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第4話
ファンだから
ひと目見たときから好きだった。
繊細で、デッサンもパースも完璧で色っぽくて、
心を鷲掴みにされた。
それと同時に、私の心の中の何かが、メキッとへし折られてしまったんだと思う。
携帯に最新話更新の通知が来た。
少し前の私なら喜んで開いていたけど、今はそんな気持ちになれなかった。
今話題沸騰中のBLと言われ、ネットでは先生のファンサイトが出来るまでになっていた。
更新されるたびに、ネットの海は大きくうねって波を作り盛り上がる。
先生を「神」と崇めるコメントを見ると、私の心は曇っていく。
正直言うと、私は最近の先生の漫画を面白いと思えなくなっていた。
相変わらず凄く絵が上手いけれど、面白いかと言われるとイエスと言えなかった。
ずっと続くベッドシーンと、申し訳程度の告白シーンと、特別胸にしみることのないセリフが続く。
登場人物に感情移入も出来ず、ただ目の前に広がる濡れ場をぼんやりと見るだけだった。
「嫌なら見るな」という言葉をよく見かけるけれど、私だってそうしたい。
だけど、どうしても気になってしまう。
もしかしたら、私が好きだったあの頃の作風が戻ってきてるかも、という僅かな期待が胸にくすぶっていて、つい覗いてしまう。
結局そこには私が望んだものは無く、やっぱり濡れ場が延々と続いていた。抱いた期待はあっけなくかき消され、私の心にぽっかりと穴をあける。
勝手だと思う。自分にとって納得のいく展開じゃないからって、勝手に落ち込んだり腹が立ったり、馬鹿馬鹿しい。
多分こうなってしまうのは、私の中に「好き」と同じくらいの「憎い」という嫉妬の気持ちがあるからで、自分自身も漫画を描いていたことが原因だと思う。
物心ついた頃から、漫画家になるのが夢だった。
周りが就活に忙しなくしていても、私はずっと漫画のことしか考えていなかった。
その無鉄砲さを棚に上げ、自分に酔っていたんだと思う。純粋に夢を負い続ける、かっこいいことをしているのだと言い訳をし、本当にやらなきゃいけないことから目を背け続けていた。
諦めなければ夢が叶うという台詞は、夢を叶えた人が言うから説得力がある。
私もそう思っていたけれど、結局持ち込み入った場所全て玉砕し、私の手元に残ったのはつまらないと吐き捨てられた漫画のネームの山と原稿だけ。
職歴もまともにない、才能もない、生きてる意味があるのかないのか分からない、だめな大人になっていた。
一番腹が立つのは自分自身だ。癖を個性と言い訳し、まともに絵の勉強もせず、個性の押し売りをしていただけの勘違い野郎だったのだ。なんでもっと自分の本質を見ようとしなかったのか、無鉄砲さに危うさを感じなかったのか、ただただ後悔ばかりがつのる。
絵がうまいのは、沢山練習したから。そんな当たり前のことすらできない自分に、どうして脚光が当たるかもなんて思ってしまったんだろう。恥ずかしくてたまらなかった。
紙の山の真ん中で、私はうずくまった。こんなに沢山の紙を無駄にして駄作を作り続けた自分の愚かさを、この先ずっと祟って生きていくのだ。
これで駄目だったら、漫画の道具はすべて捨てようと決め、BL漫画を掲載している編集部へと向かった。
結果はやっぱりおんなじ。「ネットではねた事もないのに持ち込みに来るな」という一言だけを投げられた。凄く悲しい一言のはずなのに、なぜか涙は出なかった。
心も頭の中も無の状態で編集部を出る。空は鉛色。私の地元と違って空が低く見えるのは、ビルが多く並んでいるからだろうか。帰りの電車の中で何を食べようか、と別の事を考えようとしていると、「あの、そこの濃紺のコートを着てる方、」と声がする。
私の事かと振り向くと、女性が一人こちらに走ってくる。弾んだ息を整えながら私に向き直るその人は、手にビニール傘を持っていた。「雨、降りそうだから」さっき私がいた編集部の社員証をぶら下げているその人は、つややかな黒髪をしていた。こんな綺麗な人いただろうか。「でも、」と言い淀んでいると、「大丈夫です、返さなくて」と女性は言う。
「うちに来てくれて、ありがとうございました」女性の一言が、私の涙腺の栓を引っこ抜いた。「ありがどうございまず」鼻声になってしまうのをどうにもできなくて、私は女性に深々と頭を下げて走り出した。
私のすさんでひねくれた心に、優しい一滴をこぼしてくれたあの人が、もし私の漫画を読んでくれていたら、何か変わったんだろうか。
考えても仕方ないのに、私の脳みそはそのこと以外考えられなくなっていた。
今、コンクリートに丸いしみを作ったのが雨なのか涙なのか、分からなかった。
先生が漫画を描いているのは、私が最後に持ち込みに行った編集部だった。だから追ってしまうんだろうか。だから気になってしまうんだろうか。
この漫画を担当しているのは、あの時傘をくれた女性なんだろうか。ビニール傘は私の部屋の押し入れにしまってある。何の変哲もないただの傘だけど、私にとっては凄く大切なものだった。
最新話が更新されるたび、私はファンサイトを覗いてしまう。そこに並ぶ、沢山の賛辞の言葉。見ていると自分がみじめで情けなくて、どうしようもなくなるのに、脳みそがその痛みを要求してくる。親の縁故で入社した会社で働く私はもう、漫画を描かないと決めたのだ。
道具も何もかも捨ててしまった。ただこうして、何とも言えない気持ちを抱えながら生きていくしかないのかと思うと、凄くむなしい。
野菜ジュースを飲みながらサイトを見ていると、一つのコメントに目が留まった。
「なんか最近の先生の漫画、面白いと思えないんです。なんていうか、単調というか、前にも見たなあ、みたいな…」私はそのコメントに釘付けになった。
私と同じもやを抱えている人がいるのだ。それが凄く嬉しいというか、ほっとした。
周りの人はそのコメントをなかったかのようにして盛り上がる。私はそのコメントにそっとチェックをつけた。
もし、こんな思いを抱えている人がいるなら、話がしたい。このどうしようもない醜い気持ちの共感をしたい。
野菜ジュースが底をついて、じゅっと変な音がする。私は計画を練りながら仕事に戻った。
先生の最近の漫画の気になるところを話すサイトは、思っていた以上の反響を呼んでしまった。傍から見ればアンチサイトと変わらない。だけど、悲しいことに私にとってその場所は心のよりどころになっていた。
「前は凄く好きだった。でも、最近はいやらしいシーンばっかりで、登場人物の気持ちもよくわからなくて、何が面白いのかよくわからなくなった。こういうのが好きなんだろう?って言われているみたいで、腹立たしいような気持ちにさえなる。」
私が書き込んだコメントに、色んな人が賛同の意を表す。とても気持ちがよかった。
まるで自分が神様になったような感覚になる。
私は先生のファンだった。だけど、ファンだからと言って先生が作るすべてのものに感動するわけじゃない。不快な思いをすることだってある。信者ではない。
本人には言えないような鬱屈した気持ちをサイトに叩きつけるたび、私の心は軽くなる。
近所の教会から讃美歌が聞こえてくる。窓に目をやると、細い十字架が見えた。
あの協会はこの辺に住んでる人なら知っている、結構有名な教会だ。
私が小学生くらいの頃、教会に雷が落ちた。バリバリバリ、と地球にひびを入れるような轟音を鳴らし、地面をずずん、と揺らす。
私は細い十字架のてっぺんに、稲妻が火花を散らす瞬間をこの家の窓から見ていた。
神話の中の神様同士が戦っているようで、凄く綺麗だった。
誰もが教会が火事になる、と思った。だけど、教会は火事にならず、いつも通りの姿でそこにあった。皆はその教会を奇跡の教会と呼び、ニュースにも取り扱われた。
私は十字架を見つめながら、あの教会の近くにいるかもしれない神様に問いかけた。
私に神様になる資格はありますか?
ある日突然報じられたニュースは、ネット以外でも大きな話題になっていた。
先生が描いている漫画は、モデルがいるらしいということ。しかもそれが、実在する、スポーツに疎い私でさえ知っているテニス選手だったこと。
私は自分の中の天秤が、完全に「嫌い」に傾くのを感じた。うらぎりもの、と心の中で呟いた。この物語は、先生が一から作り出したものだと思っていたのに、実際はモデルがいて、しかもその人を漫画の世界で好きなように犯し続けていたなんて。
携帯の通知が鳴りやまない。おそらく私が作ったサイトへのアクセス者が急増しているんだろう。
私はサイトに油を注ぎ続けた。楽しくて仕方なかったのだ。かつて憧れた人間に嫉妬を感じ始めて、その嫉妬に共感してくれる人がいて、しかもありとあらゆる人間が先生の漫画を批判する。「何が面白いのか分からない」「淫乱作家」目につく言葉全てが私を喜ばせてくれる。皆で手をつないで、どんどん火柱を大きくしよう。キャンプファイヤーみたいに。
あることない事書き連ねても、みんなそれを真実と思っている。こんなところで自分が培った物語を考える力が役に立つとは思わなかった。
「この編集部も頭おかしいだろ」その一言を目にして、一瞬だけ頭が冷えた。あの日私に傘をくれた人。あの人も、この業火に焼かれているんだろうか。そう考えた瞬間、キーボードをたたく指が止まる。
もうやめようよ、と声がした。小さい頃の私。漫画を描くのが大好きだった私。先生の漫画を楽しく読んでいた私。悲しそうな声だった。サイトはどんどん盛り上がる。
私は頭を振って、また楽しい火の中へ飛び込む。
心の片隅に感じる虚しさも、一緒に燃やそうと思って。
世の中というのはよくできていて、自分がした過ちは絶対に返ってくる。
そう言っていたのは、先生が描いた漫画の中の男の人。
先生は自殺した。「自殺」という文字を理解するまでどのくらい時間がかかっただろう。
全身の血の気が引いていく。先生を慕っていたファンたちの悲痛な叫びは怒りに変わり、私のサイトに押し寄せてきた。
「本当に死んで満足か?」「犯罪者のたまり場」そんな言葉がサイトのチャットを埋め尽くしていく。言葉の槍はどこからか漏れた私のメールアドレスにも届くようになった。
「お前が殺した」その一言は私にとどめを刺すのに十分すぎるものだった。
私が殺した。大好きだった先生を、嫉妬に狂って殺してしまった。
いつだったか、先生に宛てて書いたファンレターに書いた言葉を思い出す。
「先生の事ずっと大好きです」
薄っぺらな言葉で綴った紙切れを、先生はどうしたんだろう。そんなことを考えた。
記録的な豪雨に襲われ、町は一面水浸し。私は昨日の夜から家に帰っていない。
うるさい携帯電話は叩き割ってしまったから使えない。
今頃親は心配しているんだろうか。いや、こんな放蕩娘気にしていない。
すねかじりがいなくなってせいせいしているだろう。
ビニール傘は思っていたより劣化が進み、小さな穴が開いている。人間と同じで、手入れをしないと朽ちていくのだ。
サイトは閉じたけれど、私への攻撃は止まらなかった。家の電話にまでいたずら電話が来るようになり、ポストには「ひとごろし」と書かれた紙がぎっしりと詰め込まれていたり、
知らない人に急に肩を掴まれて何かを怒鳴られたりもした。
これは報いだから仕方ないのだ。
私は水たまりをわざと踏んで歩いた。濁った水が靴を汚す。
人は皆神様が欲しい。自分が進むべき道を示してくれる神様。だから私も神様の所へ行くのだ。
教会の扉は思っていたよりも軽かった。中はうっすらと花の匂いがする。
長い廊下の向こうにあるパイプオルガン。あの音色に合わせて、皆讃美歌を歌うんだろう。
「どうされました」奥から神父らしい人がやってくる。「風邪をひきますよ、こちらへどうぞ。紅茶でもいかがですか」優しく微笑むその笑顔は、私が事実を話しても剥がれずにいてくれるんだろうか。
「懺悔をしに来ました」「懺悔?」遠くで雷鳴が聞こえる。
「人を殺してしまったので」
辺り一面光に包まれる。空を裂くような雷に、私の体も焼き切ってほしいと思った。
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