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10.君のプライオリティ14
◇ ◇ ◇
頭に血が上るという表現は怒りの感情にのみ使うものではなく、体内の血流、血圧の上昇を引き起こすような他の急激な感情の変化さえあればそれに準ずる。
冬季は、李一の父が改まって語った内容に動揺しなかったわけではない。当然だが実母が存在していると知り、考えないようにしていたうちの一つであるその事実は、義母からの虐待の記憶が霞むほど冬季の胸を衝いた。
だがそれ以上に、情けない言い方でしか鬱憤を晴らせない男に腹が立って仕方がなかった。
その時の冬季こそ頭に血が上った、いわゆる興奮状態であった。
「ありがとうございます。ありがとう……冬季くん……。ありがとう……」
二人きりになると冬季から少しも離れたがらない李一が、相手の困惑に気付かぬフリで昨日に増して勝手を強行している。
帰宅するや冬季を後ろから抱きしめ、肩口に顔を埋めた李一は切々と感謝の言葉を口にした。
何度もだ。
「り、りっくん? 僕何かした……?」
「君には一生頭が上がらない……。それに、こんなにも優しくて熱くて……温かな心を持ってる君のそばに居るのが、俺のような男で申し訳ないと思います……。そばに居てほしいですし、もちろん俺も冬季くんのそばに居たいんですが、あまりにも君が無垢で強くて……なんだか気後れしてしまいます……」
「はい〜〜っ?」
冬季に対し何も隠すものがないからと、李一はこれでもかと卑屈な思いを吐露した。
父に抑圧されてきた李一がそういう性格になってしまったのは、致し方ないと同情できる。しかし冬季は聞き捨てならなかった。
「僕がりっくんのそばにいたいの! ここに居ていいって言ったのも、好きなだけ甘やかしてやるぜって言ったのもりっくんなんだから、責任取ってよね!」
告白後も、李一は何かと「母の罪を償う」と言って冬季を困らせた。
そんなつもりで李一のそばにいることを選んだわけではないと散々言い、その話をしたら怒る、とまで言ってようやく李一を引かせたというのに、彼は根っから自分に自信が無いらしい。
冬季は、李一のことが好きになったのだ。
心までとろけそうなほど優しい性格と、何もかもがタイプの彼の見た目に完全にやられてしまった。
申し訳ないなど、何なら冬季の方が李一に対しそう思っている。
だが冬季は、ムッとして言い返した直後、李一が離れていった気配に〝しまった〟と苦い顔をした。
今のは完全に自惚れによる失言だと、冬季は慌てて振り返る。しかし今度は別の意味で〝しまった〟と思った。
冬季を見下ろし、両肩をガシッと掴んだ李一が玄関先なのも忘れて「もちろんですよ!!」と大声を出したのだ。
「当たり前じゃないですか! もちろん責任は取ります! 実は昨日から養子縁組についてを調べ始めました! 俺は、君さえ良ければ遠慮なく、とことん縛りたいと思っています! 白状すると、今日本当は指輪を見に行く予定でした!」
「え、ちょっ、りっくん……養子縁組? ……指輪?」
「そうです! 冬季くんの左手の薬指は俺のものなので! 俺たちが家族になるにはこの国では養子縁組という方法しかありません! パートナーシップ制度は婚姻制度とは別もの(2022年現在)らしいので様子見で……むぐっ!」
「わ、分かった! りっくん、分かったから落ち着いて!!」
大声で捲し立てる李一の口を、冬季は文字通り慌てて塞いだ。
おそらく李一の声は、隣近所に筒抜けだった。それほど李一は興奮気味に、重たい愛情を冬季に伝えたわけだが、さすがの冬季も羞恥心には勝てない。
いそいそと李一の背後に回り込み、「とりあえず上がろ」と冷静に彼の背を押した。
腹が満たされていた二人は、それから交代で風呂を済ませ、その後は李一による毎夜恒例のブラッシングを終えてベッドルームに落ち着いた。
毎晩十時前には寝支度を整える二人が、時計を見て同時に吹き出した。
なんとまだ、二十時を過ぎたばかり。幼子を寝かしつけるような早い時間だった。
「冬季くん、眠れますか?」
「あはは……っ、分かんない」
そう答えたものの、今日はハードな一日だったので横になった瞬間に意識は飛んでしまうかもしれない。
李一の温かな体温で全身を包まれ、「おやすみ」と眠気を誘う低い声で囁かれた日には、寝付くまできっと五分とかからない。
ベッドに腰掛けた李一の隣に、冬季はちょこんとお邪魔した。
問うた李一こそ眠れないようで、少しの間彼は開け放したカーテンの隙間から窓の外を眺めている。
李一は、それに付き合う冬季の肩をそっと抱き寄せた。
「何度も言って鬱陶しいかもしれませんが、……ありがとうございます」
「ううん。僕は何もしてないよ」
そんなことないです、と困ったように笑う李一に、冬季はニコッと笑ってみせた。
〝何もしていない〟── これは冬季の本心だった。
恐々とだが李一の父のもとへ赴き、話を聞き、母の面影をひどく恋しく思いはしたけれど、言いたいことを言ってスッキリしたのは確かだ。
なぜそう冷たくあたられるのか、その理由が分からず長年悲しい気持ちで過ごしていたであろう李一のため。
好きだった女性に捨てられた事を認められず、〝裏切られた〟事にして息子に八つ当たりをし続けた父の考えを改めさせるため。
両親が亡くなってしまっている冬季は、自身の過去も生い立ちも、今までがそうだったように過ぎた事だと割り切ることが出来る。
けれど李一は違う。
彼の父は、李一によく分からない借金の返済を迫り、縁を切るのも断固反対。切っても切れない血と金の繋がりを武器に、身を守る盾を持たない李一を一生苦しませ続ける気でいるのなら、到底許せないと思った。
ガツンと言ってやる、という気概でいたわけではなかったのだが、つい〝頭に血が上った〟結果── どうやら冬季は父に気に入られてしまったようだ。
ひかり霊園をあとにした後、父は実家へと戻らず、贔屓にしている小料理屋に二人を連れて行った。
そこでは決して争いが生まれそうな空気は無かったものの、妙な時間に食べた色とりどりの豪勢な夕食の味を、冬季はあまり覚えていない。
父の口から語られたさらなる〝話〟に、熱心に耳を傾けていたためであろう。
それはおそらく李一も同様だったに違いない。
なぜなら彼は、しっとりとした大人の顔でそこでも静かに涙を流していたからだ。
「── お母さんは……りっくんのこと忘れたことなかったんだね」
「…………」
「良かった。……ほんとに良かった……」
心底安堵した声でそう言った冬季を、李一は感極まったように抱き寄せた。
冬季は李一の胸に体を預け、広い背中に腕を回し優しくさすって彼の心を宥めていく。
父宛ての手紙には、〝李一のことを忘れたことは一日だって無い〟と書かれていたそうで、それを聞いた瞬間に李一の涙腺は崩壊した。
隣で聞いていた冬季も、「良かった」と溢し共に涙した。
捨てられた子だと思い込まされていた李一は、その言葉を聞くまで母に対し本当に恨みの感情を抱いていたのだ。
一度も会えずじまいだったが、李一は母からきちんと思われていた。それが分かっただけでも、寂しく空しい幼少時代を過ごした李一の心はきっと、救われた。
さらに、非常に険しい顔付きではあったものの、李一と母を中傷し続けた父自らがその事を伝えた意味は大きい。
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