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10.君のプライオリティ9
◇ ◇ ◇
「……すみません、冬季くん……」
「りっくんが謝ることじゃないよ。僕も気になるし」
ブラックスーツを着用し二割増しで男前度が上がっている李一は、その外見に見合わぬ浮かない顔でシュンと肩を落としている。
一方の冬季は、李一が購入すると言って聞かなかった〝今月の新作〟を纏い、絶え間なく憂鬱なオーラを放つ恋人の背中を撫でていた。
二人は今、なんと李一の実家に居る。
昨夜少しだけ前に進んだ二人は、翌日李一の歯科医院が休診日のためアラームをかけず、清く手を繋いで眠った。
もちろん冬季はドキドキと高鳴る胸を抱えたまま着替えを、その後ひと悶着あった李一は手を洗うという名目でバスルームにこもる羽目にはなったが、なんだかんだ言いつつ疲れ果てていた二人は横になるやすぐに眠りについた。
ところが、普段のアラームの時間よりも早い朝の七時ちょうどに、李一の父親からしつこく連絡が入ったのだ。
「ですがせっかくのお休みなのに……。どうして〝二人で〟来なければならないんでしょうか……」
「たしかにね。僕に話したことが全部じゃなかったのかな、りっくんのお父さん」
「そういえば、父と何を話したんですか? 差し支えなければ教えてほしいです」
「んーっとね、……」
冬季との大切なまどろみの時間を奪われた事にも相当なショックを受けている李一だが、たっぷり睡眠を取ったおかげで頭は冴え渡っている。
一昨日のことにも拘らず、冬季はかなり正確に李一の父との会話を覚えていた。
今現在、二人は年代ものの革張りのソファに並んで腰掛け、不自然なほどにピタリと密着し家主を待っている。
この部屋も李一のトラウマを呼び起こすには充分な父の書斎であるが、冬季が一生懸命に語る横顔を見ているだけで癒やされた。
目覚めてもまだ手を繋いだままだったことに幸せを見出したのも束の間、二人を叩き起こした張本人は約束の時間より遅れての登場らしい。
言われた通り、わざわざ〝二人で〟こうして出向いたのだから、もったいぶらずに早く来てほしい── というのは建て前で、李一は冬季との会話を純粋に楽しんでいた。
「── それは……特段新しい情報というわけではなさそうですね」
冬季が父と接触したと聞いた時は肝が冷えたが、そもそも冬季はほぼすべてを勘付いていたのであまり意味が無かったように思う。
語らった内容というのも、同居理由、冬季の人となり、冬季の両親の生死について、李一の〝母親〟のことくらいだという。
李一の父は、冬季にも、そして李一にも〝二人揃ってでないと出来ない話がある〟と含みを持たせ今日の場を設けたようだが、釈然としない。
腕を組んだ李一は、低く唸った。話というものの見当がつかないのだ。
それは冬季も同様で、畏まったスーツ姿の李一に見惚れながら頷いた。
「そうなんだよね。……僕、聞けずにいたんだけど、りっくんはお父さんに話を聞くまで何にも知らなかったんだもんね……。すごく驚いたでしょ?」
「え、えぇ、まぁ……」
「大丈夫? りっくん、もう平気?」
「あぁ……俺は……。冬季くんが、すべてを知った上で俺のことを好きだと言ってくれたので、それで何とか相殺しようとしています。……気持ちをね。俺は、冬季くんの方が心配です」
李一の贖罪の気持ちは未だ心にある。気持ちを確かめ合ったからと、忘れているわけでは毛頭無い。
そのことについて何日でも話し合う気でいたが、李一がそれを切り出すや冬季は「必要無い」と一刀両断した。
あの告白がすべてだろう、と。
だが、そうそう容易い問題ではないと李一は食い下がろうとした。それでも冬季は引かなかった。
どんな形であれ母の罪を償うつもりでいた李一は面食らい、〝冬季くんは意外と頑固なんだな〟などと斜め上なことを思うと、さらに冬季のことが好きになってしまった。
「……そりゃあパパとママのことを考えると悲しいけどね。ワッて泣きたくなっちゃうから、あんまり考えないようにしてる」
「冬季くん……っ」
「でも」
冬季はそこで一息つくと、李一の方を向き彼の温い手を握った。
両親が知らぬ間に他界していたなど、易々と受け入れられるわけがない。
幼い冬季への仕打ちはとても許容出来ないが、この世に冬季という人間を生み出してくれたことには感謝したかった。逆を言えば、彼の実母と実父に伝えたいのはそれだけである。
「でもね、りっくんがそばに居てくれるなら、僕も大丈夫」
アーモンド型の綺麗な瞳を細めて微笑む冬季が、そう言って李一の手をギュッと握った。
── この笑顔を守るためなら、俺は何だってする。
ふいに悲しくなった時、声を上げて泣いてしまいそうになった時、自らを傷付けたいという衝動に駆られた時……我慢強い冬季の心の侘しさに敏感に気付いてあげなければと、李一は強く思った。
決意を込めて冬季の手を握り返すと、李一の胸にこてんと頭を寄せてきた。たったそれだけで、虫も殺さぬような顔をした李一の心臓がドキンと跳ね上がる。
思わず昨夜のことがチラついてしまうような儚い横顔に、ただでさえドキドキしていた李一だ。
ここがどこだか、誰のために休日を返上したのか理解しているからこそ、抱きしめたい衝動を抑えていられる。
「あ、……あの、冬季くん。その言葉も、距離が縮まったことも嬉しいんですが、そう無防備に迫って来られると……」
年甲斐もなくドギマギしている李一は、やたらと密着してくる冬季にタジタジだった。
実は李一は、昨夜冬季の射精を促した後のひと悶着がまだ尾を引いている。
それを知ってか知らずか、冬季は先ほどよりも顔を近付けて李一に微笑んだ。
「なになに、また想像が膨らんじゃう?」
「こ、こら、大人を揶揄わない。昨夜はあんなに恥ずかしそうにしていたのに。立ち直るのが早くないですか?」
「誰かさんが触らせてくれなかったからなー。僕もりっくんの触りたかったのに。立ち直ったっていうより、拗ねてるって言った方が正しいかも」
「……こ、こらこらっ、冬季くん! それ以上はやめなさいっ」
ふふっ、と可愛く微笑み続ける冬季に、李一は精一杯怒った顔をして見せた。
しかし真っ赤になって顔を背けたのは、冬季の可愛さに負けた李一の方だ。
冬季は確信犯であると、ようやく気付いても遅い。
冬季の嬌声を聞きながら彼の性器を直で握り、精液を舐め、気が済むまでキスをした後のこと。
李一が前屈みになっていることに気付いた冬季が、「僕もりっくんの触りたい」とゴネ始めたのである。
そんなことは、李一の計画表には記載していなかった。
もしかすると冬季の方があらゆる経験を積んでいるのかもしれないが、李一にも大人の意地がある。
迫り来る冬季に、『それは、俺たちの関係がより深まっているであろう再来月くらいにお願いします』と融通のきかない一言を残し、李一はバスルームへと消えた。
そう、李一は大人げなく詭弁を使ったのだ。
冬季がそれを根に持っているとは思いもしなかったが、擦り寄られて悪い気はしないので完全には怒りきれない。
出来ることと言えば、せいぜい〝もう勘弁してください〟の意を込めて目を細めることくらいだ。
「……僕、りっくんの叱り方好き」
「またそういう事を……」
「ほんとだよ。優しい声で「こら」って言いながら睨んでくるの、キュンッとしちゃう」
「冬季くん……君って人は……」
「えへへ……っ」
結局は惚れた方の負けなのだなと、李一は冬季の照れ笑いを見て思った。
冬季が喜んでしまうので、怒りにくくなった。
明日以降、またも冬季が李一を過剰にドギマギさせた場合はどうしたらいいのか。どう対応すれば冬季がキュンとならないのか、頭が固い李一にはさっぱり分からなかった。
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