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10.君のプライオリティ15

 李一が何度も「ありがとう」と冬季に感謝の言葉を述べたのも、冬季の存在がその真実と機会を引き寄せてくれたのだと本気で思っているからこそである。  冬季自身はそんな大層なことをした覚えはなく、むしろスッキリしたとはいえ目上の者……しかも恋人の父親に啖呵を切ったのはよくなかったと反省していた。  そういうところが未熟なのだろうと、冬季は自身の顔を李一の胸に押し当て、ぎこちなく甘える。 「冬季くんへの謝罪もあったそうで……。母が前科者にならなかったのは、幼い君のたっての希望があったからだとは……。当時から冬季くんは、本当に母のことを恨んではいなかったという事、ですよね……」  冬季の髪を優しく梳きながら語る李一の声に、うっかり鼻の奥が痛くなってしまった。  父が語った母からの手紙には、李一への思いともう一つ、冬季への虐待行為を悔いている内容が記されていたというのだ。  幼い冬季に、施設職員は問うた。〝今までどんな事をされてきたか、覚えているだけ教えてほしい〟と。しかし冬季は、涙を浮かべて「僕が自分で転んだ」、「僕が自分でぶつけた」と言い張ったそうだ。  当時の冬季に、母が法律で罰せられる対象である事など知る由もなかった。ただただ、この大人たちによって母が咎められないことを願い、誰にでも分かるような嘘を吐いた。 「……施設の人とそんな話をしたなんて、僕は全然覚えてないんだけどね……」 「君が母を庇ったことで、母も……離れてから気が付いたんでしょう。とんでもない事をしていたと。だからと言って許さなくてもいいんです。……ですが、死ぬまで後悔していた、というのは信じてあげてほしい……です。俺がこんなことを言うなんて、傷口に塩を塗り込んでいるようなものなんでしょうが……」 「ううん、そんなことない。それに僕は、最初から言ってたよ? ママのこと恨んでもないし、怒ってもないって。ぎゅって抱きしめてほしかったなぁとは、今でも思……っ」  冬季の髪を撫でていた李一は、二度と叶わぬ切ない我儘に胸を打たれ、その体をきつく抱きしめた。 「俺が抱きしめます……っ! 俺が母の分まで……っいいや、それ以上に!」 「あははっ。ありがとう、りっくん。じゃあ僕も、お母さんからしてもらえなかった分、りっくんをいっぱいぎゅってするね」 「……っ、冬季くん……!」  ベッドサイドに腰掛けた二人は、痛みを伴うほどの熱量で互いの体をかき抱いた。  華奢な冬季には苦しいまでの抱擁だったが、李一の声、そして心なしか速い心音に心をときめかせた。  受けた傷は痣となって残りはしているけれど、母と過ごした短い数年の時間を否定しなくてよくなった。贖罪の気持ちで蘇らせていたとしても、母が冬季を忘れないでいてくれた事が嬉しくてたまらなかった。  何より、その血を引く李一が今こうして抱きしめてくれている。  出会ったばかりとは思えぬほどに重たい愛情を引っ提げ、冬季と対峙してくれている。  二ヶ月前まで〝死にたい〟が口癖だった冬季は今、〝こんなに幸せでいいのだろうか〟と命ある喜びに嬉し涙を溢してしまいそうだった。 「……りっくんのお父さん、今頃ちゃんと泣いてるかなぁ」  窓際の動物園に見守られながら、無言で抱き合っていた二人の沈黙を切ったのは冬季である。  李一の体温と自身の鼓動で熱が出てしまいそうで、そっと彼から離れて布団を捲った。  冷たい布団の感触にニンマリと笑みを浮かべた冬季の背後で、李一も動く。 「それはどうだか分かりませんが……。冬季くん、少し気になったことを伺っても?」 「うん?」  定位置に落ち着いた冬季はころんと横になり、そんな冬季を李一がやや複雑な表情で見下ろした。 「その……父との距離が近くありませんでしたか? そう長く車中では会話をしていなかったと話していましたよね。それなのに、どうしてあんなに父に対し一切物怖じしていなかったんですか? 兄弟たちも、成宮の親戚も、義母でさえも父にはあんな物言いをしません。皆、父のことが怖いからです」  何気なく見上げた先には、異国の血でも入っていそうな端正な顔があった。暗がりで見る李一の顔は、たとえどんな表情をしていても冬季には色っぽく見えてしまう。  李一は頬に落ちる髪を耳にかけ、答えるのを一瞬渋った冬季を穴の開くほど見つめている。  ただしそうしていると、やはり思い出すのだ。  初めて彼の父を見た際、ほぼ確実に李一の血縁だと確信を持った冬季だが、それが何故かを白状するのはかなり無神経である。 「……言っても怒らない?」 「えっ、俺が怒りそうな理由なんですか?」 「い、いや、怒るっていうか不快な気持ちになるかもしれないなぁって」 「不快に……?」  首を傾げた李一に「うん」と頷いた冬季には、分かっていた。  李一はおそらく、気分を害するだろう。「それでも聞きたいです」などと興味津々の瞳を向けてきたものの、冬季は躊躇った。 「じゃあ言うけど、あの……似てるんだよ。りっくんとお父さん……」 「えぇっ!? 俺と父が!? に、似て……?」 「それで、初対面の時からあんまり怖くなかったっていうか……。たしかに表情とか声とかは全然違うんだけど、そもそもの顔が似てるんだもん……。全然、怖いとは思わなかったよ」 「か、か、顔が似ている……っ?」  もはや李一は、冬季の話を聞いていなかった。「俺と父が……?」と絶句し、何度かまばたきを繰り返した後に冬季とは視線が合わなくなる。  さっきの今で、積年の恨みを晴らせたとは到底言えないだろう男と似ているなど、とても李一には受け入れられない理由だった。  冬季が若干照れくさそうに打ち明けたのもよくなかった。  ひと睨みで周囲を黙らせ、仏頂面でしか生きてこなかったような李一の父は、今もなお誰からも恐れられる人間だ。  物怖じしないどころか「怖いとは思わなかった」とまで言わしめる要因を、李一は考えていた。  一方の冬季はというと、その目に微かな嫉妬を滲ませていることなど露知らず、逡巡する李一の顔に見惚れている。 「そういえば君は、俺から怒られるのが好きだと……」 「そうなんだよ! だからさ、りっくんのお父さんがいくらムスッとしてても、歳取って渋くなったりっくんが怒鳴ってるみたいで……うむッ!」  李一が背中を丸めた拍子に、ギシッとベッドが軋んだ。  無神経だからと躊躇していたとは思えない快活さで、笑みまで浮かべた冬季はその瞬間に唇を塞がれていた。 「聞かなければ良かったです。最悪です。あの父と似ているだなんて……」 「かっこいいって言ってるんだからいいじゃん! ていうかやっぱり怒っ……ンッ」  険しい顔付きで冬季の腹を跨いだ李一が、再び唇で言葉を遮る。  冬季の下手なフォローは、何の意味も成さなかった。 「やめてください。それはすなわち、父のこともかっこいいと言っているようなものです」 「う、……っ!」  昨夜と同じ体勢でのキス、さらには心臓に悪い李一の静かな怒声が冬季の心を激しく揺さぶった。

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