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真綿の首輪
「わかった。もう、僕は1抜け。この話は終わりました、以上でーす。」
張り詰めた空気を抜くように、片平先輩の声が飛んできた。
「ったく、またお前は…」
「なんでよ、だって理由分かったから良くない?清水だってもうなんもせんでしょ。」
「釘刺したんだっけ?」
「目撃者も指紋もばっちりいるんだからなってね。」
背もたれによりかかりながら、膨らんだ腹を撫でて桑原先輩の肩に頭を預けると、ニコリと俺に笑いかける。桑原先輩も益子先輩も、まるで振り回されるのになれたような顔で、それぞれがマイペースに飲み物を飲んでいる。
柔和な雰囲気の片平先輩は、呆気に取られる俺の顔をみて言った。
「高杉くんならもう大丈夫だよ。」
「え、」
「もうけじめつけ終わってんもんね?そもそも、そうじゃなきゃこんな風に同じ卓囲まないでしょ。」
「あ、」
思わず隣の高杉先輩の顔を見ると、苦笑いしながらうなずいた。
「落ち着いてから、家族総出で謝りに行ったんだよ。桑原…俊さんもいて、まるっと性根を叩き直されて目が冷めた。すごいよ、家族全員あんな感じ。」
「まるで僕んちを修行寺みたいにいうじゃん。」
「間違ってないぞ。今じゃ、家の母親も晃さんのファンだしな。」
高杉先輩は、桑原先輩のことを俊さんと言い直してからちらりと見た。この二人の間の関係が、どんなものになったのかは分からない。だけど番が襲われたのにそれを許したのは、素直に度量が深い人なのか、それとも上下関係をはっきりさせた上でのやり取りがなされたのか、俺の頭でわかりかねた。
「2年のサッカー部の事件もまるっと終わってるしね。僕は単純に、なんでそんなことになったのかって理由が知りたかっただけ。」
「2年の…?」
「ああ、僕がヒートで高杉くん巻き込んだって勘違いした奴らがさ。」
「あ…そ、れも…はい、俺です、すみません…」
そうだ。俺は清水の言ったことを鵜呑みにして、高杉先輩の醜聞が広がらないようにこの人を犠牲にしたんだ。
片平先輩の手の甲に残った火傷のような痕。2年の先輩が独断で行ったこととはいえ、このきっかけも俺だ。片平先輩は全く気にしてませんといった具合でポリポリとそこを掻いて、桑原先輩に止められていた。
「青木、」
「はい…」
全部先輩のためという名目で行った。俺の憧れの高杉先輩が、俺に笑いかけてくれることだけを喜びに動いてきた。
高杉先輩の気持ちを考えず、自分のスタンドプレイを押し付けただけなのに。
「俺な、すげぇやな奴なの。だから純粋なお前の好意を素直に喜べるには、ちっと心が汚れすぎててな。」
「え、」
そう言うと、高杉先輩は前よりも短くなった
頭を掻きながら、ぽつりぽつりと話してくれた。
「俺も頭でっかちでさ。親父の期待に応えたくて母親を蔑ろにしてた。
愚鈍な、俺の邪魔をする母親だなって、言ったことさえある。マジでクソだった。」
高杉先輩の口から、クソという乱暴な言葉を初めて聞いた。俺たちには見せられなかった、等身大の先輩がそこにいた。
「好きな奴がいてさ、思い通りにならなくて、やきもきして。アルファだからオメガを囲うのは義務だって思ってさ。初めて好きになった奴にそれを押し付けて嫌われて。まじでどうしようもないよな。」
「好きな人、いたんですか…」
「末永の恋人、しってる?」
「あわ、よ、吉崎先輩っすか!?」
そうそう、と照れくさそうに笑った後、少しだけ口を噤んだ先輩は、まるで何かを思い出すかの様にしばし目を伏せると、再び深呼吸をしてから話し出す。
気持ちを整えるその仕草は、試合前によく行っていたものと同じだった。
「その、吉崎が好きだったやつが、片平。」
「もうややこしくなる前に相関図書かない?」
「きいちはちょーっとだまっとこう、な?」
益子先輩が飽き始めた片平先輩を宥める。相関図を書いたとしたら、俺はどの位置になるのだろう。非常にややこしそうな立ち位置だ。
苦笑いして、悪趣味すぎるだろと言い返す高杉先輩を見ると、くすりと笑われた。
「女男って言われて悲しんでるオメガがいたら、青木はどうする?」
「え、っと…」
先輩が優しい目で見つめてくる。まるで子供に質問するかのような声のトーンだった。
素直に答えるべきか悩んだところで、はっとする。
高杉先輩が求める答えを考えるよりも、自分の意見を問われている。そう思ったのだ。
「俺なら、…気にすんなよっていうかな…」
「…俺も、そう言えたら一番良かったんだろうな。」
先輩の少しだけ寂しそうな声色が気になって見つめる。気のせいかもしれないけれど、瞳の奥がかすかに揺らいだ気がした。
「そのままでいい。それが当たり前なんだから。」
「え?」
「俺は、そう言ったんだ。」
高杉先輩の口にした言葉を、どう捉えたのか。
思えば、間違ってばかりだった。そう先輩は口にすると、困惑する俺を見つめていた桑原先輩が口を開いた。
「周りがそうさせるんだよ。」
「周りが?」
「吉崎は特別なんだ。だから仕方ない。だってそれが当たり前なんだから。」
「特別…」
桑原先輩は、俺じゃ読み取れないくらいの深い瞳で俺を見返す。先輩が口にした言葉を反芻すると、それは俺たちが高杉先輩に対して決めつけて、その価値観を押し付けていた言葉と同じだった。
「高杉は、あいつに対して同じことをしてたんだ。」
「皮肉だろ。オメガだからって勝手な価値観を学に押し付けてた俺が、同じことをされて壊れたんだ。」
「同じこと…」
間違いは繰り返される。凝り固まった価値観は人を歪めるきっかけになるのだ。身を持って体験したからこそ、高杉先輩は今の自分を客観的に見つめることができていた。
それができるようになったのも、凝り固まったその呪縛から開放されたのも、気づかせてくれる人がいたからに他ならない。
そのきっかけをくれたのが、自分が起こした罪の被害者である、片平先輩。
高杉先輩が複雑な感情を抱えながらも、こうして真っ直ぐ立てているのは、その首輪についている鍵を先輩が握っているからなのだと気づいた。
桑原先輩の隣で、眠そうに目を擦っている片平先輩は、きっとそれに気づいていない。
「あいつは、すごいやつだよ。」
小さく呟いた高杉先輩は、困ったように笑った。
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