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10 旅立ち
ヴァイルに仕えている影のうち、化け物になる前のシュエシにもぼんやりと姿がわかっていた影は、元は東の国の人だった。影の母親はヴァイルの父の愛人――愛人というのが食糧として飼われている存在だと知ったときは戸惑ったが――のひとりで、幼くして病死してもなお母親のそばに居続けたのだという。肉体を持たないその子に気づいたヴァイルが影として蘇らせ、使用人のひとりとして手元に置いているということだった。
『じゃあ、あなたはまだ子ども……、じゃ、ないですよね』
『はい。人の歳で言えば十八くらいでしょうか』
『僕より年上なんですね』
『すでに魂でしかない存在なので、実際に歳をとるわけじゃありませんが』
『あ、そうか。……あの、すみません』
『ふふ、奥様は優しい人ですね』
「……!」
影の彼、チェンチの言葉に顔が赤くなる。
化け物になったシュエシは、影の中でもチェンチの姿形だけははっきりと認識できるようになっていた。それだけでなく、こうして言葉を交わすこともできる。化け物になって日が浅いのに影と会話ができるのは珍しいことらしく、ヴァイルからは「同じ東の国の者だからか?」と笑いながら言われたほどだ。
どうしてチェンチと話せるのかシュエシにもわからなかったが、久しぶりに東の国の人と話ができるのは嬉しかった。
それからというもの、シュエシは時間があればチェンチと話をするようになっていた。懐かしい東の国の言葉を口にすることができるのは嬉しいし、何より友人ができたような気持ちがして楽しくなる。国の話をすると両親が生きていた頃を思い出しては寂しくなることもあったが、チェンチと話せば楽しさのほうが増すばかりだった。
『奥様は恥ずかしがり屋だと聞いていますが、本当のようですね』
『……だって、奥様っていうのは、ちょっと、』
『間違いではないでしょう?』
『……そう、だけど……』
『ふふ、旦那様が仰ったとおり、可愛らしい方ですね』
「……!!」
ヴァイルは影たちに、自分のことを一体どんなふうに説明しているのだろうか。知りたいような気もしたが、知れば羞恥で震えてしまうに違いないと思い、シュエシは敢えて聞くことはしなかった。
『……奥様は、旦那様のことがお好きですか?』
『はい』
『……そうですよね、でなければ旦那様と同じものにはならない。旦那様も、眷属にはされなかったでしょう』
いつも優しいチェンチの表情が少し変わった。それを不思議に思いながらも、何か言いたげな顔をじっと見つめる。
『旦那様は、胸の奥に憎悪の炎を抱えたままでいらっしゃいます。どうかそれを、癒してさしあげてください。奥様ならば、きっとそれが叶うでしょう』
(憎悪の炎……?)
それがどういう意味がわからず訊ねようとしたが、シュエシが口を開く前にチェンチの姿はすぅっと消えてしまった。最初から何も存在しなかったかのような空間を見ながら、シュエシはチェンチが何を言いたかったのかいつまでも気になった。
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シュエシは朝から庭の温室で花を摘んでいた。今日は母が死んだ日で、一ヶ月後の同じ日に父も死んでしまった。父にとってもいわゆる月命日になるのだから、花を飾って両親に手を合わせたいと考えた。
屋敷の庭の一角には立派な温室があり、この土地では咲かないはずの薔薇が植えられている。それを知ったシュエシは母が薔薇に憧れていたことを思い出し、ヴァイルに少しだけ切り花にしてもいいかと尋ねた。
「人とはおもしろいことをするな」と言ったヴァイルは、ほしいだけ切ればいいと許してくれた。せっかくなら香りや瑞々しさがもっとも際立つ早朝がいいのではと教えてくれたのはチェンチで、そうしようと思ったシュエシは朝陽が昇り始める時間に温室へとやって来た。
「やっぱり真っ赤なほうがいいかな」
母は旅の途中で見た真紅の大輪の薔薇をとても気に入って、この土地に来てからも乾燥させた花びらを大事に持っていた。シュエシはそんな母の姿を思い出しながら、真っ赤な薔薇を二本だけ切った。
薔薇に鼻を近づけクンと嗅ぐと、毎晩ヴァイルが髪に施してくれる香油の香りを思い出す。もしかしてこの温室の薔薇で作っている香油だろうかと思いながら、温室の外に出た。すっかり陽が昇り、草木が朝露をまとっているせいかキラキラと光っていた。
眩しさに目を細めつつ屋敷に戻ろうと一歩踏み出したとき、ゾワリと何かが背筋を這い上がるような気配を感じた。驚いて振り向くと、そこには見覚えのある土地の男が二人立っていた。
「やっぱり薔薇があるじゃねぇか。噂どおりだったな」
「これを売りゃあ、もっと金が手に入る。……って、おまえ、シュウじゃねぇか」
声をかけられて、ビクッとした。
「シュウが生きてるんじゃねぇかって噂も本当だったか」
「おい、こいつも売れば、結構な値になるんじゃねぇか?」
「そういや東の国の者は、もっと西のほうで売れば高値になるって言ってたな」
「薔薇よりいい値になるかもしれねぇぞ」
二人の視線がじっとりとシュエシの体にまとわりつく。同時に、男たちの周りに真っ黒な霧がブワッと吹き出すのがわかった。
「おまえ、まだ女みたいな格好してんのか? ……なるほど。領主様は、そっちの趣味もあったってわけか」
「ってことは、そういうのが好きな金持ちには、もっと高値で売れるってことだよな」
「そりゃあいい。どうせ領主様は自分の花嫁に執着はねぇ。これまで何人も売り飛ばされてるってのは行商人に聞いてわかってる。こいつがいなくなっても、また新しい娘を寄越せって言うだけだ」
「じゃあ、このまま連れて行くか?」
「あぁ、昼には西の国に行く商人が通る。そのまま売っぱらえば誰にもわからねぇだろ」
男たちが自分を売り払う算段をしているということはわかる。だから逃げなければと思っているのに、男たちから滲み出る黒い霧がシュエシの手足に絡みつき、首に絡みつき、それが気持ち悪くて逃げることができなかった。
霧のように見えるそれはドロドロと滑っていて、まるで粘度の高い真っ黒な泥のようだった。それがねっとりと絡みつき、ぬめぬめと動いているように感じる。それくらいそれは不快な感触で、絡みついた場所が熱を感じるくらい、はっきりと触れられていることがわかった。
(気持ちが悪い……。怖い、触らないで……来ないで……)
頭の中では拒絶の言葉が出ているのに、シュエシの体はどこも動かず言葉さえ出ない。気がつけばシュエシの両足はガタガタ震え、立っているのもやっとの状態になっていた。
「しっかし、いいもん食わせてもらってんだな。すっかり肌ツヤもよくなりやがって、別人のようだぜ。……って、おい、こいつの髪、なんか色が違ってねぇか?」
ずいっと近づいてきた男が、伸びた髪の毛を一房つかんだ。そのまま鼻を近づけ、クンクンと嗅ぎ始めたことに驚いたシュエシは、恐怖のあまり思わずギュッと目を閉じてしまった。
「へぇ、なんか赤っぽいっていうか……、えらくいい匂いがするな」
「じゃあ、さらに値を釣り上げられるってことか!」
男の手が触れたところから、ゾワリ、ゾワリと得体の知れない気配が体に移ってくる。気持ちの悪いそれが髪の毛を伝って頭皮にたどり着き、そこからジワジワと体内に入り込んでくるのがはっきりとわかった。
あまりの気持ち悪さに体中が震え出す。手はブルブルと大きく震え、せっかく摘んだ二本の薔薇を落としてしまった。
(怖い、怖い、怖い……!)
震えながら必死に目を閉じた。唇をグッと噛みしめ、吐き気にも耐えた。それでも恐ろしい気配は消えることがなく、ますます体の中に入り込もうとする。あまりの恐怖に意識が遠のきかけたときだった。
ふわりと薔薇の香りが鼻をかすめたような気がした。先ほどまでいた温室の中よりも濃密なのに、サァッと風が吹くようにシュエシの体の周りを流れていく。
芳しい香りがサァァァと動き、一カ所に集まっているような気配がした。そうして目眩がするほど香りが濃密になった直後、後ろのほうから低い声が響いた。
「人とは本当に愚かな生き物だ」
シュエシの背後に現れたのはヴァイルだった。
閉じていた目をそっと開き、ゆっくりと振り返る。シュエシの目に映るのはいつもの美しい姿だが、綺麗な顔はわずかに険しく見えた。
「屋敷の周りをうろつくだけでなく、薔薇をも盗み出そうとは呆れて物が言えんな。しかも、我が花嫁をどこぞに売るだと? 愚かすぎて、うっかり殺してしまいそうになったぞ」
ヴァイルの言葉を聞いた瞬間、シュエシの体をゾッとするほど冷たい何かが駆け抜けた。直後、強烈な何かがブワッと噴き出し、腹の奥から脳天へと突き抜ける。それは制御できないほどの勢いでグルグルと頭の中を駆け巡り、目の奥がカッと熱くなった。
まるで高熱にうなされたときのようだとシュエシは思った。しかし高熱と違ったのは、胸の奥に“殺してしまえ”という苛烈な殺意がわき上がったことだった。
これまでシュエシは、そんな恐ろしいことを考えたことはなかった。自分を売ろうとした目の前の男たちに対しても、そんな感情は抱いていない。それなのにフツフツとわき上がる恐ろしい殺意は、まるで他人の感情を無理やり体の中に押し込められているような感じだった。
(もしかして……)
見上げたヴァイルの瞳は朱色に変わっていた。以前見たときよりもさらに濃く深い色合いの瞳は、シュエシが摘んだ真紅の薔薇の色そのものだった。
(チェンチが言ってたのは、このことだったんだ)
家族がされたことを不自然なほど淡々と話していたヴァイルの胸の内には、人に対してこんなにも激しい憎悪が潜んでいたのだ。
シュエシは、ふと母を思い出した。東の国から遠く離れても、母が恐ろしい眼差しを祖国の人に向けるのは変わらなかった。それは静かなのに燃えているようにも見えて、澄んだ黒色をしているはずの目はほの暗い赤色を滲ませているようにも見えた。
そんな母の目とヴァイルの瞳が重なった。
「ヴァイル様、駄目です……!」
思わず叫んでいた。とにかく止めなければとヴァイルの腕を掴む。もしここで男たちを殺 めてしまえば、ヴァイルが憎む“愚かな人”と同じになってしまうのではないかと恐怖した。
(そんなことになったら、ヴァイル様は自分のことまで愚かだと思ってしまう!)
人と同じことをし、同じ存在になってしまえば、ヴァイルにとって耐え難い屈辱になるに違いない。どうしてそんなことを思ったのかわからないまま、シュエシは必死にヴァイルの腕を掴んだ。
ここで感情のままに男たちを殺 めることだけは、絶対に止めなければ。男たちから視線を外さないヴァイルに、すがりつくように必死に声をかけ続けた。
「ヴァイル様、駄目です! 食事以外で人を殺 めないでください!」
ヴァイルの朱色の瞳は、なおも男たちを見ている。
「お願いです、ヴァイル様……! こんなことで人を殺 めないで……、自分を傷つけないで……! あなたが憎む人と、同じものにならないで……!」
シュエシは無我夢中で叫んだ。いつものヴァイルに戻ってほしいと願い、全身全霊で言葉を紡いだ。
そうしてどのくらい時間が経っただろうか。すがるように掴んでいたヴァイルの手が、わずかに動いたことにシュエシは気づいた。
「……我が花嫁は、思ったより力が強いな」
「ヴァイル様……」
「思わず我を見失いかけた。わたしも、まだ未熟だということだな」
「ヴァイル様、」
「心配しなくていい。こやつらは生きたまま帰してやる」
それまで微動だにしなかった二人の男は、ヴァイルが指をクイッと門の外に向けると操られるように歩き出した。その様子は以前見たパン屋の主人そっくりで、二人の目が虚ろな色をしているのも同じだった。
「屋敷とおまえに関する記憶はすべて消した。これで二度と愚かなことは考えるまい。……いや、もうここに留まるのも限界ということか」
「何か、するんですか……?」
凄まじいまでの殺意は薄まったものの、初めて知った恐ろしい感情はシュエシの中で燻り続けている。そのせいで、ヴァイルの腕を掴む体は小さく震えたままだった。
「大丈夫だ、もう震えなくていい。……眷属であり花嫁でもあるおまえは、わたしの影響を受けやすい。こんな醜く愚かな感情など、分け合いたいものではないのだがな」
ヴァイルの手が、そっとシュエシの手に重ねられる。
「過去のことならばどうにでもできると思っていたが、おまえが関わると感情を抑えることができんらしい」
「どういう、ことですか……?」
「おまえを売ると言っただけでなく、あの愚か者はおまえに触れ、あまつさえ顔を寄せるという暴挙に及んだ。我が花嫁に触れるだけでも度し難いというのに、……汚らわしい」
男に触られた髪の毛にヴァイルが触れ、そっと口づけた。それだけで、纏わりついていた真っ黒な何かがすべて洗い流されたようにシュエシは感じた。
「おまえはまだ生まれたばかりの赤子のようなものだ。あまり人の邪念に触れるのはよくない。……そうだな、いっそ西の国へ行くか」
「西の国、ですか?」
「あぁ。もともと我らの祖国は西の国だ。これ以上、領主としてこの地に留まっても何の利益もない。それならば、祖国へ戻るのが一番だろう」
「あの……、そこは、ヴァイル様の故郷なんですか?」
「わたしの母の故郷であり、幼い頃に過ごした場所だ。ここよりもずっと美しい土地で、多くの同胞も住んでいる。人と関わることなく過ごせるといった意味では、おまえにはよい場所になるだろう」
ヴァイルの言葉に、シュエシは見知らぬ西の国へ思いを馳せた。旅の途中で見聞きはしたが、実際にどういうところかはわからない。それでも期待に胸が膨らむのは、両親との楽しかった旅のことを思い出すからだろうか。
(ううん、これは……ヴァイル様と一緒に、ヴァイル様の故郷に行くから、かな……)
そう思うと、自然と口元が緩んでくる。
「どうした、わたしの故郷に興味が出たか?」
「はい。好きな人の故郷は、見てみたいですから」
思ったままを返事にすると、ヴァイルがわずかに目を見開いた。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと考えるシュエシに、不意を突くように美しい顔が近づき頬に口づけた。
「ヴァイル様……?」
「本当に我が花嫁は素晴らしいな。……ふ、いまだに口づけで頬を赤らめるのも悪くない」
「……っ! それは、急にこういったことをするから……」
口づけられた頬に触れると、いつもより熱く感じる。その熱さえも恥ずかしく、俯くシュエシの頭上でクスクスとヴァイルの笑う声がした。
「祖国に帰るとなれば、もはやこの屋敷に用はない。すべて消し去ってしまうか」
「え……?」
どういうことかと顔を上げたシュエシに、いつもと同じ美しい顔をしたヴァイルが微笑みかける。
「どうせすぐに新しい領主が現れて、自分好みの屋敷を建てるだろう。ならば、化け物が住んでいた屋敷など必要ないだろうからな」
それからは、あっという間の出来事だった。
その日のうちに必要なものは大きな鞄に詰め込まれ、どこからともなく現れた生きた使用人たちが馬車へと荷物を詰め込んでいく。彼らは一足先に荷物を積んだ馬車を祖国に運ぶために呼ばれたらしく、人の住む土地を長く移動するのに影たちでは何かと面倒だからということだった。
シュエシにはほとんど荷物らしいものはなかったので、ヴァイルが買い取った母の肩身の櫛と慣れ親しんだ香油、それに毎晩使っていた手鏡を手持ち鞄にしまった。
陽が落ちる頃にはすべての用意が整い、最後に屋敷と温室に火が放たれた。温室の薔薇たちには可哀想なことだが、薔薇を残すと土地の者の欲を必要以上に刺激すると言われ納得した。それにヴァイルの祖国には溢れんばかりの薔薇があり、シュエシの髪に施されていた香油は祖国から取り寄せていたものだということを教えてもらった。
「そろそろ行くぞ」
「……はい」
「なんだ、名残惜しいか?」
「ヴァイル様と出会って、花嫁にしてもらった屋敷でしたから」
「…………おまえというやつは……」
どうしてか、ヴァイルが大きなため息をつく。
(もしかして、こんな感傷的な気持ちは化け物としておかしいんだろうか)
そう思ったシュエシがヴァイルを見上げると、いつものようにひょいと抱え上げられてしまった。そのまま馬車に乗せられ、どうしてかヴァイルの膝の上に座らされる。
さすがに膝の上というのはおかしいのではと困惑するシュエシの頬に、チュッと優しい口づけが落とされた。
「おまえはわたしを煽るのがつくづくうまい。祖国までは長旅になるからと頑丈な馬車を用意したが、ちょうどよかったな」
「ヴァイル様?」
「この広さなら、多少激しくしても影響はない」
「激しい……?」
ヴァイルの話している内容がさっぱりわからない。
「旅の間だも、花嫁を十分可愛がれるということだ」
(花嫁を、かわいがる……?)
やはり囁かれた内容がわからず、首をかしげる。そうして晒された首すじをヴァイルの指がスーッとひと撫でしたことで、言わんとすることがシュエシにもようやく理解できた。
「ヴァイル様……!」
小さく声を上げたシュエシの顔は、薔薇よりも真っ赤になっていた。
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