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後編

   *   *   *  相変わらず今日も十二階の方角から熱風が叩きつけるように吹き荒れ、木陰で休む僕を死の感慨へ耽させる。もはやあの塔が熱風を生み出す巨大装置としか思えない。  僕は魔窟と化した十二階へと英雄よろしく駆け出す蝉使いの姿を思い浮かべ、少しだけ可笑しくなってしまった。  さしずめ彼が従えるは、蝉か。リヤカーか。それとも、僕か。     地面に転がったスモモもあの日のまま、蟻にすら興味を示されず、ただ僕の隣で蝉時雨に晒されている。カラリと晴れ切った日向ならともかくとして、湿った木陰の暗がりに放置されたままなので、じゅくじゅくと粘ったらしく膿むばかりで、少々気の毒にすら感じる。  僕の命も、残りわずかか。胸に広がる死の翳を感じ取り、うつろな目を閉じた。  きっと蝉使いが言うように、ある種の“病気”なのだろう。周囲に聞けるはずもなく、ただ諾々と受け入れている。僕は僕の命について全く何の知識も無い。どうして余命が短いのか、それなのにどうして生を授けられ、今もこうして微弱な鼓動と共に燃やし続けているのか、僕はなにも知らない。  きっと、蝉使いだけが知っている事なのだろう。彼は、僕のことを、僕よりもずっと識っている。  蝉使いに、逢いたい。彼の向日葵の睫毛が蝶の翅のように扇ぐその一瞬を、永遠に引き延ばして見つめ続けたい。まばたきの淡々しい微風を感じ取れるほどの距離で、あの翠の瞳を観察したい。下瞼に落ちる睫毛の翳で涼みたい――――。  蝉使いが残していったサイダーをちびちび飲みながら、とりとめのない妄想に浸っていると、センチメンタルを裂くようにしてリヤカーの車輪の音が近づいてきた。 「まだ、仕入れはできていないよ。ベーゴマもほら、こんなに余っちゃってる。風鈴も売れないね。暑くって暑くって、みんなものを買う元気もないんだ」  風鈴を指でつつき、かららんと鳴る音が寂しく溶けた。 「だけどね、坊っちゃんはだいじょうぶさ。すぐ元気になるよ」 「どうしてわかるの」  彼は一瞬動作を停め、とろんとした瞳をこちらに向けて吐息だけで笑った。  その綺麗な瞳が僕を真摯に射抜いているという耐えがたい事実が、僕をはずかしめる。 「大丈夫、君は大丈夫さ。だって俺が奇跡を起こすんだもん」  そう言って蝉使いは紙のように白い二の腕を灼けつく光の中に曝し、骨そのもののような指を大きく鳴らす。     蝉時雨が、止んだ。     その時どうして涙が出たのか、正直なところ未だに分からない。  僕は込み上げる嗚咽をなんとか押し殺し、だいすきで、同じくらいだいきらいな彼の前で汚らしい涙をぼろぼろと流した。静寂だった心がふいに荒れ狂い、魔法のように涙の粒があとからあとから湧いて出てくる。ちびちび飲み続けていたサイダーが染み出しているのではないだろうかと不安になるほど、落涙は止まらない。  はじめての涙に戸惑う僕の背を撫で、蝉使いは満足そうに歯を見せて笑う。  背に感じる指の熱さに、どうしてか、あの折れそうに華奢な腕で苦しいほどに抱き締めて欲しいと思った。それは一瞬の気の迷いとしか思えない事柄で、そんな事をされたら、僕は冗談では無く、本当に死んでしまうだろう。 「感動しちゃった?」  真夏とは思えぬ静寂の中、蝉使いはだいじょうぶ、だいじょうぶと独特な活舌でうわ言のように繰り返す。  大丈夫。無責任にも受け止められるそのことばに、僕は八つ当たりのように手を振り回した。おっと、と半歩下がった蝉使いの、陽に灼けていないかかとが、草履越しにスモモを踏み潰す。 「せみつかいは、僕がして欲しいこと、なに一つだってしてくれない。ビー玉も、翠色も……!」  支離滅裂のようなことばを拾い、蝉使いはまた“だいじょうぶ”、と繰り返す。 「だいじょうぶだよ。奇跡は、いつも自分の知らないところで起こっているものさ」  そう言っていつになく真剣な表情で僕を見つめる蝉使いの表情が、いつまでも僕の心の中に暗い翳を落とし続けている。          *   *   *  待ち人来ず。  待ち人来ず。  待ち人来ず。  待ち人、来ず。  ――――……待ち人、来ず。    *   *   *  蝉使いが僕の前から姿を消したのは、その翌日の事だった。  相変わらず僕はサイダーを舐めながら彼を待ち続けたのだけど、それでも彼が公園に来る事はなかった。  ビー玉でもメンコでも買ってやろうと、一枚の硬貨を尻の下に隠して待っていたのに、リヤカーの音はいつまで経っても聴こえてこなかった。     蝉たちの声が聴こえなくなり、十二階は熱を送風しなくなった。地面に転がる腐ったスモモの数が増えていったころ、風の噂で、彼が“蝉使い”と呼ばれるようになった第三の所以を知る事となった。  どうやら彼は蝉と意思の疎通などが出来るだけでなく、短命の彼らの為に命を分けてやる事が出来たようなのである。  そこまでくるといよいよ彼が人間かどうかもあやしく思えてくるのだが、今更そんな事を考えたって詮無きこと。あの向日葵色は、輝かしい命を存分に蓄えたゆえの煌めきだったのかもしれない。  とにかく彼はそうして少しずつ彼らに命を分けてやり、どういう風の吹きまわしか、こんな僕にまで命を分け与えてしまったようなのである。  一体どうして何の義理もない蝉や僕に命を分け与えたのか……。彼は、ゆるやかな自殺を図っていたのかもしれない。逃げ水のようにゆらめき続け、眼前から退いてくれない蝉たちの断末魔に、耐えられなくなったのではないだろうかと推測している。  命を分け与えるなどという神のような所業が荒唐無稽な話でも、彼の命の配布だけは事実であっただろう。  そうでなければ、僕が現在この公園で命を保っている理由が付かないのだ。  しかし、僕に命を与えようと思った時点で元々彼に残されていた命が尽きかかっていたようで、結局僕の命は、今にもこのスモモのように墜ちてしまいそうだった。     僕は今日も懲りずに木陰で腐ったスモモを数えながら苦いサイダーを舐め、やはりリヤカーの錆び付いた車輪の回る気配を待ち続けている。  思えば、彼とは手を触れ合わせた事もなかったし、まじまじと顔を見る事もなかった。  どうして彼は最期のしぼり滓のような貴重な命を、僕なんかにくれたのだろうか?  いや、もう彼の事を考える事はやめにしよう。  もう彼に会う事もないのだ。いつかあの世で会えば聞いてやればいい。  あとは自分自身の残り少ない命を、どう燃やすかだ。  いつか、僕がもう少しだけ彼に近づいて、あまつさえ恋愛感情を抱くようになってしまったら、果たしてあの小憎たらしい蝉使いはどう対処するだろう。  もしも第二の生があるのなら、彼とはもう少しうまくやれるだろうか。もっとたくさん話をして、命を配布するのはやめろと言えるだろうか。  どうせこの短い、線香花火のような生で奇跡を体現する彼と出逢えたのなら、もう少しやわらかい時間を過ごせばよかった。とは言っても、それはやはり無理な相談だ。  彼と僕にはやはり触れあえない、れっきとした事実がある。  それは、僕が人間ではなく蝉だということに他ならない。     

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