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第5話

私は嫉妬に狂った暴徒のようなものでした。自分の努力不足を棚に上げ、人の上げ足を取ることばかりを考え、負の要素の共感で快楽を得ていました。 本当に愚かな人間でした。顔も名前も知らない人を傷つけ、嫌な思いをさせ、挙句の果てに 大好きだったはずの人を死に追いやってしまいました。 ばかな私には、こうする以外に償い方がわかりませんでした。 お父さん、お母さん、ごめんなさい。この世に貢献するどころか二人の顔に泥を塗っただけのゴミでした。さようなら。 部屋に残されていた手紙には、そんなことが書いてあったらしい。震える文字で綴られたその手紙を持って彼女の両親がこの教会にやって来たのは、数日前の事だった。 何度も書き直したのか、くしゃくしゃに丸められた紙の山であふれていた彼女の部屋。 彼女の遺体は、ここから離れた崖の下で見つかった。飛び降りだった。 彼女の死はニュースで取り上げられたが、私が驚いたのは、彼女の死を「この世のため」と言い張る人間が沢山いた事。 ひとつの命がこの世から消えたことを喜ぶなんて、そんな悲しい事があっていいのだろうか。 顔が見えない、名前も分からない、どんな仕事をしているのかそれとも学生なのかすら分からない、素性という物が全く見えない世界の中で行われる殴り合いは終わりが見えない。 著名な漫画家が自殺したというニュースが報道されていたことは知っている。 そしてその漫画家の死にファンが関わっていたらしいとの報道もあったが、日々様々な情報が飛び交っていたためどれが事実か分からなかった。 「あの子がネットに夢中になっているのには気づいていたんです、でも、どうせゲームか何かに熱中しているんだろうと思って、気にも留めませんでした」 彼女の母親は、泣きながら私に告げる。 「しばらくしてから、うちに変な手紙が来るようになったんです。ニュースで、有名な漫画家さんが自殺したって放送され始めた頃から…私たち、何のことか分からなくて、娘に聞いてもうつろな目でごめんなさいって言うばっかりで、それで…」 父親も夢中で私に話しかける。「あの子がここの教会に来てるって、近所の人が見たって言ってたから、何か知りませんか、あの子に何が起きていたか」 「申し訳ありませんが、私もすべてを知っているわけではないのです。ただ彼女が打ち明けた事しか」「それって何ですか」 「大好きな人を殺した罪を償う方法を探していると」 彼女と初めて会ったとき、外は大雨が降っていた。 戸締りを確認しようと外に出たとき、ずぶぬれで立ち尽くす彼女を見つけた。 傘もささずに、置物のようにそこにいる。 虚無に染まった瞳で私を見つめる彼女は、 精神という物がもう跡形もなく壊れてしまっているように見えた。 「風邪をひきます、早く中へ」私が話しかけると、彼女の指先がぴくりと動いた。 手を取って教会の中へ促そうとしたとき、その手の氷のような冷たさに私は驚いた。 ずぶ濡れの服を着替えさせ、椅子に座るよう促す。 彼女は自分の事をほとんど話そうとはしなかった。 石像のようにかたまったまま、話そうとも動こうともしない。 私は深くは聞かず、 彼女が自分から言葉を発するのを待った。 そのまま時間だけが流れ、ただ並んで座ったまま何も話すことなく太陽が沈んだ。 彼女は急に立ち上がり、「ごめんなさい」と呟いて帰ろうとする。 「いつでもいらっしゃい」彼女に向かって声をかけると、彼女の頭が少しだけ頷いたように見えた。 ある時、教会の扉が激しい力で叩かれ、何事かと飛び出すとカメラを構えた、たくさんの人の群れがあった。 「最近この教会に20代くらいの女の人来てますよね?その人の事詳しく教えてもらえませんか?」皆が口々に同じことを言う。 私は、「近隣の皆さんのご迷惑になりますので、お帰り願います」とだけ言い続けた。 私から情報を得られないと悟ったのか、記者たちは帰っていく。 すると、物陰から彼女が姿を現した。「すみません、追い返すのに時間がかかって」彼女はうつむいたままだった。「迷惑なんかじゃありませんから」 彼女が顔を上げる。 「この教会に入るための裏道があるんです。あなたに教えてあげますから、ここに来たいときはその裏道から入りなさい」 彼女は小さく頷いて、私の後に続いた。 彼女は教会の中で静かに座っている事の方が多かった。時には大声で泣きわめいたり、暴れだしたりもした。 私は他のシスターたちと彼女をなだめ、波が過ぎ去るのを待った。 次第に落ち着きを取り戻した彼女は、決まって泣いた。 ごめんなさいと言いながら何時間も。そして泣き疲れて眠ってしまう。 彼女が教会に来ることは当たり前のことになっていた。 ある時は大きな生傷を負って、ある時は生卵やごみを体にまとわりつかせて、 ある時は右の頬を真っ赤に腫らして。 最初は座っているだけだったのが、私の部屋に来てじっとしていたり、シスターと一緒に手をつないで花を眺めてみたり、少しずつ行動範囲が広がっていく。 教会には記者が時々現れて、中の様子を伺っていた。私はそれを見つけるたび、物陰でこっそり防犯ブザーを鳴らす。その音に驚いて記者が慌てて去っていく様子は実に滑稽だった。くす、という笑い声の方に振り向くと、彼女が立っていた。しかし彼女はすぐに笑顔を取り払って、こわばった表情で奥に去っていく。 彼女は花の世話をするようになった。 機械的な動きで雑草をむしったり、肥料をあげたりしていたが表情は無のままだった。それでも、以前よりかは心無しか楽しそうに見える。 「ありがとうございます。花も喜んでますよ」そう言うと私の方をちらりと見る。 足元にいる蟻の大群が一筋の列を作り、どこかへ向かう。それを見た彼女は、ポケットの中から角砂糖を何個か取りだした。先ほどのお茶の時間で出したものだろう。角砂糖が異様に減っていた謎が解けた。 彼女は蟻の群れの真ん中に角砂糖をばらまいた。それに気づいた蟻たちはわらわらと角砂糖に群がる。 「こうなりたかった」彼女が呟いた。 「こう、というのは、蟻の方?それともお砂糖の方?」 「砂糖」 「色んな人に囲まれたかったということですか?」彼女は頷いた。 「漫画…」「漫画?描いていたんですか?」「でも、うまくいかなかった」 「そうだったんですか」「才能無いって分かってても、辞めたくなかった…それ以外何もいらないって本気で思っていたから、他の生き方も分かんなかった」でも、と一呼吸おいてこう続けた。 「頑張る努力が足りなかった」「絵の勉強とか、そういうことを?」 「癖があるのを、個性って言い訳した…デッサンの狂いも色遣いが変なのも全部自分の個性って言い訳して、頑張らなかった」 「でも、欠点が分かっていただけでも大きいと思います。そうでないと、振り返って考えるということさえできないんですから」 「褒める事が出来なかった」「自分以外の人を?」 「自分より上手な絵を描く人とか、自分より素敵な物を作る沢山の人達を、褒められなかった。自分の方が下手って認めたくなかった」 角砂糖は蟻に覆いつくされ、黒い物体になっていた。 「一回でいいから…」「うん?」「沢山の人に、いっぱい褒められてみたかった…描いてくれてありがとうって、生まれてきてくれてありがとうって言われてみたかった…」「沢山の人に読んでほしかったんですね」「でもできなかった、そうならなかった、それも全部、自分の努力不足だから、分かってたのに頑張らなかったから、作ったもの皆価値が無かった」 彼女はうずくまってそういった。 「漫画で、お金が沢山ほしかった?」そう聞くと頷く。 「親に、」「ご両親に?」「返したかった…今まで迷惑かけた分のお金、漫画で返したかった…」「優しい人ですね」「優しい人は嫉妬に狂って人の悪口を書いて喜んだりしない」 「賞を貰えなかった作品は、本当に価値が無いですか?」彼女の肩がぴくっと動いた。 「この世に存在するありとあらゆる作品の中には、名作と呼ばれるものもあれば、誰にも気づかれずに消えていくものもあると思います。 栄誉ある賞を受賞する作品があるなら、予選で落選するものだってあるでしょう。その作品の数だけ、悔しいと涙する人がいるはずです」 群れから外れた蟻が一匹、砂糖の山にたどり着けずにいた。私はその蟻を指でそっとすくいあげ、砂糖の山のてっぺんに乗せてやった。 「誰かの目には触れているはずです。たとえ大きな賞を貰えなくても。大勢の人に注目されなくても。そして、その人にとっては、その作品が人生を左右するほどのものになるかもしれません」 彼女は黙ったままだった。 「人の価値観というものは、本当に大きく異なります。誰にでも愛されるなんて、不可能に近い。私はチョコレートが好きだけど、世の中にはチョコレートなんて大嫌い、という人だっています。ただそこで、争ってはいけないと思います。お互いの価値観を踏みにじったりするから、喧嘩になったりもめたりするんです。よそはよそ、うちはうち、そんな気持ちを持っていることが一番大事な気がします」 彼女がどんな作品を描いていたのか私には分からない。どういう過程を経て現在の彼女があるのかさえわからない。 そんな私が何を言っても所詮綺麗ごとにしかならないけど、彼女の心の内側で渦まく何かが少しでもほどけたらいいと思った。 「自分の弱さに気づいたあなたは立派です。だけど、自責の念に押しつぶされないでください」 彼女の胸に私の言葉はどう響いたんだろう。 「聖人君子って本当にいますか」彼女が小声で言う。 「探せばいると思います。だけど、私は違う」「神父様なのにですか」 「今はこのような立場にいるけれど、私は今までの人生で傷つけた人の方が多いです」彼女は信じられない、と言った表情で私を見る。 「小学生の頃、私のクラスでいじめがありました」 私のクラスに、勉強もスポーツも何でもできる子がいた。親が大企業の社長でお金持ちということでも有名だった。 貧乏な家に生まれた私は、彼の事が妬ましかった。ただ微笑んでいるだけで周りに人が集まる彼が、羨ましくて仕方なかった。 掃除当番で教室に遅くまで残っていた日の事だ。掃除用具を片付けて帰ろうとしたとき、視界の端に人影が見えた。 咄嗟に振り向くと彼が廊下の向こうに走っていくのが見える。 私は彼の後をこっそりと追いかけた。彼はウサギ小屋の前でなにかごそごそと動いている。飼育小屋のカギを開け中に入っていった。 職員室に保管してあるはずのカギを手に入れることなんて、優等生の彼ならたやすい事だったのだろうか。 彼は小屋の中でしゃがみこんで、ウサギを抱えた。と思ったら、 懐から取り出したカッターナイフをウサギに突き刺したのだ。ウサギはぴぃっと短い悲鳴のようなものをあげ、動かなくなった。 彼は笑っていた。私は怖くなったのと同時に、自分の胸の内に込み上げてきたある考えに身震いした。 しばらくして、クラスの黒板には彼がウサギを殺す様子を写した写真が貼りだされていた。クラス中大騒ぎで、中には泣いている女の子もいた。 当の彼は、教室に入った瞬間愕然としていた。 写真を撮ったのは私。貼りだしたのも私。 皆が彼を見る。説明しろと言わんばかりの瞳で。 彼は転校した。風のうわさで、精神を病んで療養施設にいると聞いた。それを聞いた私は、嬉しくもなんともなかった。 最初は楽しくて仕方なかった。皆のあこがれの存在が、陰で小さな生き物を殺して喜んでいるような外道と知ったらみんなどう思うだろうと、わくわくしていた。でも、私の行いは思った以上に大きな火を起こした。 彼の親は会社での身の置き所がなくなり、暮らしが困窮したという。 だけどこれも風のうわさだ。それが真実なのかどうか、知る勇気なんて私には無かった。 一人の人間の人生を、自分の行いで滅茶苦茶にしたという事実は一生消えない。私は死ぬまで、このことを忘れずに生きていく。 たったそれだけの事が報いになるなんて思っていないけど、私にできることはこれくらいしか思いつかなかった。 彼女は私の話を黙って聞いていた。「愚かでした。他人をこきおろすことでしか、自分の機嫌をとれないなんて」プランターで揺れる花たちは、彼女が世話をしたものだ。 「嫉妬という感情はとても怖いです。怒りと憎しみだけに心を支配され、本当に見るべきなのは自分の未熟さなのに、私はそんな簡単な事にも気づけませんでした。事が済んだ後ならいくらでも言えます。あの時なんであんなことしてしまったんだろう、とか、自分が情けない、とか」 足元で蟻が死んでいる。その周りに別の蟻が群がり始めていた。 「どれだけ後悔しても、過ちを犯そうとした瞬間に戻ることはできないし、無かったことにもできません。ならば、人の為に出来ることを見つければいいんです。どんなに小さくたって構いません。それがいつか誰かの為になるかもしれない。自分を救ってくれるかもしれない。少しずつでいいです」 彼女は「私も同じ」と言った。「え?」「私も、同じようなことしました」 彼女はゆっくり、少しずつ話してくれた。 自分がしてしまったこと、記者が追ってくる理由。 「話してくれてありがとう」話が終わった後に言うと、彼女は泣き始めた。 話したから自分の罪が消えるわけじゃない。無かったことにはならない。 だけど、自分の力だけじゃどうしようもできない感情がきっと誰の胸の中にもある。 それを打ち明けることは罪ではないと、私はこれからも信じている。 「ここにはもう来ません」お茶が終わった後、彼女が言った。 初めて会った時に比べたら、ずっとすっきりとした表情をしている。 「沢山、聞いてもらったから、もう大丈夫です」 「…そうですか。いつでもきていいんですよ。また一緒にお菓子を食べましょう」そう言うと、彼女はやんわりと笑った。 彼女の言う大丈夫の意味を、もっと聞いていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。 私は天井を見つめた。ここに雷が落ちたあの日、天井を切り裂くような轟音を聞いた。 だけどここは無事だった。死さえ覚悟したけれど、私は生きている。 神が生きろと言っているのだ。迷える誰かの行く道を阻む闇を照らす、一閃の雷光であれと 天が私に告げたのだ。 「顔を上げてください」涙でぐしゃぐしゃになった彼女の両親の肩を叩く。 「祈りましょう。彼女のために」 遠くで雷鳴が聞こえる。

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