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9.僕は9
◇ ◇ ◇
僕はもうそれ以上、お父さんと話すことは何も無かった。お父さんの方もたくさん質問をしてきたから、〝話〟はあれで充分だったんじゃないかと思う。
── 何かが繋がったらしいし。
とにかく僕は、りっくんと顔を合わせないようにすることで頭がいっぱいだった。
ここで待つようにと通された部屋の窓から、さながら僕は指名手配犯みたいに辺りを気にしつつ成宮邸をあとにしたのも、そういうわけだ。
すでに夕陽が沈んでしまっていることにものすごくガッカリして、当初の目的を変えざるを得なくなったところでふと思い出した。
どこへ行くにも、何をするにも、お金が必要だってことに。
そこで初めて、財布の中を見た。そこにはりっくんが補充してくれたお金がたくさん入っていた。
確認するまですっかり忘れてた僕は、自分でもどうかと思うほどお金に執着が無いことに気付かされて苦笑してしまった。
それからは、りっくんに心の中で謝りながらバスと電車を乗り継いでの、記憶頼りのひとり旅。目的は、〝夜の闇に浮かぶお月様〟。
背の高い建物がまったく無い田舎の駅に降り立ち、少ない街灯と看板、景色を思い出しつつ無我夢中で進んだ。
歩きながら、りっくんと鉢合わせる前にあの家を飛び出せて良かったとしみじみ思った。
ほんの少しでもりっくんの顔を見ちゃったら、〝バイバイ〟の決意が揺らぐ。絶対、りっくんのお家に帰りたくなってしまう。
お父さんから真実を聞かされたりっくんは、もう僕と一緒になんて居たくないだろうから……これで良かったんだ。
後悔があるとすれば、りっくんを傷付けたお父さんに恨み節をあんまり吐けなかったことくらい。
血の繋がった息子に対してかけるべき言葉を間違えたせいで、りっくんは今もトラウマと戦い続けている。お父さんがお母さんの分までめいっぱい愛情をかけてあげるべきだったのに、それを怠ったから、りっくんはずっと寂しいまんまだ。
対して、僕の暗い過去は七歳で止まっている。
知らない大人がわらわらと家の中に入ってきて、押し入れで丸まって寝ていた僕を見つけてくれたあの瞬間から、普通じゃないパパとママとは〝バイバイ〟した。
今僕の左手首にある傷は、過去を言い訳にした、心の弱さを象徴してるイタイ産物。
同情されるのはイヤなくせに、愛情に飢えてるように見せかけてこれみよがしな傷を増やした。
そんな、甘えてるだけに過ぎなかった僕の意識を、りっくんはたった二ヶ月で変えた。
長いようでとても短かった、ほんの二ヶ月だけで。
「──冬季くん!! ……っ、冬季くん!!」
りっくんは僕に、あったかいものをたくさんくれた。
だから僕も返したいと思った。
りっくんのためにどんなことが出来るのか、何をしたら喜んでくれるのか、僕に優しい笑顔を向けてくれるたびに、一生懸命考えた。
「冬季くん!! 冬季くん……っ!」
そんなこと他の誰にも思ったことが無かったから、最初はすごく難しかった。
無条件に優しくされて、戸惑いもあった。
どうせその笑顔も一週間が限界なんでしょ。男もいける人だったら間違いなく、見返りとして体を求めてくるんでしょ。
勝手に僕の体を見たくせに、「汚い」って言うんでしょ。
泊まらせてくれて、ごはんを食べさせてくれて、僕のことが心配だからって休憩のたびに帰ってきてくれて、休みの日は外に連れ出してくれて、毎日のように「必要なものは無いですか」と気を配ってくれて……しばらくは別の場所で寝てたような気遣いに溢れた人が、僕を傷付けたりするわけないのに。
「あぁ……っ、どうしよう、反応が無い……! 冬季くん……! 目を開けてください、冬季くん!」
でも最初は分かんないもんな。
僕とりっくんはほんとに、ここで出会うまで何にも知らない者同士だったんだから。
りっくんがどういう人かなんて、少し話したくらいじゃ分かるわけないし。逆に僕も、りっくんから見れば不審な子だっただろうし。
そう考えると、いつから僕はりっくんとの暮らしにあんなに馴染んで、りっくんのために何かをしてあげたいと思うようになったんだろ。
りっくんが僕に優しく話しかけてくれると、とっても照れくさくなった。
「一人で外をウロウロしないで」と、まるで心配性な恋人みたいなことを言われた時も、都合のいい妄想がはかどっちゃうくらいドキドキしてしまった。
僕は「行ってらっしゃい」よりも、「おかえり」の方が好きだった。
いっぱい変な誤解しちゃってたけど、僕はそれでも、りっくんが帰ってきてくれるのが嬉しかったから。
いつの間にか、りっくんからの連絡を待ちわびるようになっちゃってたから。
「冬季くん……っ」
りっくんは僕に、誰かを好きになるという当たり前の感情を教えてくれたんだ。
……すごいや。
僕は何一つ恩を返せてないのに、りっくんはこんなにたくさんのことを教えてくれてる。
「冬季くん……!!」
そうそう。りっくんってばこんな風に、四六時中手があったかいんだよね。
抱きしめてくれた体ごとポカポカで、あんな冷たい家で育ったとは思えないくらい優しさに溢れてる人。
少し愛が重たいからって、見た目と中身が伴ってないからって、繊細なりっくんの心を傷付けた過去の人たちが信じられないよ。
お父さんだってそう。
どうしてりっくんをひとりぼっちにしたの。
どうして、りっくんを産んでくれたお母さんを悪く言って、嫌うようにけしかけたの。
お父さんの言葉が足りないとか、お母さんが実際はどんな人だったかとか、そんなの問題じゃない。
ウソでも良かったんだ。お母さんはりっくんを泣く泣く手離したんだって……どうしてそう言ってあげなかったの。
「冬季くん……っ! 冬季くん……!!」
── さっきから幻聴が聞こえる。
僕を抱き寄せて、鼻をすすって泣いてる声がする。
ほっぺたに何度も触れてくる手のひらの温度に、覚えがあった。この声も、体温も、夜の闇には似つかわしくないその人のもの。
やけにリアルな夢だと、そんな非現実的なことを思いながら、僕は重たいまぶたをゆっくりと開いた。
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