を送ったのは初めてだった。
昨夜、妙な雰囲気を断ち切るために少々早いが「さっ、寝ましょうか!」と声を張ったのは、俺だ。
生活リズムが整った冬季くんは二つ返事で、いそいそと俺が寝るスペースを確保したり枕を並べたりと寝床を準備する姿が、冬支度に入るリスのようで何とも愛らしかった。……と、ここまでは良かった。
向かって右に冬季くん、左が俺で寝る位置が決まり、微妙な距離を保ちつつ横になったその時だ。
『ねぇりっくん……』
『は、はい?』
仰向けで寝ていた冬季くんが、いつの間にやらこちらを向いていた。
それだけで俺は年甲斐も無くドギマギしていたのだが、声のトーンを落とした冬季くんはさらに狼狽を加速させるようなことを言った。
『もういっこのお家って、絶対に帰らなきゃダメなの?』
『あ、いえ……そういうわけではありませんが』
『じゃあさ、たまにでいいから……ここで一緒に寝よ?』
『い、っ……?』
〝一緒に寝よ?〟──この一言で、俺の睡魔はビュンとどこかへ飛んで行った。
俺にはもう一つ寝る場所がある。こう言ったのは嘘ではない。
ただ色々と誤解を招きそうではあるな、とは思っていた。それを表すかのように、冬季くんは静かに続けた。
『りっくんも色々大変だっていうのは分かってるんだよ。ずっとここに居たら不都合なこともあるだろうし、何より不利になるじゃん? だからさ、毎日とは言わないから……一緒にごはん食べて、一緒に歯磨きして、一緒に寝てくれる日がたまにはあったらいいなって……。ダメかな?』
『…………』
ダメじゃない。まったくもって良い提案だ。
俺が隣で寝ていても気にならないなら……というより、冬季くんさえ良ければ俺はずっとここに居たいさ。
〝不都合なこと〟や〝不利になる〟との発言には首を傾げたが、俺が明かさない素性に差し支えない程度に寝食を共にしないかとの殊勝さに、悪い気はしないどころかドキッと胸が高鳴った。
ここに居てよ、と強制しないところが冬季くんらしい。あくまでも俺の意思を尊重しようとしてくれるところに、いじらしさを感じる。
そして極め付けが──。
『僕一人じゃ、このベッドは広すぎるよ……』
……飛んで行った睡魔は、影も形もなくなった。
俺が「そうですか……」と頼りない返事をして黙り込んでいる間に、こちらを向いた冬季くんが寝息を立て始めた。
いかにも〝毎晩添い寝をしてほしい〟と言わんばかりだったが、この捉え方で合っているのだろうか。
俺はそっと身動ぎし、冬季くんの方を向いて寝顔を拝んだ。
熟睡している冬季くんを見るのは初めてで、ついついその可愛らしさに見惚れ文字通り凝視した。
だが唐突に心がモヤッとして、寝顔から視線を逸らす。
「恋人が、いたのか……」
施設では高校まで通わせてくれたと言っていたけれど、俺と出会う前にはすでに卒業し施設を出ていた。〝宿無し〟ということは冬季くんは、それまでは恋人と暮らしていたのだ。
だから、冬季くんは一人寝が寂しかったのではないか。
……もしもそうなら、俺に良案を持ちかけてくれたのは嬉しいが心中は複雑である。
よく分からない関係性の俺なんかより、もっと深いもので繋がった人が冬季くんには居た。「死ね」などとんでもない暴言を吐く女性に冬季くんは追い詰められてしまったけれど、今は日常的だった自傷行為さえ許さない俺がそばにいる。
そこまで考えた時、俺もきちんと素性を話すべきではないかと思ったのだ。
「りっくんに近付けた」という言い方をしてくれた冬季くんなら、素性を明かせなかった俺の葛藤を理解してくれるのではないかと──。
時間も睡眠も忘れて冬季くんの隣を堪能した俺は、おかげさまで今日は本当の寝不足だ。
「── 李一先生、電メス準備できました」
おっと、もう十分経ったのか。
浸潤麻酔をして効くまでの間 院長室にこもっていたが、安達さんに声を掛けられてハッと我にかえるとは非常によくない。
仕事中はあまり私情を持ち込みたくないというのに、あろうことか冬季くんのことで頭がいっぱいだった。
「はい、いま行きます。……あ、麻酔して十分経ちましたよね?」
「経ちましたよ。李一先生がタイマー止めてくれたじゃないですか」
「……みたいですね。俺が持ってますもんね」
シャキッとしてくださいよ、と安達さんに叱られ、背面にマグネットのついたりんご型のタイマーを冷蔵庫にペタリと貼って苦笑する。
ひとまずは目の前の電気メスを使っての治療に専念するため、俺は一時冬季くんのことを忘れることにした。
仕事は仕事、冬季くんは冬季くんだ。
今日も添い寝をするかどうかは、終業後に父からの連絡が入れば自ずと確定する。
その時にまた、思いっきりドギマギすればいいだけ。……年甲斐も無く。
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