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前編

 息詰まるような熱風が、凌雲閣――――通称、浅草十二階から厳かにやってくる。草いきれと土の香りを運び、必要以上に「夏だ、夏だ」と囃し立てる。  暑さは得意であったはずの僕ですら少し参ってしまうような猛暑の中、小さな公園の青々としたスモモの木の下で行儀よく座り、葉と葉と枝とやっぱり葉の間を掻き分ける、夏特有のまっ黄色い日差しに眼を灼いた。  熟れたスモモの果実が八月下旬の熱風を受けて、重々しい実を生温く光らせているのを葉陰から見つめ、咽喉を鳴らす。齧れば熱くて甘い汁が迸りそうで、それを食む蝉使いの姿を想像しながら、今か今かと待ち惚ける。  蝉使いは、異邦人だ。くすんだ金色の髪がほっかむりからはみ出し、太陽の下で嫌味なほどに輝き倒す。  大きな緑色の瞳を髪と同じく向日葵色のまつ毛で彩り、どこの国からやってきたのか、どうして渡来してきたのかも知らないが、いつもボロボロのリヤカーの荷台いっぱいに宝石のようなガラス玉や、腕輪や指輪など、舶来の品々を乗せて売り歩いている。  そして時折、この公園で手持無沙汰に紙芝居を披露してみたり、異国の歌を声高らかに披露してみたりする。  最初こそ、見るも怪しい異邦人はそれはそれは疎まれ、恐れられたようだ。時代も時代だ。しかし、人々に迫害されようと、蝉使いはこれっぽっちも意に介さず、大きな声で歌い続けた。それこそ、石を投げる手が拍手に変わる時まで、歌い続けた。  待ち人来ず。  真夏の太陽光線の角度が変わり、スモモの木漏れ日も形を変える。果実が更に赤みを増した気がする。  待ち人来ず。  ひどい夕立。大きな雨粒に、砂が跳ねるのを木陰に隠れて見つめる。赤い果実が濡れそぼり煌めく。  待ち人来ず。  夕立とは打って変わってからりと晴れた空に赤いものが混じり始めたころ、聞きなれたリヤカーの、いびつな悲鳴にも似た車輪の音が聞こえてきた。 「おっそい」 「やあ、ごめんごめん」  木陰から這い出て駆け寄ると、蝉使いはさして悪いとも思ってなさそうな表情で、頭に巻いていた手拭いを解いてこめかみの汗をぬぐった。 「ちょっとね、来る途中にビー玉をぶちまけちゃって。川の中にまで落ちちゃったものだから、拾うのに時間がかかってね」  見れば、蝉使いの着物の裾がじっとりと濡れている。 「どうせ売れないんだし、放っておけばいいじゃない」 「だめだよ、売り物なんだから。売れるか売れないかじゃなくて、売り物なの」  見た目にそぐわぬ流暢な日本語をしゃべる。  分かるような分からないような持論を展開し、蝉使いはよっこいしょと僕を抱き上げて木陰に下ろした。 「暑い暑い。夕方だっていうのにこうも暑いと、参っちゃうね。ほら、この暑さは堪えるでしょ。さ、木陰にお入り」  その参っちゃうような暑さの中、半日待ちぼうけを食らっていたんだぞ、と睨み上げると、蝉使いは楽しそうにサイダーの瓶を差し出した。罪滅ぼしのつもりか。  僕はそれに口を付け、ふうと一息を吐いた。弾ける炭酸が顔をぱちぱちと打つ感覚が楽しく、好きだった。僕がうっとりとサイダーの泡を見つめるさまを見守り、うれしそうににっこりと笑う蝉使いのまなざしもまた、僕の脆弱な命を震わせる。  僕は、生まれた時から命が薄かった。薄い、という表現は少し違うのかもしれないが、とにかく命そのものが弱かったのだと思う。余命というものがあることも、知っている。しかし、僕はこの炎天下の中、彼を待たずにはいられない。それは宿命で、運命で、蝉使いを待つという、たったひとつの選択肢しか持たないからだ。  彼が“蝉使い”と称される所以は二つある。  一つに、彼が蝉と言葉を交わす事が出来るという噂のせい。  二つに、彼が自在に蝉を操る事が出来るという噂のせい。浅草界隈では有名な与太話なのだが、それがただの噂ではなく、真実なのだと僕は知っている。  彼は確かに蝉を操る事ができる、と。  いつかの夕暮れ、熟れ腐ったような柘榴色の空の下で彼が指を鳴らすと、それまでジージーとうるさかった蝉たちの鳴き声が一斉にピタリと止んだのである。そして暫くの後、彼が再度あの生白く細長い指を大きく鳴らすと、まるで何事も無かったかのように蝉たちは大急ぎで生命の主張をし始めたのだ。  僕は彼から貰った水あめを一生懸命に舐めながら、一時の夢を見ていたかのような気分を痺れるほど鮮烈に味わったのだった。  そのように目の前で大層な魔法を見せつけられたせいで、僕は彼に心酔し、敬慕し、特別で唯一無二の力と命を持つ蝉使いに嫉妬し続けていた。    *   *   * 「さあ、商売商売! どうだい、坊っちゃん。今日もいいものが揃っているよ」  蝉使いはいつも通り、大きな口を開けて大きな声で客寄せをする。  僕はといえば、相変わらず陰気に木陰でサイダーの泡を舐めていた。火傷するように熱い風に撫でられ、蝉たちは大声で泣きわめく。彼には、そんな蝉たちの「熱い、熱い」という悲鳴さえも聞こえているのだろうか。そうなのだとしたら、もしかしたらそれは、地獄なのではないのだろうかと思う。 「坊っちゃん、ほら、このビー玉を見てごらん。きれいでしょ。すごいね。ほら、これは海の色だ。ほんとうに、きれいだ……」  蝉使いは白く長い指でビー玉をつまみ上げ、太陽に透かす。上向いた顎に汗が滴り、汗の粒が青空を反転させて閉じ込める。  イミテーションの海より、彼から湧き出る命の水分に閉じ込められた空のほうがよっぽど価値があるように思えた。 「蝉使い、海が好きなの?」  問えば、彼が不思議そうにこちらを見やる。動いた拍子に空は墜ちてしまった。 「そうだねえ、好きだよ。広くって、青くって、遠い遠い向こう岸に渡れば、言葉も風景も匂いもなにもかも違う、別世界にたどり着くんだ。君にも見せてあげたいよ」 「僕は……別に、興味ないから」 「君の世界がそこだけで終わるなんて、僕がいやなんだよ。葉っぱの空じゃなくて、青い潮風の向こうの青空を見せたいんだ。海も、それを往く船の白い帆も、雲も、夏は無限だよ。……君の夏もね」  紙芝居を感情たっぷり込めて唄うときのように詩的に演説し、掌の上で転がしていた青いビー玉を僕の前に転がした。 「もらってほしいな、君に」 「……」  触れると、それは夏の暑さのせいなのか、蝉使いの体温のせいなのか、ほの温かかった。 「いらないよ。僕がもらったって、しょうがない」 「眺めてくれるだけでいいよ」 「それなら……いいけど」  ぐ、と息を詰める。上目遣いで蝉使いを窺うと、胡散臭そうなたれ目をさらに下げ、柔和に微笑む彼の表情が窺えた。 「どうせなら、緑色がいいな。この、太陽を透かしているような、緑……」  翳を作ってくれている葉を見上げると、蝉使いもそれに倣った。葉がさわりと揺れ、葉姿のきわが日差しを受けて黄金に揺らぐ。 「承ったよ。緑色、だね」  すべてを見透かしているかのように、蝉使いはきらきらとした翠の瞳を細めた。  僕が本当に欲しかった色。それは太陽を受け青々と輝く葉の色ではない。  彼の、蝉使いの、命を燃やし続ける翠の瞳。その色だ。 「坊ちゃん。病気が治る魔法をかけてあげる。海が見られる魔法。十二階にだって登れちゃうし、坊っちゃんの大好きなサイダーもたらふく飲めちゃう魔法」  にっ、と蝉使いが笑う。 「どういうこと?」 「えっへへ、じきに分かるよ。だからね、坊ちゃん。お願い、売れ残ってるベーゴマ、買ってちょうだい!」  冗談めかしにベーゴマを掲げ、また大きく笑った。  眩しいくらいに、蝉使いは夏を生きている。    *   *   * 「せみつかい、どうしたの」  暑さで呂律が回らない。  リヤカーを引きながら面目なさそうにやって来た蝉使いに、やっとの思いで声をかける。絞り出した声と引き換えに、砂地で蒸された空気が襲い掛かる。 「ごめんねえ、坊っちゃん。みどり色、ないや。この間ぶち撒けた時に回収し忘れたのかなあ、袋ごと無くなってるみたい。……赤と、黄色と、青ならあるんだけど」 「じゃあ、いらない。……また仕入れたら、おしえて」  申し訳なさそうにぎこちなく笑う蝉使いから視線を逸らし、僕は目を瞑って木の幹に頬、というより頭の側面を押し付けた。案外ひやりとした幹が僕の高ぶった神経を鎮める。誰からも食べられず、熟むだけ熟んで墜ちたスモモの果実が砂に汚れ、腐った汁に蟻が集っていた。  蜃気楼のように浮ついた日常の連続で、記憶や感覚はあやふやを極めているが、それでも一つだけ理解している事がある。  きっと、僕が彼からビー玉を受け取る日は来ないだろうという事。

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