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10.君のプライオリティ11

 死に顔を見る勇気は無かったかもしれないが、せめて、せめて、最期くらいは……との思いに駆られていた。  冬季への虐待行為も、彼の心に負わせた深い傷も決して許せはしない。李一がどれだけ慰めたいと努力しても、彼の心体に残った傷を癒やすのは不可能に近いからだ。  だがそれにしても、淡々と語る父は冷たすぎやしないかと歯痒さを感じ、李一はギリリと奥歯をすり減らす。  関係無い、今さらだと突っぱねるのは簡単だった。だがたったあれだけのことで、ついに李一の心に母への情が湧いてしまった。  冬季に悪いと胸を痛めつつ、唇はおろか絞り出す声まで震えてしまいそうだ。 「手紙は二通あったのだ」  珍しく声を張った李一を冷静に見やる父が、ついに核心に迫る一言を言い放った。 「それは……どういう……」 「一つは私宛て、もう一つは〝子どもたちへ〟」 「…………」 「…………」  それは紛れもなく、李一と冬季、二人のことを指している。  刹那、李一は冬季の手をぎゅっと握った。  母が二人について何かをしたためた事実があるならば、それぞれに対しどんな行いをしたかも当然理解し、記憶から消すことなく覚えていたという事になる。  病に倒れた母が、決して許されない罪を犯していたことに果たして向き合っていたのか、微かな情が湧いたとはいえ根強い洗脳が李一に猜疑心を抱かせた。  無意識に冬季の手を握ってしまった李一は、何より彼の心情が心配だった。  父がそっと、席を立つ。向かったのは窓際にある年季の入った焦げ茶色のエグゼクティブデスクで、迷わず二段目の引き出しを開けると一通の封書を取り出し、並んで掛ける二人の前にそれを静かに置いた。 「これがお前たち宛てだ。読むも読まないも好きにしろ」  李一は仏頂面の父を見上げていたが、冬季は置かれた封書を見てゴクンと生唾を飲み込み、呆然と呟いた。 「……マ、ママの字だ……」 「え……」 「ママ……っ」  その悲しみと寂しさの混じった苦しげな声で、冬季がいかに〝ママ〟を欲していたかが窺い知れた。  李一の手を痛いほど握りしめ、もう片方の手のひらで顔面を覆った冬季は、我慢の限界を超えたようにわあわあと泣きじゃくった。  小さなリュックサックの背中部分に書かれた名前を愛おしげに撫でていた冬季は、封書に書かれた母の字に真実を見た。  嘘偽りなく〝ママ〟が書いたものであると、その瞬間に分かってしまったのだ。  それと同時に、亡くなってしまったという事実も現実味を帯びた。「泣きたくなるから考えないようにしている」と強がったのは、信じたくない気持ちでいっぱいだったのだと、こうなってしまうから考えたくなかったのだと、冬季はしゃくりあげて泣く子どものように声を上げて涙した。  同じく狼狽していた李一は、そんな冬季を抱き寄せることしか出来ずにいる。  冬季の受けた傷を思うと、どうしてそこまで母親という存在を恋しがれるのか理解に苦しんでしまった。  母を憎んでなどいない、償いなんか必要無いと言った冬季の言葉は、あれこそが彼の本音だったのかと驚きを隠せなかった。  抱き寄せた冬季が、李一の胸の中で悲痛な声を上げている。  李一にはとても慮れないほどの気持ちを、とうとう溢れさせている。  慈悲深い、寛容である、情け深い── そんな類語をいくら並べたところで、冬季の心の温かさは表現出来ないと思った。  子が親を頼り恋しがる気持ちに、血も年月も状況も関係ないのだということを、自身の過去と擦り合わせた李一はようやく一粒の涙を流す。  寂しかった。本当は、とてもとても寂しかった。  なぜ自分には母が居ないのか。なぜ邪険に扱われるのか。なぜ冷たい言葉しか耳にできないのか。なぜ抱きしめてもらえないのか。なぜ……。  なぜ、いつもひとりぼっちなのだろうか。  このまま死ぬまで誰にも愛してはもらえないのだろうか。  つまりは不要な人間、ということなのだろうか。  だったら一生、独りでいい。  だったら一生、自分を傷付けて可哀想な悲劇のヒロインを演じていればいい。  李一は、愛す事と愛される事を諦めた。  冬季はひたすら、愛される事に執着した。  同じ母から受けた心の傷がいかに深く悲しいものだったか、冬季を抱いていた李一にはそれがはっきりと見えてしまった。  冬季がその筆跡で母の面影を見たように、李一の胸にも耐え難い切なさが込み上げていた。 「── 私宛てに綴ってあった内容を話そうと思ったんだが、どうする。お前たちがそんな状態では聞かん方がいいか」  父がこんなにも穏やかな口調で話せる人だとは知らなかった。  まるで二人が互いの傷を慰め合うように泣いている姿を見て、父の心も揺れたのかもしれない。  それほどまでに冬季は嗚咽し、李一もさめざめと悲しんだ。  ── もういい、もう俺たちを……冬季くんを傷付けないでくれ……。  李一は溢れる涙を指先で拭うと、冬季の髪にキスを落とし「冬季くん」とやや掠れた声で静かに名を呼んだ。 「冬季くん、……俺はこの父も、この手紙も、未だ信用なりません。どんな話を聞かされるのか、どんな内容が綴られているのか、俺は少しも気になっていません。君がこれ以上傷付いてしまうことだけは避けたいんです。もう……帰りましょう」  抱き締める腕に、握った手のひらに、力を込めた。  真実など今さら知って何になるのか。  ただただ傷付き、愕然とするばかりで、やりきれない思いが増すだけだ。  李一自身はもちろん、泣きながら李一の声に耳を傾けている様子の冬季も、それ以上の真実を追い求めても傷が深まる一方である。  ところが、腕の中の冬季は首を振った。李一の胸元を掴み、手のひらをきゅっと握り返してきた。 「どうして……っ! 俺たちには関係ない、冬季くんはそう言ってたじゃないですか。無理しなくていいんですよ」 「ちが、……むりじゃない……っ! 聞かなきゃ……! りっくんっ、お母さんからの最初で最後の手紙だよ、読んであげよ……っ?」 「……ですが……っ」 「僕は読めない……とても、そんな勇気ない……っ。だからりっくんが代わりに読んで、……っ、おねがい……っ」 「…………」  ── お母さんからの最初で最後の手紙……。君はそういう風に捉えてるのか。どんな内容が書かれているかも分からないのに。さらに傷を増やしてしまうかもしれないのに……。  〝読めない〟のは李一も同じだった。  冬季の純真な心に従ってやりたいが、言葉に詰まる。  喉元で引っかかった台詞を声に出せないまま下唇を噛んだ李一の胸元で、ふいに冬季が動いた。 「りっくんの、お父さん……」 「なんだ」 「僕は、耐えられますか……? 僕に耐えられるような内容、ですか……?」 「うむ、……。冬季が耐えられるか耐えられんかは、私では推し量れない」  しゃくりあげながら父に問うた冬季に、いつもあと一歩が踏み出せずにいた李一には無い、性根の強さを感じた。  李一が驚きを持って見下ろすと、顔中を涙で濡らした冬季がおずおずと顔を上げる。そこには、何か言いたそうな視線があった。  父の発言の意味が分からない、そう察知し、李一は冬季の前髪をかき上げてやりながら答えた。 「── 話を聞いて、君が傷付いてしまうかどうか……父では判断ができないということです」

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