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 社内に戻ってからも岸本は心ここにあらずといったふうにぼんやりとしている。無理もない。突然あなたが運命の番ですと言われたら驚くほかないだろう。しかし小鳥遊は違った。運命の番なんてものを心の底から軽蔑している。前に岸本は運命の番なんて信じていないと言っていたが、まだじゅうぶんに若い。価値観などすぐに変わるだろう。現に岸本は頭の中がそれ一色のはずだ。  仕事を終えて帰路につく途中、小鳥遊は頭の中が凍えるように冷たくなっていた。岸本の顔が頭に浮かぶ。犬のように笑う顔も、オメガらしい悲痛そうな顔も、ときどき見せる悪戯っ子のような笑みも全部が頭の中でたゆたう。  いつからだろう。俺が岸本に目を奪われたのは。  別れ際になって初めて動揺している。ビジネスの番だというのに、いつしか岸本のことばかり考えるようになっていた。初めはいい部下を持ったと思った。一癖あるが俺に逆らうことはしない従順な|僕《しもべ》のようだとも思った。逆らわないということは手なづけやすいということだった。  今思えばなんて歪な関係だったのだろうと振り返ることができる。上司と部下が同じ屋根の下で生活を共にする。それが現実になった。それが当たり前の日常になった。  今だって家の鍵を開ければすぐに声がかかってくるはずだ。キッチンからは美味そうな料理の匂いが漂ってきて、すぐに飯を食うことができる。小鳥遊ひとりでは考えられなかった生活だ。それがいつしか終わりを迎える。わかっていたことなのに、理解することができないでいた。

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