90 / 125

10.君のプライオリティ5

◇ ◇ ◇  二人が李一のマンションに帰宅したのは、深夜の四時を回った頃だった。  靴を脱いで一目散にバスルームに向かった李一は、冬季を連れ立ってすぐさま湯を張り、「ゆっくり浸かってください」と言い残して優しく微笑み、出て行った。  結局コートも返さぬままの冬季は、様々な思いがよぎったがおとなしく李一の言う通りに風呂を済ませた。  〝ゆっくり〟と言われたけれど、そう長くは浸かれなかった。いつの間にか用意されていたオレンジ色のボア素材のパジャマに袖を通す間も、むっと唇を引き結び叫び出したい衝動を堪えていた。  何せ体中が熱い。車内の暖房を切ってほしいと願い出るほど、告白の余韻は尾を引いた。  真冬に腕まくりをしていた李一も同様だったらしく、「なんだか暑いですよね!」と笑っていたが、冬季はにこりとも出来なかった。  告白するのが一番照れくさくて恥ずかしいことだと思っていたが、その後の方がより恥ずかしいのだということに気付いた冬季は、帰りの車中がやけに長く感じていた。 「── よく温まりましたか?」 「……う、うん」  全身から湯気が出ているような感覚に陥りながら冬季がリビングへ向かうと、李一は立ったまま淹れたての温かいお茶を飲んでいた。  実家から出る際に持たされたという高級そうな湯呑みを片手に、李一が冬季のそばへ近寄って行く。  その顔には何とも優しげな微笑みを乗せていて、湯上がりにも拘らず冬季の声は掠れていた。 「確認しても?」 「えっ……わ、っ……!」  李一はそう言うと、湯呑みをキッチンに置き冬季の返事を待たずしてふわりと抱きしめた。 「ふふっ、ポカポカになりましたね」 「う、うん……っ」  少し眠そうな穏やかな声が、冬季の耳のすぐそばで聞こえた。  背中を丸め、冬季の体を包み込むように抱いてくる李一の甘さに倒れそうになる。  車を降りてからバスルームに向かうまで、李一は冬季の手を握って離さなかった。「手を繋いでもいいですか?」とお伺いを立てられはしたが、その時も李一は冬季の返事を聞かずに行動に移した。  ── 君が望む以上に甘やかしますよ。  積極的な李一からの抱擁に体を硬直させた冬季は、車中で照れと戦っている間もこの台詞が脳内を駆け巡っていた。 「俺もお風呂に入ってきます。冬季くんのお茶も用意していますので、それを飲んでいてください。上がったら、歯磨きをしましょう」 「う、うん。あ、……ありがとう」  きっとそれは〝一緒に〟ではなく、〝俺が〟という意味だろう。  時には洗面台で立ったまま、またある時はベッドで横になっての診療スタイルで、こうなる前から李一は冬季のブラッシングを嬉々として行っていた。  就寝前の恒例行事となった歯磨きにさえ、ドキドキしてしまう。 「りっくん……有言実行が早すぎるよ……」  李一が飲んでいたものと揃いの湯呑みを手に取ると、冬季はひとり真っ赤になって呟いた。  バスルームから音がする。李一が入浴中なので当然なのだが、勝手に緊張を高まらせている冬季は早くも自爆してしまいそうである。 「え、待って……。僕たち「好き」って言い合ったから、もしかして……付き合うってことになるの? りっくんが僕の……彼氏……? あんな三高のスパダリが……? 僕の……? ひぇぇ……っ!」  想像するとたまらなくなり、温かいお茶をグイと一気飲みした。そして手のひらでパタパタと顔を仰ぐ。  李一の独断と偏見で選んだボア素材のパジャマは、保温機能が抜群だ。なかなか体の熱が冷めない。  冬季が湯冷めしないよう、李一が部屋を暖房で暖めてくれていたが今はとにかく冷気を欲した。  せっかくの厚意を消してしまうと、冬季は早足でベランダへと向かった。普段は日光浴をするために出ていたが、まさか熱冷ましのためにそこを使うなど思いもしなかった。 「あ……気持ちいい……」  頬を撫でる冷たい風が、ひどく心地良い。だがこの体の熱を冷ますにはパジャマを脱ぐしかなさそうだ。  閑静な住宅地に建つここからでは、向かいのマンションに阻まれ月は見えない。緑も少なければ、あそこほど空気も澄んでいない。 「そういや、バイバイして一日も経ってないじゃん……」  冬季は、十数時間前に階下からこの部屋を見上げた時の気持ちを思い出し、何とも言えない感情を抱いた。  出て行く決意を固めてからの時間が、怒涛のように過ぎていった。思い返すのも一苦労なほどだ。  ただ李一に迷惑をかけただけに過ぎないような気がして、あれほど引かなかった熱がスッと冷めていく。 「……ここにいましたか」 「あっ……」  開けっぱなしの窓に気付いた李一が、風呂上がりの色気を纏わせ冬季に声をかける。  振り返った冬季がハッとすると、後ろからぎゅっと抱かれ途端に体内の熱が騒ぎ出した。 「髪も乾かしていないのに。風邪を引いてしまいますよ」 「あ、う、っ……!」  また、耳元で声がする。ベッドで聞くとたちまち冬季の瞼が重くなる李一の声は、今はひたすら体温の上昇を促した。  手を握る時はお伺いを立ててきた李一だが、なぜかよりハードルの高い抱擁は勝手だ。冬季の緊張などお構いなしである。 「……と言いつつ、俺も夜風にあたりたかったのでちょうどいいです。なかなか火照りが治らなくて」 「……りっくんも?」 「はい。熱も無いのに、おかしいですよね。人生で初めての経験です。こんなに体が熱くなるなんてこと」 「こ、こうしてたら、もっと熱くならない?」  硬直し微動だに出来ない冬季が、心臓に悪いのでそろそろやめてほしいという願いを込めて言うも、李一はクスッと笑うに留める。  李一も同じ症状を抱えているはずなのに、声色は落ち着いている。トーンを落とした語り口にもドキッとしてしまう冬季には、李一が自分ほど火照っているようには思えなかった。  これが大人の余裕かと、再び顔を真っ赤にした冬季に、李一は感心したように「よく分かりましたね」と微笑んだ。 「もしかして、冬季くんもそうなんですか?」 「うん、……。せっかく冷めてきたのに、りっくんがぎゅってするから……」  李一のせいでこうなっている、と言わんばかりの発言をした冬季だが、完全に無意識だった。  抱きしめられて嬉しい、という気持ちだけではないのだ。  長引く余韻によって熱が上がっては下がり、下がっては上がり、このままでは冬季の体こそおかしくなってしまう。  こうも真っ直ぐに愛情表現をされると、だらしない過去しか持たない冬季は本当にどうしていいか分からない。 「それは……謝罪した方がいいんでしょうか」  あげく李一は、これが意図的だと質が悪い天然発言を、冬季を抱いたまま平然と繰り出す。  しなくていい、と蚊の鳴くような声で言った冬季をひっしと抱きしめた李一は、やはり冬季よりも軽症だと思わずにいられなかった。

ともだちにシェアしよう!