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10.君のプライオリティ20

◇ ◇ ◇  十九年間生きてきて一番濃い一日だった昨日を、李一との蜜事で締めくくった冬季は、射精後すぐに落ちてしまい朝まで目覚めなかった。  瞼の裏が明るくなり、薄っすらと目を開ける。  少し前から李一の話し声がしていて、その美声によって覚醒した冬季の視界にまず飛び込んできたのは、窓際の動物園。朝陽に照らされ、プラスチックの動物たちがキラキラと輝いている。  そこからやや左斜めに視線を移した冬季は、愛おしい寝癖付きの年上の恋人が誰かと通話しているところを捉えた。 「── はい、……えっ!? それはおめでとうございます! ……えぇっ!? それは大変じゃないですか! ……あぁ、はい。うん……そういう事情なら仕方がないですよ。気にしなくて大丈夫です。……はい、……はい、……」  スマホを耳にあてがい窓際に移動している李一は、何かにひどく驚き、通話相手を労っている。その声色から、相手は確実に彼の父ではない。  半開きだった目をパチッと開いた冬季は、起き抜けのパジャマ姿でもやけに色気のある恋人の横顔を見つめた。 「……まずは体を大事にね。もう一人の体じゃないんですから。……はい、……」  その後も数分会話が続き、「お疲れ様でした」という言葉を最後に通話を終了した李一が、窓の外を見てふぅと溜め息を溢した。 「……りっくん? どうしたの?」 「あぁ、すみません。朝から大声出してしまって。起こしてしまいましたね」  冬季の声に反応した李一が、振り返りざまに「おはようございます」と微笑んだ。  窓際に居るせいで後光が差しているように見え、冬季も「おはよ」と返したのだが眩しく、そばに寄って来てくれてはじめて李一の顔をまともに見ることができた。  眩しそうに自身を見やる目と視線が合った李一は、まだ寝ぼけていそうなとろんとした表情の冬季の髪を撫で、「何かあったの?」と問う彼の傍らに腰掛ける。 「開院当初から勤めてくれていた助手さんが妊娠されたそうなんですが、予断を許さない状況らしくご実家に戻られるそうなんです」 「えっ……予断を許さないって……大丈夫なの?」 「今は絶対安静だと。妊娠初期だそうですから。彼女のご実家が他県なので、急ではありますが退職させてほしいとの事で俺に連絡が」 「そうなんだ……」  時刻は八時ちょうど。  思い出すと赤面してしまいそうな行為をしたのが、約十二時間前。睡眠薬を必要とせず、これほどたっぷりと睡眠を取ることができたのも、李一のおかげだ。  どうりで頭がスッキリしているはずだと、李一の手のひらに自身の手を重ねた冬季は、甘えるように大きな手のひらを頬に押し当てた。  通話相手が、彼が院長を務める医院のスタッフだと知り、安堵と同時に微かな嫉妬が生まれた冬季は情けないほどに狭量である。  新しい命が危険な状況にあるという事なので、本当にそれは微かなのだが。 「……スタッフさんが一人減っちゃうって事?」  冬季は、彼が歯科医師であると同時に〝院長先生〟だという事を度々忘れがちになる。  そういう話を聞かされ、ほんの少し困った様子の李一を見ていると心配になった。 「そうなりますね。こればかりは仕方がないです。彼女はよく働いてくださいました。今も泣きながら「申し訳ない」とばかり。医院を気遣ってくださるのは嬉しいんですが、授かった命の方が大事だと諭しました」 「うん……」  その通りだ、と冬季も頷いた。  あまり社会経験が無い身でロクな事が言えない冬季は、労いの意味を込めて李一の手のひらに口付ける。  こうして院長に直接連絡を入れてくるという事は、院内の雰囲気も決して悪くはないのだろう。李一が院長を務める歯科医院であれば、募集をかければすぐに新しいスタッフが見つかりそうなものだ。  それでもやはり、開院時から勤めてくれたスタッフのことが心配なのか、李一は肩を落として落ち込んでしまっている。  何とか元気付けてあげられないかと、冬季は起き上がって李一の背中に抱きついた。 「あ……そうだ」 「うん? どうしたの?」  すると直後、何かを閃いた李一が手を打った。 「冬季くん、うちで働きませんか?」 「えっ!?」  予想もしていなかったことを提案され、振り返ってきた李一に思いっきり目を丸くして見せた。  いくら人手不足になったからと、何も手近で済ませなくても……と冬季は狼狽える。 「いや僕、歯医者さんのこと何にも分かんないし! ていうか僕男だし!」 「歯科医院に勤めるスタッフが、必ずしも女性でなければならないという規定はありませんよ。それに助手さんは大体が未経験の方です。みんなゼロからのスタートです」 「そ、そうなんだっ? で、でもほんとに僕にはとても務まりそうにない……っ」 「まずは滅菌室で仕事を覚えながら、午前中だけ働くというのはどうですか?」 「ちょちょちょ、りっくん、話をどんどん進めてるねっ?」  体ごと冬季に向き直った李一が、両手を握って説得にかかっていた。  その真摯な瞳から、彼が冗談を言っているようには見えない。という事はつまり、本気で冬季を歯科助手として雇いたいと申し出ているのだ。  そうだとすると、さらに断りにくい。  手のひらを握り返すことは出来ても、すぐに頷けはしなかった。 「君が嫌だというなら、無理にとは言いません。けれどやり甲斐はありますよ。患者さんとのふれあいで、冬季くんのコミュ障とやらも克服できるかもしれません」 「うーーん……!」  一度は李一が働いているところを見てみたいと思っていた冬季だが、自身もそこで働きながらというのはまったく考えてもみなかった。  李一と付き合うにあたって、このままニートを続けるわけにはいかない。とにかく行動を起こし、働かなくてはと新たにアルバイト探しをしようと考えていた冬季には、心が揺らぐ申し出だ。  働くならば、それはもちろん李一のそばがいい。 「ひとまず今日、見学に来ませんか? まずは仕事内容を見てみないことには、冬季くんも判断出来ませんもんね」 「えぇっ?」  じりじりと外堀を埋めていく李一に、冬季は悩む間すら与えられない。  最終的な判断は冬季に任せてもらえるらしいが、たとえ断ったとしても、李一のこの様子ではスタッフも巻き込んで冬季を歯科助手にする計画が進行しそうである。  彼には元々そういうきらいがあることを、冬季はすでに知っていた。 「……当初の約束をお忘れですか、冬季くん」 「…………っ?」 「俺は君の自立をサポートします。ただし俺の目の届くところに居てほしい。……コンビニには俺は居ません」 「え、……?」  李一がさらに、逃さないとばかりに冬季の両手を強く握った。痛いほどのそれに顔を歪めると、彼からよく分からない例えを出され首を傾げる。  なぜ急に〝コンビニ〟が──。  不思議に思った冬季の脳裏に、ふと悲しい面接の一件が思い起こされた。 「待って。まさかりっくん……あの時の面接……」  良い人そうだった店長、アルバイトの一歩としてうってつけの接客業、さらには歩いて通勤できるの三拍子が揃い、李一に履歴書の書き方まで習って張り切っていた矢先、電話一本で面接を断られたあの一件は、この家で自傷行為を誘発するほどショックな出来事だった。  自分は面接さえもさせてもらえない、やはり不必要な人間なのだと、李一に縋り我を忘れた。  まさかあれは、李一が仕組んだことなのだろうか。  冬季をよそで働かせたくないと、裏から手を回したのが李一ならば何ら驚かない。 「……冬季くんも、俺のことが「こわい」ですか?」 「…………」  普通の者なら「そこまでやるか」と手を払いのけ、「重い」、「こわい」などと追い打ちをかけて李一を悲しませるのだろうが、冬季は違った。  みるみる瞳を細め、不安気な李一に勢い良く抱きついた冬季の心は〝りっくんこそ理想的な彼氏だ!〟という一般的には理解されにくい思いで埋め尽くされていた。 「全っっ然!! 束縛最高! むしろ大好きの気持ち膨らんだよ! りっくん、僕りっくんのこと、もっと好きになっちゃった!」 「ふふっ、……君ならそう言ってくださると思っていました。俺も大好きですよ。冬季くん」  少しばかり常識からかけ離れている二人は、非常識な出来事で絆を強くし、ひっしと互いを抱いて満面の笑顔を浮かべた。  李一は今後も、冬季の自立をサポートする── だがそれは彼を自立させるための協力ではなく、その体に在る傷痕を今後一切、他の誰にも見せぬよう教育すると言った意味に変わった。  そして冬季も、それを嬉々として受け入れる。  何せ二人の優先順位は、お互い以外に考えられないのだから。

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