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第1話

高校二年の秋ごろ、僕は初恋の人に告白しました。相手は同じクラスの男の子でした。 テニス部で、笑顔のまぶしい好青年でした。 好きになったきっかけは本当に些細な事です。授業中、気づかない間に床に落ちていた僕の消しゴムを彼が拾ってくれました。そのとき、彼の目が僕のノートに向いてこう言って くれたんです。 「見やすいノートだね。絵が可愛い」 彼の指は、僕のノートの隅に描かれたうさぎのようなキャラクターを指していました。 僕の唯一の特技と言っても過言ではない、絵を描くことを褒めてもらえたのが嬉しかったんです。それ以外の事は一切出来なくて、親からも期待をされたことなんて一度もありませんでした。 描いた絵は特別誰に見せるわけでもなく、押し入れの肥やしになっていました。 彼からの一言は、僕の心のささくれたところを優しくなでてくれたような気がしました。 他の人からしたら、そんな些細なことで人を好きになるのかとバカにされてしまうのかもしれません。でも、僕にとっては十分すぎるくらいでした。 その日から、僕の中で少しずつ彼に対する好意が積もっていきました。 彼はクラスの人気者でした。文武両道、さわやかな笑顔、人懐っこい性格。まるで漫画の世界の人間のようでした。男女問わず人気者で、先生からの信頼も厚い人でした。 さっぱりとしたスポーツ刈り。僕よりも背が高くて大人っぽいのに、笑った顔がどこか幼くてかわいらしいのです。 自分から話すことも苦手で臆病な僕には、目を開けていられないほどにまぶしい存在だったのです。 体育の授業でテニスをやることになった時、ペアを組むように言われましたが、 運動音痴な僕とペアになりたがる人なんていませんでした。 そんな時、彼が「一人なら俺とやろう」と声をかけてくれたのです。 「え、でも、僕へたくそだよ…サーブもまともに入らないし」おどおどしながら答える僕に、彼は笑っていいました。「じゃあ、教えてあげるよ」 彼は僕の下手なサーブを見ても笑うことなく、丁寧に教えてくれました。 「ちょっとごめんね」そう言って彼は僕の背後に回り、大きな手で僕の手を包み込んだのです。彼の手のひらは豆がつぶれてごつごつしていました。それだけ練習しているのでしょう。 節くれだった手が僕の手をすっぽりと包みこみ、腕の動かし方を教えてくれます。ですが僕はそれどころではありません。僕の背中には、彼の厚い胸板が当たっていました。 振り向いて顔を埋めたら、どんなに心地がいいのでしょう。僕がそんなよこしまなことを考えているとも知らず、奇跡的に入ったサーブを見て、「ほら、入ったじゃん」と彼は無邪気に笑いました。 見ているだけでいい、という気持ちはどんどん膨れあがり、ちょっとだけ話したい、視界に入りたい、触ってみたい、と進化していきました。 抑えられなくなった気持ちのやり場が分からず、僕は思いのたけを彼に伝えたのです。 「ごめん、俺彼女いるんだ」彼の返事はこうでした。 僕は愚か者です。なぜ、クラスの誰からも好かれるような人が、僕のような地味な人間を 好きになってくれると思ったのでしょう。もしかしたら付き合えるかもしれないなんて 思ってしまったのでしょうか。 あっけなく終わった僕の初恋でしたが、厄介なことにこの失恋が僕の人生を大いにかき乱すきっかけになってしまったのです。 彼に振られてしまったその日から、僕のスケッチブックは彼の似顔絵で次々埋まっていきました。それだけならまだよかったのです。愚かな僕は、彼の痴態を妄想し、それを絵に描くようになりました。あのさわやかな彼にも、誰にも見られたくない恥ずかしいものがあるんでしょうか。しかも描いた絵で自分を慰めては悦びと申し訳なさで泣き続けるという気持ちの悪い習慣が身についてしまったのです。 そんな中、ある広告をネットで見つけました。「BL漫画の作家募集」という派手なピンク色の文字で彩られていて、裸同然の恰好をした男の人がこちらを見ていました。 真っ赤な顔をして、開いた口からは涎が垂れています。今まで見たことも触れたこともない世界でした。 僕はそのとき思いました。ボーイズラブというこの世界に、僕の中で渦巻くこの感情を投げかけたら、誰かが答えてくれるでしょうか。 自分の中でくすぶり続けるこのどうしようもない気持ちを、そこから生まれた絵の数々を、ここにぶつけたらどうなるだろう。 見た人はどう思うのだろう。気づいた時には、僕はそのバナーをクリックしていました。 応募してから数日が経った頃、僕のもとに編集部の人からメールが来ました。是非うちで描きませんかという一言に誘われるがまま、僕は未知の世界に飛び込んでいきました。 高校卒業後にまともに就活も進学もせず引きこもり続けている息子を、両親は最初の数カ月は心配していましたが、次第に空気のように扱うようになりました。 漫画を描いたことが無かった僕に、担当の方は懇切丁寧に教えてくれました。というよりかは、言われたとおりに描いていただけかもしれません。上からの指示通りに描き、台詞を打ち、仕上げをして提出する。もっと濡れ場を増やしてと言われたらその通りにして、もっと過激な台詞にしてと言われたらその通りに打ち込む。一日のほとんどをパソコンの前で過ごすようになっていました。 社会人経験のない僕は、仕事の本来の流れというものを知りません。メールの始めと終わりに付け加える言葉も担当さんから教えてもらうほどのレベルでした。 担当さんはいつも、僕が描いた漫画を凄く褒めてくれました。それは純粋に嬉しかったです。 「いつも思うんですけど、本当に絵がお上手ですよね。美術系の学校とか通われてたんですか?」担当さんが通話の最中でそんなことを言いました。「いえ、別に…」「えー、そうなんですかー、いや凄いなーって見るたびに思うんですよねー」受話器の向こうから聞こえる言葉はお世辞なのか本心なのか、人との交流に疎い僕にはわかりませんでした。 「特にこの受けの方の表情がいいなーって思うんです。モデルとかいたりするんですか?」 その言葉に僕はぎくりとしました。「いや、いません」僕の声はきっと上ずっていたと思います。 なぜなら、担当さんの言う「受け」という立場の人、要するに抱かれている方の男の人は、かつて僕が好きだった彼をモデルにしていたからです。 そう、僕は現実の世界で手に入れられなかった彼を、漫画の世界で犯すことにしたのです。 僕はただ、好きだった人のみだらな姿を紙の上に具現化し続けていただけなのです。 「もうやめてください、もういきたくありません」原稿の中の彼が言いました。 なんてだらしのない顔でしょう。 凛々しさなんて微塵も感じません。八の字に垂れた眉毛、眉間に刻まれたしわ。 漫画の中の彼の額に浮かぶ汗は、テニスの後に流すさわやかな汗とは違って見えます。 彼と同じクラスだった人が見たら、きっと驚くだろうな。 僕はラブホテルというものがどういう内装なのか知りません。でも、そういうことはすべて ネットが教えてくれました。普通のホテルと変わらないような部屋もあれば、 まるで学校の教室のような部屋とか、拷問器具が置かれた監獄風の部屋、オフィスのような事務机が並ぶマニアックなものまであるようです。以前の僕なら何とも思わなかったでしょう。だけど、今の僕の脳みそは、彼に合うのはどんな部屋かな、と考えているのです。 もっと足を開いて。もっと大きな声を出して。もっと恥ずかしい単語を喋って。 そう思いながら漫画を描いていました。彼に触ることも出来なかった僕ですが、今では妄想の世界で彼に何だって出来ました。キスマークを付けるのも、厚い胸板に顔を埋めるのも、 感度がいいのかもしれないおへそに指をねじ込むのも簡単です。 服を着ているシーンなんてほとんどありません。 頭から終わりまでずっとベッドの上で乱暴に揺すられています。かわいそうに。 僕みたいな変態のせいで、彼は色んな意味で滅茶苦茶です。 首輪をつけられ、目隠しをされ、何をされても抵抗なんてできません。台詞と言えるようなものは無く、彼の出てくる場面はほぼ喘ぎ声だけで構成されていました。 「僕の事が好きだと言って」と台詞を打ち込みます。彼は「好きです」と答えました。 いや、僕が言わせました。告白が成立しました。この世界の中でなら何でもできました。 彼をどう犯そうが僕の自由なのです。 ペン先が彼の裸体を描いていきます。首筋に浮いた血管を、綺麗に浮いた鎖骨を、僕ははっきりと覚えていました。僕の手を包んでくれた大きな手。漫画の中では、その手に手錠がはめられて、彼はベッドにつながれていました。 涙で潤んだ瞳で、彼が僕を見ていました。許しを請う表情で、顔中いろんなものでぐちゃぐちゃでした。これが現実だったらどんなに良かったでしょう。 こうでもしないと幸せを感じられないなんて、ばかだなぁとしみじみと思ってしまいました。 僕の漫画は少しずつ世に知れ渡り、いつの間にかBLというジャンルで一位を獲得していたのです。書店には僕が描いた漫画のポップが並び、僕専用のコーナーが作られていました。書店向けの色紙にサインをしたりもしました。 テレビ、雑誌、色んな所で僕のペンネームが呼ばれています。だけど、他人事のようでした。 これは本当に僕の人生なんでしょうか。 担当さんから僕の活躍を興奮気味に報告されても、なぜか僕の心は弾むことはありませんでした。ネットでは僕の事を「神」と呼ぶ人たちがでてきました。担当さんの勧めで作られたSNSのアカウントには、日々色んな人からのメッセージが届きます。 日本だけでなく海外の人からも来ていました。翻訳機か何かを使ったのでしょうか、 どこかたどたどしくも優しい言葉で埋め尽くされていたメッセージを、僕は少しずつ読んでいました。 それ以外にもファンレターや花束、自分では絶対に買わないような洋服やお菓子まで送られてくるようになりました。これは本当に「僕宛て」なのでしょうか。 ある時は封筒の中に避妊具がぱんぱんに入っていたこともありました。僕は驚いてそれを床に落としてしまいました。中から飛び出してきた便箋には、「○○君に使ってあげてください」というメッセージとたくさんのハートマークが描かれていました。僕が描いている漫画の登場人物にあてたつもりで描いたのでしょうか。 担当さんにこのことを話すと、「それ、セクハラじゃないですか?」と心配してくれました。 「もしかしたら盗聴器とか仕込まれてるとかあるかもしれないし…あまり行き過ぎるようだったらサイトに警告文とか書きますか?」担当さんはそう言ってくれましたが、僕は断りました。わざわざお金を払ってまで僕に送ってくれたものを、簡単に捨てる気にはなれなかったのです。段ボールにしまい込み、押し入れに積んでいきました。 このような手紙はそのあとも時々届くようになりました。性行為の時に使うおもちゃやら拘束具が送られてきて、「○○君に使ってあげてください」という便箋も一緒でした。 ファンの人たちの間でこのような遊びが流行っているのでしょうか。 僕は言われた通り漫画の中でそのおもちゃたちを使うシーンを描きました。 するとやはり、僕のファンの人たちは僕の事をほめちぎるのです。 「やっぱ神だわ」という言葉は、本当に僕が貰うべきものなのでしょうか。 僕は正直、どうしたらいいのかわかりませんでした。もちろん、褒められたり誰かが喜んでくれることは嬉しかったけれど、名前も顔も知らない人に、どうしてここまで貢ぐことができてしまうんだろうと恐怖心のような感情を抱いていました。 僕の銀行口座にどれだけ0が増えて行っても、賞をもらっても、僕の心はスカスカしていました。サイトの閲覧者は日々数字を更新し、僕は編集部の稼ぎ頭とまで言われているようでしたが、担当さんがどんなに嬉しそうに報告してくれても、 素直に喜ぶことが出来なかったのです。 それは多分、僕の本当の目的が果たされていないからだと思います。 彼と恋がしたかった、という淡い思いが大人になった今も僕の中でくすぶり続けていて、 叶わないとわかっているのにずっとぐずぐず燃え続けているのです。 ただ他愛もない会話が少しでもできれば、それでよかったんじゃないかという気持ちが出てきたのです。ここまで彼を漫画の中とはいえ犯して、本当に満足しているのでしょうか。 かつては紙の上で喘ぐ彼を見て興奮していた僕でしたが、そんな思いも次第に薄れてきていました。ただ言われるとおりに描くだけのロボットのようになりつつある、 そんな僕が描く作品に、本当に価値があるのか自分の中で疑問でした。 ある日、僕のもとに一つのメッセージが届きました。匿名で届いたそのメッセージを開くと、 そこにはネットニュースのURLが貼ってあります。開かれたその記事に、僕は血の気が引きました。 「有名テニスプレイヤー、人気BL漫画のモデルにされていた!?」 大好きだった彼がプロのテニス選手になっていた事も、僕の漫画を読んだ誰かが、彼をモデルに描いていることに気づいていた事も、まったく知りませんでした。 世間知らずという言葉は僕の為にあるのでしょう。 連日続いていた作画作業でぼんやりしていたはずの頭が、痛いほどに冷たくなっていくのを感じながら、僕はパソコンの画面を見ていました。 僕に降り注いでいた優しいメッセージたちは、鋭く尖った罵声に変わりました。 「変態」「キチガイ」「クソ」「倫理観の欠片もないゴミ」大量に送られてくる言葉の波にサーバーが耐えられず、サイトは閉じられてしまいました。 ファンレターは罵倒の羅列と不幸の手紙に変わり、カッターナイフやよくわからない刺激臭のする液体でべたべたにされているものもありました。 SNSのアカウントも削除されましたが、編集部には抗議の電話やイタズラ電話がひっきりなしにかかってきていたようです。ネットだけでなくワイドショーでも取り扱われ、僕はたちまち居場所を失ってしまいました。なのに、僕は冷静でした。 きっとこれが、本来僕が受け取るべきものだったのです。紙の上で彼を犯すことだけを考えて生きてきた僕が、受けるべき罰なのです。 僕の心は充実感でいっぱいでした。ずっと誰かにこう言ってほしかった。お前がしていることは間違っていると、それは恋なんかではなくゆがんだ行為の押し付けなのだと、誰かに言ってほしかった。 テレビではコメンテーターが僕の漫画を批判しています。でも僕は傷つきません。悲しくもありません。だって受けるべき罰なんですから。 そのとき、画面が切り替わりました。 「これ以上作者の方を責めるのはもうやめてください。僕は今回の件に何も関与しておりません。ニュースで騒がれているような、彼から金銭を貰っていたという事実もありません。彼はただ、自分の世界を表現したかっただけなのだと思います。僕がテニスで誰かの希望になりたいと願うように、彼もまた漫画の世界で誰かに夢を与えたかったのではないでしょうか」 そう話していたのは、僕が恋した彼でした。あの時よりもずっと凛々しい顔立ちで、肩幅も広く、瞳はどこまでもまっすぐでした。 僕に笑いかけてくれた時とおんなじ、嘘をついていない瞳。 きっと次の神様は、彼なのでしょう。 だからもう大丈夫です。 やることはすべてやりました。親にも編集部の方にも担当さんにも、 ちゃんと手紙を書きました。お金も用意しました。 さて、カッターナイフが入っていた封筒はどれだったかな。

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