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第2話

彼には会ったことが無かった。だから、どんな人だったかと聞かれても、 恥ずかしい話だけど何も詳しい事を知らなかった。 投稿フォームに送られてきたメールを開き、添付されていたファイルを確認する。 それを漫画と言っていいのか分からなかった。送られてきたファイルの中には、同じ人物と思われる男性を描いたスケッチのような物が入っているだけだったから。 コマも無ければ台詞もない。所々に小さく文字が書いてあるけど小さすぎて読むことも出来なかった。 男性の目はまっすぐにこちらを見て居た。今時の流行りの絵とは違うけれど、なぜか目を離せなくてこちらからも見つめ返してしまった。 ページをめくっていくと、絵の内容が少しずつ過激になっていく。 男性は服を脱がされ、誰かに組み敷かれている。そしてそのまま、性行為が始まっていった。 「なにこれ、いたずらで送られてきたの?絵は上手だけど、これ漫画ではないよね」いつの間にか先輩が隣からのぞき込んでいた。「えぇ、でも…なんか、目を離せなくて」「まぁ、言いたいことは分かるけど、商業としては難しいんじゃないの」先輩はそれだけ言うと席を立った。 先輩の言い分もよくわかる。今この編集部が求めているのは、フレッシュさというよりは あらかじめ確固たる土台を持っている人材だった。すでになんらかの作品で名が売れていたり、ファンがついているような人でないと相手にしていなかった。 こちらからアドバイスをしなくても自分の世界を構築し、発信、プロデュース、告知、全ての技術に長けているような人を望んでいる。 私は周りのそんな考えが、実はちょっと苦手だった。 持ち込みに来た人に対して、わざと厳しいアドバイスをしている先輩もいた。持ち込みに来た人の拳が震えているのを私は見逃さなかった。速足で去っていく背中を見つめていると先輩が私の背後にやって来た。 「ああいう勘違いしてるような人は早くあきらめた方が自分のためだよ」先輩はそう言っていたけど、本当にそうなんだろうか。「もしあの人が、漫画を描くことを辞めてしまったら、先輩はそれで幸せですか?」と聞くと、先輩は嫌そうな顔をして「熱血だねお前」とだけこぼしてどこかへ行った。 「ただ自分が描いた漫画読んでほしいだけなら同人でもいいじゃん。こっちだってボランティアでやってるんじゃないんだから」会議で編集長が放った言葉に嘘はないと思う。 だけど、私は悲しかった。この世の中に、漫画家になりたいと思っている人はいったい どのくらいいるんだろう。きっと数え切れないほどいるけれど、その中でスポットライトが当たる人は本当に一握り。本当はきらきらしたものを抱えているはずなのに、 あふれかえる情報とコンテンツの波にさらわれて溺れていく人が凄く多いような気がする。 私は漫画を描くことはできないけれど、漫画にかかわる仕事がしたくて編集者になった。 もし自分が、誰かにスポットライトを当てる手助けが出来たら、という一心で働いているけど、そんな自分の思いも間違っているのかもしれないと思うようになってきてしまった。 そりゃあ、誰だって面白い漫画が読みたい。絵がうまくて、面白くて、続きが読みたくてたまらない、みたいなものがいいに決まっている。 ネットが発達した今の世の中、自分で描いたものを世に発信することが凄く簡単になって、それはとてもいいことなのかもしれないけど、飽和を生む原因でもあるのかもしれない。 お金を払わなくても、ネットの海を泳いでいれば何かしらのコンテンツに出会う。 そこに人がどんどん集まり、それを見た誰かが同じようなものを作り出す。いつの間にかお盆の海に集まるくらげのようにあふれだし、くらげ以外のものが見たくなって違う海へ泳ぎだす。そうして飽きられたくらげはいつの間にか、海の底で死んでいる。 私がこの前まで担当していた作家さんは、「もう自信が無いからやめたい」とメールを送って来た。私は引き留めたけど、その人の意志は固かった。「だって、自分より面白いものを描く人なんていっぱいいるから」「でも、私はあなたが描くものが好きです」 「そうはいっても、編集部的にはお金にならなきゃ意味ないじゃないですか」何と答えたらいいのか分からなかった。この人が言うように、作品を宣伝したり広告を作るのにもお金がかかっている。タダで回っているものなど何もない。私一人のわがままで、この人の今後の人生を振り回す事も、根拠のない未来を語ることも、出来なかった。 その人から返事が来ることは二度となかった。 改めて、今回届いたファイルを見てみる。絵はうまいけれど、決して漫画とは呼べないこの作品を描いたのはどんな人なのだろう。私の指は、この人へのアポイントを取るためのメールを打ち始めていた。 描いていたのは男性のようだった。一度対面で話をしたいと連絡をしたが、人前に出るのが怖いとのことだったので強要はしなかった。 名前と年齢と住所、必要最小限の情報のみ伝えてきたので、あまり人と話すのが好きではないのかもしれないと思い、それ以上深追いするのはやめた。 いつもなら、電話をしながら好きな物の話や漫画を描いたきっかけなどを聞いていたけれど、彼は「深い意味はないです」以外何も話さなかった。 基本メールで連絡を取り合っていたけど、メールの文面にも違和感がある。例えば、メールの件名を打っていないとか、「出来ました」のメッセージと画像ファイルのみが添付されたメールが届くのなんて日常茶飯事だった。 もしかしたらこの人は、社会に出たことが無いのではないか、とうっすらと感じるようになった。そうだったとしても、私は追及したりはしなかった。 人間だれしも、触れられたくないものがある。それ以外にも、漫画を描いている人なら知っているようなことも、彼は知らなかった。通話している最中に「この原稿なんですが、解像度はいくつで作っていますか?」と聞いたが、彼は黙り込んでしまった。 私は説教臭くならないように、一つ一つ彼に伝えていった。彼はひねくれることなく、私の指示を素直に聞き入れてくれた。元々絵がうまかった彼は、少しずつ漫画らしいものを描けるようになっていき、私はそれを会議に持ち込んだ。 「よくもまぁ、そんなに丁寧にやってるね」という先輩の嫌味も聞こえないふりをした。 そんな日々を重ねていくうちに、彼の漫画はついに配信されることになった。 私にとっても初めての事で、とても嬉しかった。 彼の漫画は予想以上の反響を呼び、様々なメディアで取り扱われた。 そしてなんと彼のおかげで編集部の名前までもが売れるようになったのだ。 「凄い反響ですよ、大型新人登場だって」私が彼に電話で伝えても、「はぁ、そうなんですか」と彼はいたって冷静だった。「あ、すみません、私ばっかり舞い上がっちゃって」 「いえ、僕は別に何もしてないから…」「そんなことないですよ、だって作ったのは先生じゃないですか」どんなにほめたたえても、彼は決して喜ばなかった。 「凄いのは、あなただ」彼は決まってそういった。アドバイスをしたのは私だけれど、それを形にしたのは彼なのに。 彼の事を相手にしていなかった先輩たちも編集長も、彼を編集部の救世主と呼ぶようになった。あからさまな態度のかえ方に、私は少し不快感を覚えた。 「そこでなんだけど、もう少し過激な内容にできないか打診してほしい」編集長がそう言った。「過激にですか?でも、作家さんの意見も尊重しないと…」 「世間のニーズは違うんだよ。いかに大胆で過激かが大事なんだから、この波に乗らない手はないだろ」私以外の全員がその意見に賛同していた。 彼が描いているものにはすでに性描写もあったけれど、さらにそれよりも過激にしろと周りは訴えた。ただの一社員の私に、周囲からの圧倒的な意見に逆らう力は無かった。 会議で決まった内容を彼に告げてみると、彼は「分かりました」とだけ答えた。 「あの、嫌じゃありませんか?」「え?」「その…こっちの意見で漫画の方向性を変えることとか」「いいえ」「そう、ですか」 「犯せればそれでいいので」 私はその言葉の意味が分からなかった。もしこのとき、彼が放ったこの言葉の意味を少しでも理解できていたら、事態はかわったのかな。 彼の漫画はどんどん過激になった。なればなるほど反響を呼び、ランキングの首位を独占し続ける。その事実は嬉しかった。だけど、なんだか虚しさを感じる。 私が彼に周囲からの反響を伝えても、彼は少しも嬉しくなさそうだったから。 それは多分、私のせいでもある。上からの指示通り、私は彼の漫画にどんどん手を加えたのだ。もっとみだらに、もっと過激に。彼は逆らうことなく見事な作品を仕上げた。 だけど、私の中で一つの疑問が生まれていた。これは本当に彼が描いた作品と言っていいのだろうか。私が指示を下し、有無を言わさずに描かせているだけなのではないか。 本当に彼が描きたかったものを、私が奪っていたらどうしよう。 心に浮かんだ不安は、先輩や編集長の指示に応えている間にも増していく。ある日、編集部にこんな電話がかかってきた。 「なんか、表現が行き過ぎてませんか?これが未成年でも見られるコーナーに置いてあるの、ちょっとどうかと思うんですけど」 実はこれが初めてではなかった。彼の漫画が有名になるほど、このような電話やメールが届いていた。実を言うと、私も思っていた。全年齢向けとはいえ、あまりにも過激な内容だ。 だけど周囲はなんてことない、といった感じで、彼の漫画を成人指定にして売り出した。 彼に向けられているライトの明かりは、どんどん激しくなっていく。 目がつぶれてしまうくらいに。 「これって、本当に正しいやり方なんでしょうか」私の言葉に編集長は、「気に入らないなら下りればいい」とだけ告げた。 その日から私は、違う部署に飛ばされてしまった。 どのチャンネルでも、同じニュースを取り扱っていた。世界的に有名なテニスプレイヤーが、 BL漫画のモデルにされているのでは、というニュースは、世間に大きな衝撃を与えた。 編集部の電話は激しくなりつづけ、メールフォームはパンク寸前らしい。違う部署に飛ばされていた私にはどうすることも出来なかった。「こっちに来ててよかったね」と新しい上司が私に言う。本当にそうだろうか。この責任を一番負わなきゃいけないのは、私なのではないか。彼に声をかけ、この世界に引きずり込んだ、私が表に出なきゃいけないんじゃないか。 私はこっそり、彼に電話をかけてみた。しかし繋がらない。電源を切っているのだろうか。 「もしこのメールに気づいていたら、安否だけでも教えてください」とだけ書いたメールを、祈るような気持ちで送信した。 彼は死んでいた。部屋の真ん中で、首を切って死んだらしい。大量に送られてきていた不幸の手紙を抱きしめるようにして。 その顔がわずかに笑っていた、という話を風のうわさで聞いた。 彼の死を望む電話やメールをしていた人は、今頃満足しているんだろうか。 私は彼の両親のもとを訪れた。両親はやつれきった表情で私を迎えてくれた。おそらくこの二人にもマスコミや赤の他人からの言葉の暴力が襲い掛かっているんだろう。 「あの子が漫画を描いていたなんて、知りませんでした」お母さんがそう言った。 「小さい頃から絵を描くのが好きって言ってたんですけどね。ふすまにお絵かきしたりして、だめよって叱ったりして…」目は彼の遺影を見つめていた。 「将来絵描きになりたいって、言ってたんです。でも…そんなのできるわけないって言ってしまったんです」お父さんがうつむいたままそういった。「ばかな親だなぁ…」そう言って二人とも泣き出してしまった。 「彼をここまで追い込んだのは、私の責任です。私が彼を、この世界に招かなければこんなことにならなかったのに、」そういう私も泣いていた。 「あなたのせいではないです。あの子はあなたに会っていなかったら、自分で生活するお金を稼ぐことも出来なかったんだから」 お父さんが、鼻をすすりながら封筒を取り出す。異様に分厚いその封筒の中には、札束がぎゅうぎゅうに押し詰められていた。 「ある日ポストの中に入ってたんです。息子の字で、今までごめんなさいってだけ書いてある便箋と一緒に。こんなの貰ったって、どうしたらいいのか分からないのに」 お父さんはさらに泣き続けた。「あの子のお墓を、このお金で作ろうと思います。そのときには、あなたにも連絡しますから」お母さんが言った。「必ず伺います」私は目を見て答えた。線香の煙は、まっすぐに上り続ける。 帰りの新幹線の中で、泣き疲れてまどろむ私は、自宅のポストに分厚い封筒が入っている事をまだ知らない。

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