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益子の大切

「悠也くん、おかえりなさい。」 「忽那さん…」 悠也くん、と親しげに益子の名前を呼んだのは、彼が下校時によく寄る写真館の店主だ。 昭和レトロな格子窓の奥には、年月を経て味わいを深めた重厚感のある什器と、アーチタイルのような不思議な柄の壁紙を彩る、人の営みの一瞬を切り取った写真が飾られていた。 店内は鈴蘭がぐるりと円形に並んだようなアンティークな照明があたたかみのあるライトで照らしており、BGMこそ流れてないものの、益子は店内に入るたびに不思議と蓄音機の奏でる名も知らぬ歌謡曲が頭の中に流れてくる。そんな感覚に見舞われるのだ。 ふかふかとした絨毯が靴底に優しい。古めかしい店構えだが、忽那の柔らかな雰囲気がモダンな内装とマッチしていて、そこにいるだけで一枚の額縁に納めたくなるような気さえしてくる。 ここはいい、益子はこの店も、忽那のことも大好きだった。 「いつも飽きずによく来るね、真新しいものなんて何もないけど…」 「忽那さんのお帰りを聞きに来てるんだって。」 「なにそれ、」 益子は自分より8歳年上の彼に、周りとは違う何かを敏感にかぎとっていた。 柔らかなオフホワイトのマオカラーのシャツに黒のスラックスという至ってシンプルな服なのだが、その清潔感が彼にはよく似合っていると思う。 「忽那さん。いつかでいいんだけど、忽那さんのこと撮らせてくんない?」 「こんな年上撮るよりも、同世代の可愛いこでも被写体にしなって。」 毎回断るのにめげないの、逆にすごいよねと楽しそうに笑う様子に、胸がきゅうと甘く鳴く。 忽那の新雪のような清廉な雰囲気を、ファインダーに納めることができたら。 この写真館を飾る、素朴でかけがえのない一瞬を丁寧に切り取る魔術師のような忽那を、自身のファインダーに納めて閉じ込めることができたなら。 それはなんて甘美なことなのだ、と思う。 「俺ね、モノクロフィルムに手をだしてみようかなって思ってんだ。」 「え?どうして急に、」 「んー、忽那さんに憧れてるのは、ある。」 「なにそれ、」 なんだか照れたように眉を寄せる。この人は歳を重ねてもあどけないところがあるな、と思う。 子供の頃に訪れたここは、幼い益子にとっては美術館のように畏まっていなきゃいけない退屈な場所だった。 家族写真や七五三、イベントや節目は、カメラを向けられたまま、大人しくしなくてはいけないので、当時の益子は顔には出さないものの、早く終わればいいのにとばかり思っていた。 そんな中、当時の店主の一人息子である忽那が、ムスッとしたまま座る益子の写真を撮ったのだ。 突然カシャ、と聞き慣れた音に反応し顔を上げると、色白で理知的な茶色の瞳を讃えた忽那がいた。 忽那は楽しそうに微笑んで、早速撮ったばかりの記念の一枚を益子にみせた。 そこには椅子に座って退屈な表情の益子がいた。 待ち時間、話題に花を咲かせる大人たちを尻目に、忽那はその写真をみせて言ったのだ。 「君のこの瞬間は二度と帰ってこない時間だ。」 「え?」 「その、貴重な一瞬を、見せてくれてありがとう。」 「ど、どういたしまして…」 写された自分は、目を伏せるように細めながら椅子に座って床を見ていた。だが、窓から差し込む明かりが陽だまりのように優しく益子を包み込んでいた。 それはガラスの反射も相まって、まるで祝福を受けているかのような一枚だった。 「すごい…」 「いい被写体だったよ、だからありがとう。」 自分の心境を一気に変える忽那の写真は、まるで魔法のようだと思った。あんなにくさくさした気持ちが、この写真を見た後では180度違った。 まだまだ子供だと思っていた自分の、大人みたいな知らない顔。 それは忽那のファインダーを通して切り取られた一枚だ。 思えば、あのときの屈託のない笑みに惹かれていたのだと思う。 益子は忽那を師匠のように思いながら、その内では自分だけのものにしたいという暗い欲望を湛えていた。 「忽那さん、俺」 「駄目、駄目だよ益子くん」 「なんで?」 「まだ早い。」 顔を赤らめながら、じとりと睨んでくる。高校生になったときから、ずっとこの調子だ。 忽那の気持ちはわからないが、この感じだと両想いなのでは、と少しだけ期待する。 「好きだよ、大好き。」 「からかうな、まったく。」 ぶわりと顔を赤らめながら、眉間にシワを寄せるのだ。益子はその様子に満足そうに笑うと、忽那が出してくれた温かいカフェラテを飲む。 これに砂糖を入れずに飲めるようになったら、また一つ男として認めてもらえるだろうか。 そんなふうに思いながら、今日も一時の短い時間を大好きな人と過ごした。

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