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8.晴れてゆく。4

 思わず声がひっくり返った。  待ってください、と冬季くんの顔の前に手のひらをかざし、失礼を承知でそのまま俺は目を閉じる。  それから数分、彼の発言整理に追われた。  何がどうなってそんな誤解を生んでしまったのか、考えた。  だがまったく分からない。  冬季くんは、どういう経緯で俺を既婚者だと疑いを持つに至ったのだろう。しかも子持ちだと思われている。  年齢的にもそう見られたっておかしくはないのだが、俺がいつそんな素振りをした?  電話をしていたのは父だけかと聞いてきた。ということは、冬季くんはずっと、俺が頻繁に通話をしていた相手は〝父〟と〝奥さん〟だと思い込んでいたのか。  彼には何もかも明かしているはずなのだが……。  父から難癖を付けられ多額の借金返済を求められていて、その対応をしていただけだということまで包み隠さず。  さすがに母親が一千万もの大金を持ち逃げしたことは端折っていいだろうと、おおまかに〝多額の借金〟と括りはしたが、それと冬季くんの誤解は関係が無い。  借金云々の件は本当は話さなくても良い内容だっただろう。しかし、おそらく車内に落ちた書類を見ていた冬季くんに隠しておくのは忍びなく、きちんと説明したのだ。  まさかそんな誤解をされているとは露知らず……。 「あの……冬季くん」  俺はじわりと、手のひらを膝の上に置いた。  バリケードが無くなった瞬間、キョトンとした可愛らしい顔が現れ上体がやや後ろへ傾く。  ──うっ……可愛いな。  そんなに可憐に見つめられたら、気が逸れるじゃないか。……ではなくて、これは早めに冬季くんの誤解を解かなければ。  無謀なアプローチをかけようにも、子持ちの既婚者だと思われていては三重苦が四重苦、五重苦にまでなってしまう。  極力、可憐なキョトン顔は見ないようにして、俺は神妙に口を開いた。 「冬季くん、聞いてください」 「話してくれる気になった?」 「いえ、違います。冬季くんがとんでもない誤解をしているので、訂正しようとしています」 「誤解? 訂正?」  そうです、と頷いてもなお、冬季くんの表情は変わらない。  この分だと、かなり前から俺には既婚者疑惑がかかっていたのだろう。もう隠していることはないと断言した手前、冬季くんが俺を心中では〝嘘つき〟と罵倒していやしないかと猛烈な不安に駆られた。 「あのですね……俺は結婚などしていませんよ。もちろん子どももいません。俺は二十九歳、独身です。バツが付いたこともありません」 「……それホント? ホントにホント?」 「本当です。というか、なぜそんな誤解を……」  俺の言葉が信じられなかったのか、冬季くんは念を押すように言い、顔を近付けてきた。  刹那、間近に迫った冬季くんにドキドキッと心臓を高鳴らせ、同時にふわりとシャンプーの匂いがしたせいで呼吸まで止めることになり、訂正に整合性が無くなってしまうほど目が泳いでしまう。  これは……! よくない……!  すぐそこに唇がある。もちもちの大福ほっぺも目前だ。  煩悩が暴れ出しかけている俺に、冬季くんが一言、「セカンドハウスがあるって言ったから……」と言い唇を尖らせた。  いやしかしだ。……うん……? 「俺、そんな言い方しましたか……?」 「だってずっともう一つのお家に帰るって言ってたし! りっくんが歯医者さんだってことも最近まで知らなかったし!」  そうだ、それについては俺が悪かった。職を明かさなかったせいで疑念を深めてしまったとしても、あまり反論できない。  おそらく、おそらくだが、記憶が確かなら俺は〝セカンドハウス〟ではなく〝もう一つ寝る場所がある〟と言った気がする。この違いは大きいぞ。  俺に天然だと言う前に、冬季くんも相当だという自覚が必要そうだ。 「一つ一つ、解いていきましょう。まず、寝泊まりしていたのは歯科医院です。誰かが待っているような別宅なんかありません」 「やけに歯みがき上手だから、自分の子どもにしてあげてるのかなーって思ったんだよ!」 「歯科医ですからね……自分で言うのも何ですが他人への歯磨きは上手だと思います……」 「あ、あとほら! 電話! 弁護士とか、慰謝料とか! 聞こえちゃったんだよ!」 「父が俺に諸々含めて請求してくるので、それがあまりにも大きな金額ですし弁護士を立ててくださいと……そういう話を毎度のようにしていただけで、俺は慰謝料とは一言も……」 「…………っっ!!」  金を返す返さないの話が、いつの間にか〝慰謝料〟にすり変わっていたとは……!  この際だからとすべての疑惑を解消しようとしたのか、冬季くんから繰り出されたのは矢継ぎ早な問いだった。  彼に抱く好意を除き、プライベートの俺にやましい顔など無いので返答も容易い。  一つ一つ紐解いていき、とうとう冬季くんが自らの勘違いに気付くまで、俺は見るからに触り心地の良さそうなもちもちほっぺを凝視した。  だんだんとそれが赤みを帯びていく様を見届けていると、欲望と理性が喧嘩をし始めて気が散る。  ──あぁ、触りたいなぁ。あのほっぺを両手で包み込んで、まずは鼻先でキスをしながら近いところで見つめ合えたらどんなに幸せだろう。  ──いやいや、触らないと決めただろ。嫌われてもいいのか。コトを急いだ暁には〝変態ジジイ〟呼ばわりと嫌悪が待っている。それだけは勘弁願いたいだろ。  やはり俺の理性は優秀だ。痛いところを突いて気を削いでくれる。  だが両者の意見は拮抗していた。  簡単に触れていたこないだまでの俺が羨ましいと思っているのは事実で、実行には移せないが鼻先のキスはしてみたいという願望だけはムクムク膨らんだ。  そう、これは単なる願望なのだ。  だから、……。 「じゃあ……じゃあ、奥さんが居ないのがホントなら、今日はいつもより近くで寝ていいってこと? ちょっとだけ……僕が眠るまででいいから、りっくんの手を握っててもいい?」 「…………え?」  それを必死で抑え込まなくてはならない俺に、そういうことを上目遣いで言わないでくれ、冬季くん。

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