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第2話

 俺の入浴事情を理解した聖女さまは先をうながした。   「食事についてですが、トレーク・スプッヂュは偏食家のようで」 「そういう貴族は多いようですね」 「食堂のメニューはセットなのですが、食べたいものだけが一つになっているわけではないので複数のセットを注文されます」 「侯爵令息なら自分の好きな物だけのセットを作らせそうなものですけど」    聖女さまの疑問は俺も感じたことがあるが、恩恵を得ていたので考えないことにした。  トレークが食べなかったものは自動的に俺が食べることになる。  人の残飯で生きていく人生は惨めだなと言われたこともあるが、お腹が空いたままよりも惨めなことはない。    トレークは子供のように食い散らかすわけではない。  自分が好きなおかずやデザートだけを取って、残りを俺の前に置く。  俺が食べきれない量を置くので困ることもあったが、食堂の使用人は優秀なのであとで食べられるようサンドイッチにしてくれたりする。    何度か上級生からサンドイッチをダメにされたり、床に落としてから口に突っ込まれたりもしたが、食べられるだけマシな生活だった。    トレークからの施しがない今は口にできるサンドイッチもない。厳しい訓練の後に食堂の仕込みを手伝って、なんとか手に入れたジャガイモの皮を炒めさせてもらって食べた。    食堂の仕込み程度でちゃんとした賄いは出ない。  トレークのように一口食べて口に合わないとクッキーをくれる人など現れない。  口に合わない、食べたくないのなら普通は使用人に下げさせる。  下げたものを生ゴミにするか、使用人たちで分けるかはその場のルールと考え方による。    わざわざトレークのように俺に渡すよう指定する貴族はめずらしい。  俺への嫌がらせとして押し付けているのかもしれないが、助けられていた。  トレークと関わりがなくなったことにより、栄養の供給源が完全に断たれた。    俺の貧しい食事事情を理解した聖女さまは目の前にあるクッキーの皿に視線を向ける。  卑しさが出てしまったのか「お食べなさない」と言われた。  断ることも出来ずクッキーを食べ続ける俺。  考え事をするような聖女さま。    自分のしたことが無駄だと認めるのは難しいことだ。  聖女さまの期待に応えて見せますと言えない自分が恥ずかしい。  クッキーとお茶で空腹感がおさまってきた俺は出入口に複数の人間がいることに気づく。    男女が密室にいるのは好ましくない。  そのため部屋の扉は開けっぱなしにしている。  会話の内容も外から聞ける。    聞かれて困ることを話した覚えはないが、室内にじりじりと足を踏み入れている人間がいる。俺がクッキータイム、聖女さまは思案タイムに入ったことで無言だった。    声が聞こえないので室内の様子を確認するために部屋の中を覗き込もうとしているのだろう。    品がないとも思うが、俺の言動で聖女さまが何をするか分からない。  噂好きでなくとも気になる生徒は多いだろう。  聖女さまに失礼だと追い払うか考えていた俺の耳に馴染んだ怒声が聞こえた。  トレークだ。  誰かとまた喧嘩している。  人と言い争わなければ生活できない人なのだ。    声が近づいてきたと思ったら、扉の近くにいた数人が室内に雪崩れ込む。  トレークが蹴り飛ばした人間に巻き込まれて体勢を崩したのだろう。    驚く聖女さまに「だいじょうぶです」と声をかける。  トレークは暴力的な人間だが、俺が居ると避雷針になるのか俺以外は無傷で済む。    廊下にいるトレークに声をかけようと床に転がる人々を避けていたら、宙に浮いた。  持ち上げられ、肩に担がれている。   「また臭くなったし、痩せこけてるが――これが、あんたの望みだったか?」    低い声は怒っているようにも思えるが、トレークの通常だ。  淡々としているので丁寧なぐらい。  聖女さまは一拍おいて、手を打った。   「そう。そうなのね」    どうしたのかと思ったら、移動された。  足音からして俺の方へ。    頭に一瞬触れられた。  撫でようと思ったが、予想以上に汚らしくて離れたのだろう。    トレークの肩に担がれた俺の見える景色は床に転がった貴族たち。  容赦なく踏まれたのか足跡がくっきり背中に残っている生徒もいる。   「わたし、勘違いしてたのね」    そうです、聖女さま。とはさすがに言えない。  俺には何の才能もないのです。誰の期待にも応えられないのです。   「あなたには人に愛される才能があったのに、わたしは邪魔をしてしまったのね」    誰が誰に愛されているのか理解できない。  ともかく、聖女さまは俺を特別あつかいするよう周囲に訴えかけるのをやめてくれた。  元騎士団長は「お前はそのままでいい」と言って去っていった。平民は平民のままで居ろということだろう。    聖女さまから見放された平民の烙印を捺された俺の状況が一カ月前より悪くなるかもしれないと思った。が、それは杞憂だった。    俺が居ないことによりトレークから八つ当たりを受け続けた同級生は俺に親切になったし、トレークの取り巻きは俺を神のように崇めてくれる。こっそり、チョコレートなんていう食べ物を貰った。おいしかった。    廊下を引きずられて部屋の中に連れ込まれるのではなく、担がれたり、抱き上げられて連れて行かれるようになったので怪我は、ほぼなくなった。    食事もトレークの部屋で三食まるまる食べさせてもらえているし、寝床も床ではない。  ソファを使わせてもらっていたが寝ぼけてベッドに入ってからは、寝る時間になるとベッドに投げつけられるようになった。    広いベッドなので二人で寝ていても問題ない。    トレークが嫌味な小言を口にすることもあるが、侯爵令息と同じ待遇で生活できているので文句はない。    俺に対して不便はないか聞いていた聖女さまがそれをしなくなり、トレークにいろいろと提案をしている。それ以外、俺の周りは変わっていない。    アカデミーを卒業したら田舎で平民相手に剣術の先生をやるつもりだったが、聖女さまから「何も言わずにこれにサインして」と言われた書類に名前を書いた。    どうやらそれはスプッヂュ家でトレークの補佐をするという雇用契約書だったらしい。  とんだ騙し討ちだが給料は良いし、スプッヂュ家の執事から特別な才能はいらないと言われた。  むしろ平民である俺相手に「存在するだけで価値がある方はいらっしゃるんですよ」と優しく微笑んだ。  意味が分からない。存在するだけで価値があるのは聖女さまだ。    普通の使用人は朝にトレークを起こすことも出来ないという。  三食ちゃんと食事を摂らせることも、適度な運動も、貴族として必要な芸術鑑賞も何もさせられない。    トレークが偏食家で野蛮で体力を持て余しているのは、スプッヂュ家の幼児教育が敗北した結果だったのだろう。    少なくともトレークは俺が声をかければ目を覚ます。  目覚めが悪そうなら布団をめくって放っておくと寒いと言いながら起きてくる。    落ちてくる葉に剣の先を当てるのは技術がいると話すと勝手にやり始めるので、俺に向かって剣を振り回すことはなくなる。    トレークは適度に持ち上げ、目先を変えてやればいい。  他の貴族たちを相手にするより簡単だ。  大多数の貴族は狡猾で回りくどく陰険なので平和に暮らすことは難しい。    誰もが何かしら不満を抱えているのはどこにいても感じられた。  それを感じ取れるのが才能だというなら、俺にも才能はあるかもしれない。    とはいえ卒業後の就職先が決まったのは、俺自身の功績ではない。  聖女さまが俺とトレークを引き離したことで周りがトレーク・スプッヂュの暴君っぷりを思い出しただけだ。      偏食も暴言も何とかなるのだが、性欲はどうなのか。  一緒のベッドで眠っていても俺のほうが起きるのが早かったので問題ないと思っていたが落とし穴があった。    下着の中の濡れた感覚。  まさかの事態だ。油断しすぎた。    トレークは匂いに敏感だ。  そして、理解できないことを追及してくる。   「この齢にもなって、おねしょというやつか?」    トレークの口から出るおねしょという単語に噴き出しそうになったが俺は肩を落とす。  落ち込んで申し訳なさそうな顔を作って、うなだれる。  おねしょだと思ってくれて構わない。    違うと言ったら下着が汚れた原因について説明しなければならない。  俺に屈辱を与えたいトレークにあえて乗っかるのもいいが、その後がよくない。  嫌がらせのレパートリーに性的なものが含まれ始めたら命が危ない。    上半身の筋肉質な肉体美を裏切らない立派な下半身。  嫌がらせではなく子孫繁栄に使って欲しい。    興味を持ったことには、とことん食いつくトレーク。  この話題から逃げられるだけの頭の良さがあれば、平民でも苦労せずに生きられる。  ただ、俺は特殊な才能などないので馬鹿正直に男の体の作りについて話をした。  泣いたら今後、からかいのネタにされる。    心を引き締めたつもりだったのだが、話している最中に嗚咽が止まらなくなった。  恐ろしい未来が想像できてしまって、逃げられる気もしなかった。      泣き続ける俺にトレークは自分が毎朝たのしみにしているデザートを次々と食べさせた。  気づけば風呂に入れられて、新品の下着をつけて、制服を着せられて担架で教室まで運ばれた。よくわからない。担架を持っていた取り巻きたちもよく分かっていなかった。    トレーク・スプッヂュのことを理解しようとするなんて無駄な時間だ。  俺は気にせずいつも通りに生活した。  気遣いなど出来るはずがないと構えていたが、からかわれることもなかった。      平和なまま一日が終わるかと思ったが、相手はトレーク・スプッヂュ。  一筋縄ではいかない。   「小さくて哀れだったから、夜中にこすっててやったが……まさか壊れるとはな」 「壊れてません」 「今日はトイレに行かなかっただろ」    トレークが長風呂をしている間にトイレに入っている。  それ以外のタイミングは我慢した。  トイレに行くと俺がトレークに告げることで今朝の事を思い出させたくなかった。   「使い物にならなくさせたのは悪かった」    謝ることなどほぼないトレークの謝罪だが、受け入れるわけにはいかない。  これは悪いほうへ話が向かっている。   「壊れておらず、正常です。今日は暑く、飲み物をあまり取らなかったのでお手洗いに席を外すことが少なかっただけです」 「少ないのではなく、なかっただろ」    俺の言い訳に納得がいかないトレークのせいで、夜中にたっぷりのお茶を飲ませられることになった。そして、本当におねしょをした。      俺の尊厳が濡れたシーツと共に回収されていったが、元々守るべきプライドなどない。犯されることがなかっただけで俺の勝利だと言える。    ストレス発散の人形になるつもりはあっても、肉欲の対象になるのは死んでも嫌だ。  子供を作らないため、上司と部下の絆を深めるため、様々な理由で貴族の同性愛は容認されている。    俺は平民なので貴族社会の爛れた世界に巻き込まれたくない。      そう思っているのだが、ひさしぶりに顔を合わせた聖女さまは笑顔で俺の考えを否定した。   「あなた、きっと男を喜ばせる才能があるわ」    申し訳ございません。俺に才能はないんです。  ないってことにしてください。  

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