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それは小さな波紋の一つ

結果的にどうなったか。 その話を聞いたとき、青木は足元が急に抜けるような、そんな絶望を味わった。 「だから、高杉先輩が清水とやべえことやらかして退学するらしいぜ。」 「え、」 珍しく清水からの指示のような連絡も来なければ、高杉も部活に来ていない、そんな日だった。 「てか清水ってお前と付き合ってたんじゃねえの?なんで高杉とふたりで辞めることんなってんだ?」 「ちょ、ちょっとまって。」 「浮気されてたりしてな。まああの高杉なら仕方ねえか。」 「っ、」 言っている意味がわからなさすぎて、息がし辛い。高杉先輩が退学?青木は清水の心配よりもなによりも、その言葉が頭の中を犇めいてしまいまともに思考できそうになかった。 2年の先輩の声がノイズに聞こえる。かろうじて機能した耳が捉えたのは、2年のオメガが。という言葉だけだった。 青木は向こう見ずな行動を取る自分を、つくづく嫌っていた。上澄みだけをこそいで判断するような、単純な頭をもつアルファなんていないと思っていたからだ。 だから直そうとしていたのに、それも忘れしまうくらいの衝撃が、再び青木を馬鹿にした。 自分の中の固定概念を肯定してくれるような、そんな答えが欲しかった。 「どういう事だよ!!!」 清水が入院したという病院を知ることができたのに、面会できないと言われて動揺する。 青木が求める答えが目前に迫っているのに、どうしてだかわからなかった。 「お、俺は明日香の彼氏なんです!理由だけでも、教えてもらえませんか。」 我ながら歯の浮くような台詞だ。あの女と仮初でも恋人関係になってから、自分から彼氏という言葉を使ったのも、明日香と名前を呼んだのも初めてだった。 清水明日香の両親は、普通の親だった。今回の事件は酷く大事になっているらしく、警察の出入りもあったという。青木は、煮えきらない清水の両親からしてみれば、酷く健気な彼氏像に見えたのだろう。 教えてくれるまで連日足を運び、頭を下げ、明日香に合わせてほしいと頼み込んだ。 涙を見せ、必死で懇願する若い男に胸を打たれたのか、そこまでいうならと勿体ぶるように病室まで案内してくれた。 流した健気な涙も、懇願も、全ては事件を起こした高杉のためだというのも知らずに。 青木は清水の彼氏として、高杉に気持ちが向かわないように必死で取り繕ってきた。その努力の賜物か、病室に入った青木を見た清水は、病的なほど隈を蓄えた目元を歪ませて取り縋った。 「ちがうの、ちがうの、」 「うん、うん。」 清水の両親は、まるで美しい青春の1ページを見るかのように、娘を優しく抱きとめる青木を嬉しそうに見つめた。 ああ、うちの娘はヒロインだった。王子様ができたんだと。 青木は力任せに締めてしまいそうな腕の力を必死で押さえ、目の前の細い女を抱きしめた。 口付けもしてない、手も繋いでいない。自分にとっての初めての彼女だから大切にしたいと嘘を付き、ただ清水に惚れた馬鹿な男として振る舞ってきた。 そんな青木が、初めて自分から抱きしめた瞬間だった。 二人にしてほしい。そう、両親に告げると快く了承してくれた。娘をよろしくとさえ言われた。 その言葉に無言でうなずいて確保した二人きりの空間で、青木は静かに興奮をする自分を抑え込む。 女に触れたからではない、真実に触れることができるからだ。青木の求めている都合のいい真実を、この女が教えてくれる。 高杉先輩の為なら、自分の童貞だってささげてもいい。青木は清水を一瞥すると、その壊れた思考を酷く哀れに思った。 ーあたしは悪くない、高杉くんが間違っていたの。 高杉くんを止めるためには、ああするしかなかったの。 オメガの男子にそそのかされて、ヒートに巻き込まれて強姦してしまった彼を、止めてあげるためにはああするしか…。 清水を抱き締めながら、触れた指先から身体が徐々に冷えていく。 立場が逆転し、なんでも言うことを聞く甘い男から、縋られる男になったと言うのに、青木がたどり着いた事実はあまりにも酷い内容だった。 「ダいジョうブだヨ、あスか、」 口からでた薄っぺらい言葉に、酷く感動するように見上げてきた女を前に、青木は自分が自分として思考して動いているのかがわからなくなった。 ちゃんと求められている言葉を選ぶことができたのだろうか。 まるで、やけにリアルなゲームの世界の中、選択肢を選んで勧めていくロールプレイングの主人公にでもなった感覚だ。 「青木くん、明日香のことすき?」 求められるような目で見つめられる。頬に触れられた手が骨ばっていて、まるで触れられた場所からどんどんと染みていくように侵食する何かが青木を少しずつ汚していく。 答えない青木を見つめる清水の、不審げな目に少しだけ苛ついた。お前がなんでそんな目をする。 今まで自分の顔に頓着してこなかったが、面食いのこの女が抱きついてくる程度には見られる顔らしい。 青木は、高杉のあの微笑みが好きだった。なんども、あの憧れの先輩のようになりたいと練習し、少しでも近付けたかなと一喜一憂しながら向かい続けていた、鏡の前での純粋な自分。 こんな事の為に、練習したんじゃないんだけどな。 「言葉にしなきなゃ、不安なの、明日香は。」 額を重ねて、高杉の顔を思い浮かべながら微笑んだ。先輩、先輩の為なら、俺は。 「青木くんは、馬鹿な子だね。」 「あぇ、」 目の前の綺麗な先輩が、なんとも言えない顔で自分を見つめていた。自分の唇が震えていて、ぼたぼたと涙が次から次へと止まらない。 膝の上に染みていくその水滴を、隣の高杉の大きな手が覆った。 「っ、」 「青木、ごめん。ゴメンな青木。」 「ち、ちが…っ、」 きいちも益子も、俊くんも高杉も。まるで独白のようにぽつりぽつりと話しだした青木の言葉を黙って聞いていた。 最初は言い淀んでいた彼が、ちらりと横の高杉を見つめた瞬間、まるでスイッチが切り替わるかのように話しだしたのだ。 高杉に憧れていたこと、守るために清水と付き合ったこと、事件が起きた後のこと。 清水が事実を歪ませて伝えたことはようやく理解した。ヒートに巻き込まれて襲った。仕方のない事故のような行為。 それがきいちの周りで広がった、誤った事実だった。 口にしてしまえば、なんて単純なことなのだろう。それでも、不安定な思春期の中にいる彼らにとっては、事件性があればあるほど歪んで広まる。 だってそのほうが面白いから。 「先輩、うそですよね、うそだって、いってくれますよね?」 「嘘じゃない、俺はきいちを襲ったし、お前に憧れてもらえるほど綺麗な人間じゃない。これは、嘘じゃないんだ。」 「っ…、っ…」 青木の見開いた目から、ぼたぼたと涙が溢れた。ショックだった。青木の崇めていた先輩の、犯したという事実。それでも、何よりも一番つらかったのは。 「俺が、…俺らが、先輩を追い詰めたんすよね…?」 「青木…?」 「特別だからっつって、理想おしつけて、先輩の気持ち考えもしねぇで、」 理想に答え続けてひび割れた高杉の心を壊したのは、きっと自分だ。 「…お前が清水と付き合ったって聞いたとき、正直ほっとした。 だけど、後輩に面倒事押し付けて安心した自分の腐った性根が、一番きつかった。」 青木の膝に染みた涙が、高杉の手の体温で乾いていく。今はただ触れらた場所が酷く熱く、酷く息がしづらくて仕方ない。 高杉の微笑みは、今も綺麗だった。綺麗だからこそ、余計に涙が止まらなくなる。 自分たちが呼び水になったのだ。そして、きっとトリガーは青木の、押し付けてしまった自己犠牲。 自己満足をひけらかして、青木は憧れていた高杉を陥れてしまったのだ。 高杉の小さな波紋が、青木によって大きく広がった。 今は水面は凪いでいたとしても、それによって動いた事象は戻らない。 出口を求めて滞留した淀みの捌け口にいたのがきいちだったのだ。 もう、どこに対して謝ればいいのかわからない。耳を塞いで、目を塞いで、小さくなって消えてしまいたかった。

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