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第3話
俺の気持ち
絵心が無いのは自分でも嫌というほどわかっていた。小学生の頃から図画工作の時間が苦痛で仕方なくて、早く終わってほしいとばかり思っていた。
今日の課題は学校の中をいつもと違う視点で描いてみようというものだったけど、
普段見ているものを違う視点で見ろと言われても、どうしたらいいのか分からない。
先生も「感じるままに描いてごらん」とざっくりしたことしか言わない。俺はそういうアドバイスがどうしても苦手というか、理解できなかった。
もっと、直感的というか、分かりやすく言ってほしい。例えばもっと足に筋力をつけましょうとか、こういう筋トレをしてみましょうとか。
こんな事してるくらいなら、テニスの練習がしたい。俺は画用紙の端にテニスボールを描いて遊び始めていた。
視界の端で、誰かが座り込んで絵を描いているのが見えた。その人と普段話したことが無いけれど、凄く真剣な表情で描いていたから、つい覗き込んでしまった。
相当集中しているようで、俺が後ろから見ていることに気づいていない。
画用紙に描いてあるのは自転車の駐輪場だった。小人くらいの視点から見たような、先生の言う違う視点で見ているような絵。「凄いなぁ」思わず口からこぼれていた。
その人は驚いて振り返る。急に立ちあがって、スケッチブックを折りたたんでどこかに走って行ってしまった。悪いことをしたな、と反省した。
もう少し見ていたかった。
小さい頃から親の影響でテニスをやっていた。父親は学生時代にプロを目指していたけど、怪我でその道を諦めたらしい。それを息子の俺に託したのだ。周りからは素晴らしい親子関係だなんていわれていたけど、そんなもんでもない。
最初は反抗した。別に自分でやりたくてやってるわけじゃないのに、親のエゴで色んなことを押し付けられ、奪われてきた。放課後友達と遊びに行くことも、一緒にゲームをすることも出来なかった。そんなことをしている暇があるなら練習しろ、が父親の口癖だった。
試合に負けようものなら、窓ガラスが割れるんじゃないかと思うほどの大声で怒鳴られる。
俺は試合に勝ちたいからというよりも、父親に怒られたくないからという理由で練習していた。
一度だけ、練習をさぼって遊びに行ったことがある。後で父親にばれてこっぴどく叱られた。
「誰もテニスやりたいなんて言ってないのに、押し付けてきたのはそっちだろ」
初めて父親に自分の思いを告げた。父親は怒りの表情を崩して、悲しそうな顔をした。
そして、「なら、テニス以外にお前に何ができるんだ」と俺に言った。
何も言い返せなかった。今更テニス以外の事を始めたところで、熱中できるのか自信が無い。
0から何かを新しく始める勇気なんて無かった。
ならばもう、このまま流されて生きていけばいいかもしれない。スポーツ推薦を貰って、大学に入って、というように。
そんな腐った性根を持った人間だと知ったら、俺の友達たちは離れて行ってしまうんだろうか。それだけは嫌だと思った。皆が慕ってくれて、先生も信頼してくれているこの現状を手放すことが、怖くて仕方なかった。
テニスをしていない自分に存在価値は無いのだ。試合をしている姿に憧れたから、と俺に告白してくれた彼女も、テニスを辞めたら去って行ってしまうのかもしれない。
孤独になんてなりたくない。その一心だけが、俺を奮い立たせている。
俺の素性がばれないように。作り笑いばかりが、上手になっていった。
もみじの葉が校内を舞う頃、俺は告白された。あの絵の上手な彼に。
聞き取るのがやっとくらいの小さな声で、「好きです、付き合ってください」と彼は言った。
ただでさえ細身の体が、余計に小さく見える。
「ごめん、俺彼女がいるんだ」そう告げると、彼は顔を上げた。今にも泣きだしてしまいそうな表情をしていて、凄く申し訳ない気持ちになった。
「身の程知らずでごめんなさい」震える声でそう告げ、彼は走り去っていく。
そんな事言うなよ、という言葉は落ち葉が舞うかさついた音に消されてしまった。
「ねぇ、何してるの?」後ろから彼女が声をかけてきた。「あぁ、いや…別に」「じゃあ帰ろう。久々に部活ないんでしょ」「…うん」俺はその背中が見えなくなるまで見ていた。
高校を卒業した後も、友達との関係は続いていた。ある日「同窓会やらない?」というメールが届き、俺は「いいよ」と即答した。
県外の大学に進学して地元から離れていたこともあって、昔の顔なじみに会いたかった。
そのとき、彼は来るんだろうかと思った。幹事役に聞いてみると、「いや、来ないっつーか…あいつの連絡先知らないんだよなぁ。どこに進学したのかも知らないし…」と答えた。
確かに、目立つような人物ではなかった。だけど、俺はあの時見た絵がなぜかずっと忘れられなかった。あの絵が完成するところ、見てみたかったな。
久々に会った皆は、見た目が変わったやつもいたけれど、昔の面影が残っている。
あれからどうしているのか、結婚した奴はいるのか、とか、話が尽きなかった。
酒が入ってほろ酔い気分で歌いだす奴も出てきた。「なぁ、あいつの事覚えてる?地味だけど、絵がうまかった奴いたじゃん」俺の耳は誰かが放ったその言葉を拾った。
「なに、お前知ってるの?」と聞くと、「いや、あくまで噂なんだけど…あいつ、ひきこもりになっちゃったらしいよ。大学も行ってないし就職もしてないんだって」とそいつは答えた。「えー、まじで?引きこもりって、親のすねかじって生活してるってこと?」「分かんねーよそんなの…ただ、俺の母親が聞いてきたって話だから信憑性もいまいちだし…」
同い年で、ここまで人の歩む道は変わってしまうものなんだろうか。同じ場所で同じ勉強をしていたはずなのに、こんなにも違う生き方になってしまうんだろうか。
俺はなんだか悲しかった。俺にはテニスというものがあったから、かろうじてそれを生きがいとして生きている。彼は、絵を描くことを生きがいにはしなかったんだろうか。
たった一瞬見ただけで心を奪われるような絵を描いていたのに。彼にとって、絵はそういうものではなかったのかな。
話題はもう別の話に変わっていたけど、俺は彼の事をずっと考えていた。
俺は少しずつ経験を重ね、晴れてプロになった。新星としてニュースに取り扱われたり、インタビューを受けたり、スポンサーがついたり、自分の身に起こっている事が夢のようだった。
付き合っていた彼女と結婚して、世間から見た俺は順風満帆そのものだった。相変わらず父親は俺の言動や普段の生活態度に口を挟む。あんなに鬱陶しいと思っていたものも、今では小さな虫が顔の周りを飛び交っているくらいにしか思わなかった。
図太くなったなぁ、と思う。試合に負けただけで、各スポーツ紙は俺の事をこきおろし、勝てば手の平を返してほめちぎる。正しい評価ってなんなんだろう。俺の本当の価値ってどのくらいなんだろう。
そんなことを思いつつも、応援してくれる人がいるのは嬉しかった。地元の子供たちにテニスを教えるイベントがあり、出席したとき俺の周りを子供たちが囲んだ。皆きらきらした瞳で俺を見る。「サインください、お願いします」とあっちこっちから声が飛んでくる。
一つ一つに応えていたら、すっかり日が暮れていた。
帰ろうとしたところで、小さな男の子が俺を見ているのに気付いた。手にはテニスボールを持っている。「おいで」と声をかけると、男の子は恐る恐る俺に近づいてきた。
ボールにサインをすると、男の子の表情が、ぱっとほころぶ。「気をつけて帰ってね」と頭をなでると、こくんと頷いた。男の子は駆け足で母親と思われる女性のもとへかけていく。
母親が俺に何度も頭を下げていたので、俺も頭を下げた。
男の子は、声を出さずに一生懸命手を母親に向けて動かしていた。
それが手話だと気づいて、なぜか泣きそうになった。
「ねぇ、ちょっといい?」夕食の後、妻が言う。「なに?どうした?」妻は神妙な面持ちで声をひそめて話し始める。「最近、つけられてる気がするの」「え、ストーカーってこと?」
「いや、気のせいかもしれないんだけど…買い物が終わって車に乗るときとか、ゴミ出しをしてるときとか、ふとした瞬間に誰かに見られてるような気がして…」妻はおびえた表情でいう。「…実は、俺もなんだよな」「え、そうなの?」嫌な気配を感じ始めてから、かれこれ数カ月が経っていた。試合の移動中、休憩しようとベンチに腰掛けた瞬間、誰かが俺の事を見ている気がするのだ。振り向いても誰もいないけれど、嫌な感覚がうなじのあたりにじっとり残っている。「警察に相談した方がいいんじゃないの?」「いや、どうせマスコミかなんかだよ。俺よりも、お前の方が気を付けた方がいいって」俺は軽く笑ってそういった。
「なるべく買い物は二人で行こう。俺が海外にいるときとかは、お義母さんとか必ず誰かと一緒に行くようにしよう」俺の提案に妻は頷いた。
その時も、俺は何か、嫌な予感のようなものを感じた。
昨夜から降っていた雨は、日が昇ってからも降り続けていた。ポストを開けると、新聞に交じって封筒が入っている。俺はそれを取り出してみる。差出人の名前は書いていない。
家に入って封を開けると、一枚の紙切れと便箋が出てきた。便箋には、「これはあなたですか?」と汚い字で書いてある。紙切れには絵が描いてある。裸の人間が抱き合っている。よく見てみるとそれはどちらも男性だった。性行為を描いているその絵の、組み敷かれている方の男性の顔に赤ペンで丸が書いてある。意味が分からなかった。ちょうどそのとき携帯が震え、俺はドキリとして封筒を足元に落としてしまった。
電話の相手は同窓会の幹事をしていたやつからだ。「もしもし、どうした」「あ、もしもし?ごめん、こんな朝から…なぁ、お前最近変な手紙とかもらってない?」今の自分の状況を見透かしたような言葉にぞわりとした。「なんで、そんな事知ってるんだお前…」「いや、俺のところにも変な手紙来ててさ…なんか、男同士でエロい事してるような絵が描いてあって…」「お前のとこにも?俺のところにも届いてた、今それ見てて…」「え、そうなの?いや、その手紙にさ、これはあなたのクラスメイトですか?って書いてあんの。お前の名前とかさ。俺以外の奴にも届いてるみたいで、皆怖がってて…」
どうやら俺と関わりのあった人間の所に同じものが届いているようだ。
「他の奴が教えてくれたんだけど、これ、今有名な漫画なんだって。なんか、ボーイズラブ?俺よくわかんないんだけど…で、この漫画に出てくる人が、お前にそっくりだってネットで騒がれてるんだって」「俺に…?」改めて紙切れを見てみる。そんなに似ているだろうか。
真っ赤な顔をして、意識が飛びかけているような表情をしている。
「お前、しばらく外でない方がいいんじゃない?ネットとかも見ない方がいいよ。マジすげーから…あることないこと滅茶苦茶騒がれてる」「ごめん、関係ないのに巻き込んで」
「いや、俺は別になんも被害とかないからいいけど…お前の身内の心配した方がいいと思う。個人情報とかばらまかれるかもしれないし、派手な事しない方がいいよ」心配そうに話す相手の声は震えていた。きっとこいつの所にもそのうち何かしらの被害が及ぶだろう。俺のせいで、関係ない人が匿名の誰かに脅されるかもしれない。考えただけでぞっとする。
電話を切り、紙切れをじっと見た。家の奥から妻の悲鳴のようなものが聞こえる。
思っていたよりも、事態は進んでいるようだった。
テレビや雑誌でも大きく取り扱われ、俺のもとには数え切れないほどの電話やメール、マスコミが押しかけていた。「漫画の作者から金銭を要求されていたというのは事実ですか?」
「作者とも肉体関係があったと一部では報道されていますが」誰かがまいた種は、誰かがやった水を吸い、奇妙な花を咲かせてさらにそこから新しい種をまいていく。上層部からの指示で、俺は一切取材に応えないようにと釘を刺されていた。事態が収まるまで自宅で待機しろとのことだったが、何もせずに収まるような気配はみじんも感じない。
インターネットを覗いてみて、俺は愕然とした。
俺に対する意見を見たからじゃない。漫画を描いた作者に対する罵詈雑言の嵐に驚いた。
「死ね」「淫乱作家」「キチガイ」「社会のゴミ」「消えろ」ありとあらゆる暴言が、作者のホームページやSNSのアカウントにぶつけられていた。
妻の悲鳴がまた聞こえる。この騒動が起きてから、妻はすっかりノイローゼになってしまった。俺は妻の部屋に駆け込んで、妻を抱きしめようとした。でも、「さわらないで、」とその手をはじかれてしまった。「私以外の人と付き合ったことないって言ったのに、男の人と関係を持ってたなんてひどい、ひどい」と叫び続けていた。
「違う、そんな事実はないって、」俺がいくら言っても、彼女の耳には届かない。
電話線を引き抜いたはずなのに、コールがなっているような気がした。この世は、嘘さえまことになってしまうようだ。
俺は、問題になっている漫画を買って読んでみた。漫画そのものをあまり読まずに生きてきたから、流行りとかそういうものに疎かった。
出だしから性行為が始まっていたその漫画を読み始める。俺がモデルになっていると噂の人物の顔を見てみる。俺の目には別人に見える。
汗だくの二人が絶えず何かを言い合いながらベッドの上で乱れているけれど
俺にはその漫画に出てくる単語の意味は全く分からなかった。
ただ一つ分かったのは、この漫画を描いた人は、絵を描くのがとても上手だということ。
絵を描くのが、漫画を描くのが凄く好きなんだろうなと思った。
もし俺がこの漫画を再現しろと言われたら、1ページ描き終わるのに余裕で一カ月はかかる。
そのくらい緻密で、綺麗だと思った。骨董品とか、そういう美術品を鑑賞しているような気分になる。どのページをめくっても、漫画の中の彼らはずっと喘いでいる。
俺はこの漫画の面白さとか、良さを本当の意味で見出すことはできなかった。だけど、これを描いた人の情熱というか、信念のようなものが痛いほど伝わって来た。
自分が描きたいものを見てくれ、という声が聞こえてきそうだった。こんな風に書けるようになるまで、どのくらい練習したんだろう。どのくらい悩んだんだろう。
俺が思い通りのサーブが打てるようになるまで、手のひらの豆がつぶれるまで練習したのと同じように、これを描いた人も、沢山練習したんだろうな。
これを読んで感動した人や心を打たれた人がいて、ファンになって、応援していたんだ。
自分が見たいものを、思い通りに描いてくれる神様のような人だったんだ。
それが突然、憎しみに変わってしまった。自分の中で神様として扱っていた存在が、世間を賑わす人物になってしまった。その悲しみや怒りは、一体どれほどのものなんだろう。
俺も最初は嫌々テニスを始めた人間だけど、応援してくれる人たちの存在が増えていくたびに、その声に応えたいと思うようになった。
この漫画の作者も、ファンの声に応えたかったんじゃないのかな。やり場のない感情や、どうしようもない虚しさを紛らわす方法が、この人にとっては漫画だったんじゃないのかな。
俺がボールに込めたイライラを壁に打ち付けるように。
俺は決めた。これ以外に、何も思いつかない。
緊急記者会見として、俺は周囲の声を無視して独断で場所を用意した。怒られてもいいし、二度とテニスが出来なくてもいい。これ以上、誰も傷つかないように。その一心だった。
会場に入りきらないほどに溢れかえった記者たちが、ギラギラした目で俺を見る。
獲物を狙う獰猛な生き物の瞳のようなカメラのレンズ。そんなもの怖くもなんともない。
「これ以上作者の方を責めるのはもうやめてください。僕は今回の件に何も関与しておりません。ニュースで騒がれているような、彼から金銭を貰っていたという事実もありません。彼はただ、自分の世界を表現したかっただけなのだと思います。僕がテニスで誰かの希望になりたいと願うように、彼もまた漫画の世界で誰かに夢を与えたかったのではないでしょうか」俺の言葉を、皆が聞いていた。この記者会見を見ているテレビの前の人も。ネットで好き放題騒いでいる人にも、届いてほしいと願いながら俺は話した。
「もし、僕が言っていることが信じられないなら、怒りや不満が収まらないなら、僕のホームページに書き込んで下さい。僕の知人、家族、関係者にこれ以上被害が及ぶようなら、法的措置も視野に入れて動いていきます。嘘を広めた人も、誰かを傷つけた人も、皆、一人残さず炙り出します。僕がされたのと同じことを、あなたたちにも必ずします」
俺はテレビの向こうの、大荒れのネットの海の底で胡坐をかく人たちに向けて話していた。
「どうか、もう誰も傷つけないでください。嘘をつかないでください。冗談でも、人の命を奪いかねない言葉を投げないでください。あなたが犯罪者になる前に、どうかやめてください。お願いします」頭を下げる俺を、カメラがとらえ続ける。
どうか、もう誰も傷つけないで。それだけが願いだった。
記者会見の後、俺のホームページには色んなつぶてが飛んできたけれど、俺はその一つ一つに返事をした。送ってきた人も俺の行動が予想外だったのか、それ以上何かを言ってくることは無かった。荒れていた世間の波は、本当に少しずつおさまっていった。
ワイドショーもこの一連の騒動を放送してもうま味にならないと思い始めたのか、
違う誰かのゴシップを放送し始めていた。
妻も泣きながら俺に何度も謝った。崩れていたものを、また最初から少しずつ積み上げていけばそれでいい。
そう思っていたのに、どうして、神様というのは残酷なんだろう。
漫画の作者が自殺した。静まっていた波は、モーゼが海を割ったように再び荒れ始めた。
今度は彼を誹謗中傷していた人たちに向けて、一斉攻撃が始まっていた。
「本当に死んで満足か?」「人殺し」「お前らが死ね」彼のファンだった人たちは、やり場のない怒りをそこかしこにぶつけていた。
俺もどうしたらいいのか分からなかった。一度でいいから彼に会いたいと思っていた矢先に起きた事だった。
あの日届いた紙切れは、今も俺の手の中にある。
うつろな瞳で抱かれている男の人。
ぼんやりと眺めていると、家のチャイムが鳴った。インターホンから「どちら様ですか」と尋ねると、「あの…元○○編集部のものです」と返ってきた。
黒のスーツに身を包んでいた彼女は、死んだ彼が描いていた漫画を掲載していた編集部の人間とのことだった。黒髪を後ろで束ね、顔はやつれている。彼女にも、おそらく俺と同じような事態が起きていたんだろう。
「あなたにどうしても伝えたいことがあるんです」彼女が俺の目を見ていった。
「記者会見を開いてくださって、ありがとうございました。彼を…先生の事を、気にかけてくださって、本当に、ありがとうございました」声が震えている。泣いているようだ。
「いや、俺は、何も…ただ思った事を言っただけだから」あの後、色んな関係者に怒られたけれど、どうでもよかった。これで少しでも、彼に対する攻撃が減ればと思っていたけれど、彼は死んでしまった。結局、俺の自己満足に終わってしまったのだ。
「私は、素の彼をほとんど知りませんでした」コーヒーはすっかり冷めている。
「本当に必要最小限の事しか知らなかったんです。必要以上に触れないことが優しさだと思っていました。でも、違っていました。本当は、むしろ、こちらから触れなくちゃいけなかったのに」
相手の気持ちを知ろうとするのは、簡単なようで凄く難しい。相手が言っていることが本心からなのか、それともお世辞なのか、好かれるためのおべっかなのか。
そういうことを考えながら生きている自分も嫌だった。
「彼の作品を伝えたい一心で働いていたけれど、彼の本当の気持ちに気づけませんでした。彼の苦しみを知ろうとしないまま、私が無力だったせいで…」「あなたのせいじゃないです。…ネットというものが、力を持ちすぎてしまったのだと思います。俺はただ、同じようなことが二度と起きないことだけを、願っています」彼女も俺の言葉に泣きながら頷いた。
誰も悪くない。本当に。呪文のように、繰り返し胸のうちで唱える。
「取り乱してすみませんでした」目元をハンカチで拭いながら彼女が言う。
「いえ、わざわざ来てくださってありがとうございました」彼女を見送っていると、強い風がびゅう、と吹いた。
彼女のコートのポケットから一枚の写真が舞い落ちた。「落としましたよ」とその写真を拾った。
見覚えのある、黒い瞳が俺を見ていた。
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