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10.君のプライオリティ12
それでも冬季は、涙でたっぷりと潤んだ瞳で李一を見上げ、引き結んだ唇を震わせた。
「── 場所を移す。ついて来い」
二人の様子を見ていた父が、言うなり書斎を出て行った。玄関の方で「行ってらっしゃいませ」と声を掛けられているのが、耳を澄まさずとも聞こえた。
「……りっくん、お父さんがついて来いって……」
「はい。……冬季くん、立てますか?」
「うん……」
李一はポケットからタオル地のハンカチを取り出し、置き去りの手紙を横目にびしょ濡れの冬季の顔をまんべんなく拭った。
立ち上がった冬季はその瞬間こそよろけてしまったものの、李一の支えを断って自力で歩き、扉へと向かっている。
数秒立ち竦んだ李一はというと、手紙をジッと見下ろしていた。
「りっくん……?」
「…………」
扉の前で振り返った冬季が、その場で下方を向き固まっている李一を呼んだ。しかし反応が無い。
「……持ってきてあげてね」
「……はい」
察した冬季からそう言われると、李一は躊躇していたのが嘘のようにすんなりと手紙を手に取り、コートの内ポケットにそれを直し込んだ。
すべてとは決して言わないけれど、李一の心根には〝冬季の願いを叶えてやりたい〟という強い思いがある。
父にもおそらくそれがバレてしまい、李一が冬季の意見に従うものだと判断されたことが、場所を移す動機になった。
まだ出来たての浅い関係性にも拘らず、李一の父は二人の関係性を見破ったのだ。
それほど敏い人間ならば、もう少し幼き心を省みてほしかったと苦笑し、李一は冬季のそばに立った。
「……どこに行くのかな。りっくんのお父さん、外に行っちゃったよね?」
いくらか落ち着いた冬季からふと見上げられ、その華奢な肩を抱き寄せた李一が苦笑を浮かべたまま答える。
「エンジンの音がしますので、車で移動するんでしょう。……行き先の予想はつきますが」
「え、どこ? どこに行くの?」
その問いには答えず、李一は誤魔化すように冬季のおでこに口付けた。
そう何度も涙を流させたくなかったのだ。
◇
李一の父は、所有する三台の車のうちショーファードリブンカーであるとっておきの後部座席に、二人を乗せた。
なんと彼自身は助手席に乗り込み、運転手をひどく緊張させつつ、四十分ほどかけてとある場所へと到着した。
吹き抜ける冬の風がより冷たく感じるほどの拓けたそこは、周囲が森に囲まれており何とも静かだ。
「ここは……」
降り立った冬季が辺りを見回しているそばで、予想が当たったことに複雑な思いでいた李一はもう一つ、不思議な既視感を覚えていた。
「── お前たちの母親が、ここで眠っている」
「…………」
「…………」
それほど大きな建物というわけではないが、緑の中に建つには異様なほどに真っ白なそこへ、父は入って行こうとしなかった。
駐車場の隅まで歩いて向かい、柵越しに見える森の様子をただひたすら眺めている。
この場所の静けさや景観、そして父の言葉で冬季も悟ったに違いない。
父と同じ方を向き、隣に立つ李一の服をぎゅっと握って何かを耐えていた。
ここへ辿り着く前に、李一は二度、〝ひかり霊園〟と書かれた看板を見た。走り書きされたメモ紙と同じ表記を、忘れるはずがなかった。
── あぁ……昼間はこんな風なのか。
さらには、そのありきたりな景観を冬季と眺めていてようやく、〝既視感〟の原因が分かったのだった。
そこは、李一が見つけた心を落ち着けるためのリフレッシュの場であり、冬季と出会った思い出の場所から程近い。歩いて下って行けば、いずれあの橋へと行き着くだろう。
李一は明るいうちに訪れた事がなかったため、はじめは「似ているだけだ」と思っていたが、車が目的の場所へ向かってゆくごとに「やっぱりあそこだ。あの道だ」と確信した。
母が無縁仏として葬られた場所と目と鼻の先であるそこに、李一と冬季は偶然にも訪れていたのである。
「── 私宛ての手紙には、私への謝罪と、弔い方法を嘆願する旨が綴られていた」
しばらく無言で景色を眺めていた三人だったが、ようやく父が口を開いた。
昔から言葉少なな父が、李一の内心の希望通り手短かに話そうとしてくれている。
だがもはや、心が追いついていける気がしない。
李一は縋るように冬季の手を掴み、握った。
「……そうなんですか」
「…………」
「それと、私を裏切った理由、そして冬季へ虐待を行ってしまった理由、李一への詫びだ」
「…………」
「…………」
淡々とした口調ながら、過去に一度として感じたことのない気持ちの揺れをその声色に感じた李一が、またも言葉を詰まらせる。
手のひらを握り返してきた冬季が李一に寄りかかってきたのは、暖を取りたいがためではない。とうとう聞かされる〝話〟に、武者震いしたせいだ。
「一つずつ、話していただけますか」
「……あぁ。まずは私を裏切った理由だが。あいつは学生時代からの友人だった冬季の父を好いていて、私との子……つまりお前だな。お前を孕んだとしても私のもとには来ないと常々言っていた。産んで一週間も経たずに李一を置いて病院から脱走、それ以来行方知れずだ。どこへ行ったかなど分かりきっておったが、私は一人の女をみっともなく追いかけるような真似はしなかった」
「…………」
「…………」
母が父にそう断言していたのなら、〝裏切り〟にはあたらないのではないかと李一と冬季は同時に顔を見合わせた。
李一を置いて行ったのも、母はどうしても冬季の父と添い遂げたかったがため。
今さら驚きも傷付きもしない話だが、冬季はすでに泣きそうな顔で李一を一心に見つめていた。
眉尻の下がった可哀想な表情に庇護欲をそそられながら、李一はふと思う。
では冬季の母は、いったい誰なのだろう。
両者の年齢を考えてみても、母が冬季を産んでいたとしてもおかしくはない。冬季の父の連れ子というのが誤情報であれば、〝まさか〟があり得てしまう。
たとえどんな真実であろうと李一は冬季を離しはしないが、念のため確認を取った。
「あの……冬季くんは本当に母の子ではないんですか?」
「違う。冬季は、あいつの妹の子どもだ」
「えっ!?」
「えっ!?」
ピシャリと即答され、李一と冬季が揃って驚きの声を上げた。
尋ねたくとも〝知らん〟と返されてしまえば終わりで、それが分かっているからこそ冬季はこれまで彼の実母についてを一度も口にした事がなかった。
異父兄弟でなかったことにホッと胸を撫で下ろした矢先、従兄弟である可能性が出てきたことに李一は驚愕した。
「そ、それじゃあ俺たちは従兄弟、ということになるんですか……?」
やや複雑そうな人間相関図を脳裏に描き、恐々と問う李一の視線はまっすぐに父を見ていた。
「それも違う。あいつと妹は十三も歳が離れておって、血は繋がっていなかったはず。妹は確か……新しい父親の連れ子だった。他にも幼い兄弟が三人はいたと言っていたか。複雑な家庭環境でな、あいつが水商売で家計を助けていたのだ。……私のもとに来れば苦労せずに済んだというのに」
「…………」
「…………」
「冬季の前でこんなことを言うのはどうかと思うが、お前の父はギャンブル依存症でそのうえ女癖もかなり悪かったようだ。あいつも共にギャンブルにのめり込んだせいで、いつもムシャクシャしていたのだと思う。それにな……仲が悪かった妹によく似たお前を見ていると、感情が抑えられなかったのだそうだ。高校一年で冬季を身ごもり、育てられないからと産むだけ産んで好きな男に押し付けた妹に、激しい嫉妬心と怒りが湧いていたと……これが我が子であったらとよぎりはしても、止められなかったのだと綴ってあった。まったく……自分のことを棚に上げて」
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