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10.君のプライオリティ2

 夜の闇でも分かるほど、だんだんと知った街並みが視界に入るようになり、冬季は心なしか落ち着かなくなってきた。  李一に連れられるまま本当に共に帰宅していいものか、未だ躊躇いの気持ちがある。  重ねて、なぜ李一がそこまで思い詰めた表情をする必要があるのか、冬季に何を償おうと言うのか、分かりかねていた。  しかし、ブカブカのコートを返す素振りのない冬季はふと思った。  母を知らぬ寂しさや、父の暴言に耐え忍んできた李一がこんなにも怒りの感情を顕にするのは、冬季が母を憎んでいると思い込んでいるからではないのか、と。  ならばそれを払拭させてやりたい。過去について、李一は直接的にはまったく関係していないのだ。  これ以上罪の意識を持たせていては可哀想だと、冬季は意を決した。  冬季は、何も悪くない李一から償われるなど我慢ならない。 「……りっくん。僕はママのこと、恨んでないよ。これっぽっちも」  沈黙が続いた車中で、切り出しにくい空気ではあったが冬季は李一の横顔を見つめ言った。  すると李一は、それまでほとんど止まることの無かった信号に焦れ、ついに路肩に車を停車させた。ハザードランプを点灯させ、サイドブレーキを踏む。  冬季の方を向いてくれるかと思いきや、李一は思い詰めた表情を崩さず前方を睨んでいた。 「……どうしてですか」 「普通じゃなかったかもしれないけど、僕にとってはあの人がママだったから」 「…………」  ここで少しでも間を置くと慰めに聞こえるかもしれないと、冬季は李一の問いに間髪入れずに答えた。  長考は要らない。本心を言うだけだと、李一の沈黙も厭わず冬季はへらりと笑う。 「しかもりっくんのお母さんだって言うじゃん。もっと恨めなくなっちゃった」 「……冬季くん……」  微笑んだ気配に、ようやく李一が冬季の方を向いた。物悲しく笑っていたらどうしようという不安は、目が合った瞬間に消えた。  冬季はとても真っ直ぐに、李一の目を見つめている。  出会った頃の切ない陰りのある瞳でなく、生気を宿したそれに李一は息を呑んだ。 「りっくんがこの事を知ったら、僕の顔なんか見たくないって……そう言うと思ったんだ。だからバイバイしなきゃって。りっくんはあのお家でひとりぼっちで、寂しかったんだもんね。お母さんのこと……恋しかったでしょ?」 「……いいえ」 「それはお父さんがそう仕向けたからだよね?」 「…………」  幼い口調で核心に迫られ、一度は否定した李一の心が大きく揺らいだ。  認めたくなかったのだ。  父はいつも母を悪く言っていた。憎悪と言っていいほどの感情を剥き出しにし、その場に居ない母の代わりに李一を詰ってうさを晴らしているように見えた。  小さな頃から、顔を合わせる度にそれは続いた。  まるで洗脳のようだという意識はあったが、李一の心に母を恋しく思う感情を父が根こそぎ奪っていたので気が付かなかっただけなのかもしれない。  本当は、母親という存在を肯定したかった。事情があって置き去りにしたのだと信じたかった。  義母が大切そうに我が子を抱き、優しく語りかけている姿を見て、心の奥底では羨ましいと思っていた。  冬季に出会い、諭されるまで、李一は無感情でいることでしか自分を保てなかった。 「ほんとは、りっくんには知ってほしくなかったよ。僕が言わなきゃりっくんを傷付けないって……死ぬまで黙ってようとしてたくらいなんだ。だってまさかりっくんのお母さんが〝ママ〟だなんて、こんな偶然があるとは思わないじゃん」  ね? と眉尻を下げて笑う冬季に、李一が思ったことはただ一つ。  ── 好きです。冬季くん。  冬季には、彼の父と母がすでに他界したことを伝えてしまっている。  昨夜しばらく泣いていたのも、突然突きつけられた両親の死が悲しかったからに他ならない。  それでもなお、冬季は李一のことばかり慮る。  死ぬまで黙っていようとした。それは李一を傷付けたくなかったから──。  そんなにも優しい感情を向けられた李一は、一部始終を知ってさらに冬季のことが愛おしくなった。 「りっくん……? 大丈夫?」 「……はい。すみません、みっともないところをお見せして……」  贖罪の気持ちと、伝えたくてたまらない好意がせめぎ合っている李一は、ハンドルにもたれかかって項垂れていた。  そんな李一の肩に、冬季がそっと触れる。  言葉少なで薄い反応しか見せない李一のことが、心配だった。  思っていることを包み隠さず話したつもりだが、もしかすると下手な慰めに聞こえたのではと不安になってくる。  これまでの李一の寂しさは埋めることは出来ないけれど、罪の意識さえ無くなってしまえば心を縛る枷は減る。  冬季が李一に抱く想いは封じた。  李一は、償いの意味で冬季をそばに置くと言ったからだ。 「……りっくん?」  なかなか顔を上げない李一の肩を、少しだけ揺さぶってみる。それでも李一は「すみません」と言ったきり、さらにまた数分はそうしていた。  次第に冬季の表情も曇っていく。ひどく申し訳ない気持ちになり、李一の肩に触れるのをやめた。  李一はきっと、冬季の想像以上に疲れている。  一日の仕事の疲れを引きずったまま衝撃的な話を聞かされ、あげく冬季を探しにここまで車を飛ばし、往復約一時間かけて徒歩で森を行ったり来たりしたのだ。  そして今現在、普段ならとっくに眠っている時間。精神的にも肉体的にも限界がきたとしても、何らおかしくない。  そのまま眠れてしまいそうなほどの静けさのなか、ハザードランプの点滅音だけが車内に響いている。  少なからずこの状況を招いた冬季は、項垂れた李一を見ていられず前を向いた。真夜中の田舎の道路は不気味だと思いながら、視線を泳がせる。  その時だった。 「……冬季くん、我儘を言ってください」 「え?」  長い沈黙を破った李一は、藪から棒にそんなことを言って冬季を戸惑わせた。  唐突に何を言い出すのかと狼狽える冬季に、じわりと顔を上げた李一が力無く笑う。 「なんでもいいです。……なんでも」 「そ、そんなこと急に言われても……!」

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