10 / 26

10 夢

(……ここはどこだろう)  ぐるりと周囲を見渡す。どこを見ても木々や草ばかりで建物や人影などは見当たらない。  シュエシはとても深い森の中に立っていた。どうしてこんなところにいるのか、いつからここにいるのか思い出せない。ここがどこで自分がどこに行こうとしていたのかもわからなかった。  不意に遠くで何かの鳴き声のようなものがした。それは森のずっと奥からしているもので、よくよく耳を澄ませると人の声のようにも聞こえる。 (行かないと)  声のほうへ行かなくてはと思った。どうしてそう思ったのかわからないまま森の奥へと歩き出す。枝をかき分け、草や蔓を踏みしめ、必死に声のほうへと歩いた。  鬱蒼とした木々の間をなんとか進んでいくと、突然開けた場所に出た。元は原っぱのようなそこに草花はなく、むき出しの土はところどころ不自然に盛り上がったり抉れたりしている。 (あれは……屋敷?)  奥のほうに屋敷のような建物が見える。近づこうとしたところで赤いものが舞い上がっていることに気がついた。 (燃えてる……)  近づくと大きな屋敷が燃えていた。バチバチと鳴る音の中に柱か何かが崩れ落ちる音が聞こえる。焦げ臭い匂いと、その中になんとも言えない不快な匂いが混じっていた。  どこからか声が聞こえた気がした。もしかして逃げ遅れた人がいるのだろうか。シュエシは急いで建物のほうへと走った。屋敷のそばに人が倒れている。慌てて近づいたものの、すぐにギョッとして立ち止まった。  倒れているのは首のない女性だった。女性だとわかったのは立派なドレスを着ていたからで、しかし首から上がない。途切れた首のあたりからはどす黒い大量の血が流れ出している。  視線を逸らしたシュエシは、ドレスの近くに小柄な人影が倒れていることに気がついた。おそるおそる近づくと、服装から小さな少年だということがわかった。すぐ近くには少女らしき人物も倒れているが、どちらも頭がない。 (どうしてこんなむごいことに……)  むせ返るような血の臭いに目眩がした。あまりの惨状に目を背けると、少し離れたところにもう一人倒れているのが見えた。ためらいながらもゆっくりと近づく。仰向けに倒れている人物は貴族だとわかるような立派な服を着ていた。しかしその胸には腕ほどの太さの木が突き刺さっている。 「うぐ……っ」  シュエシは慌てて口を覆った。戻すことはなかったものの、胸が悪くなり腹の奥が鉛を抱えたように重くなる。 (この屋敷でいったい何が……)  倒れている人物は男性だった。ほかの三人と違って頭はついている。これほどひどい死に方をしているのに、なぜか男性の顔に苦悶のような表情はない。まるで眠っているかのような顔はあまりに美しく、死に顔だというのに目が離せなくなった。  血に染まっている髪の毛は鈍い銀色だが、元々は月の光のように美しかったに違いない。薄く開いた瞼の奥にガラス玉のような瞳が見える。燃えさかる炎を反射しているからか、瞳は綺麗な金色に光っていた。 (銀色の髪に黄金色の瞳……まるで……)  シュエシの脳裏に何かがよぎる。銀色の何かが浮かびかかったところで、突然目の前が真っ暗になった。 「……っ!」  体がガクンと落ちるような感覚にハッと目が覚めた。鼓動がドクドクと激しく乱れ、額からツーッと汗が流れ落ちる。 (いまのは……)  すぐに夢だとわかった。目に映っているのは見慣れた天井で、日の光が差し込んでいるからかいつにも増して眩しい。横になっている感触からここがベッドだということがわかる。頭のない死体や美しい顔をした死体は全部夢だった。わかっているのに、それでもドクドクと脈打つ鼓動は収まらない。 (あれは夢だ……夢だ……)  シュエシは目を閉じて何度もそう自分に言い聞かせた。しばらくして、ようやくいつもどおり呼吸できるようになった。それでも夢で見た人物や色、鼻をつく匂い、屋敷を飲み込む炎の熱はなかなか消えない。まるで実際に目にしたかのような鮮明すぎる記憶に、掛布の中で両手をギュッと握り締める。  これまであれほどひどい光景を目にしたことはなかった。旅の途中で様々なものを見聞きした中にも、ああいった光景はない。それなのにあまりにも強烈な内容にひどく混乱した。 「それは夢だ、忘れろ」  聞こえて来た声にハッと目を開いた。慌てて視線を向けると、ベッドの傍らに領主が立っている。  銀色の髪は日差しを浴びていつものように美しく輝いていた。黄金色の瞳も見惚れるほど美しい。これまで何度も見てきた姿なのに、なぜか胸がキリキリと痛くなった。美しい顔が夢の中の男性と重なるような気がして胸のあたりが重苦しくなる。 (胸に杭を打たれていたあの人は、もしかして……)  銀の髪も黄金色の瞳も目の前の領主によく似ていた。シュエシは胸が押し潰されそうな気持ちになりながら、なんとか上半身を起こした。 「あの、領主様の家族は……」  黄金色の瞳がスッと窓のほうを見た。整った横顔から感情を伺うことはできない。 「わたしの血を舐めたことで余計なものを見たな」 「血……」 「それだけおまはわたしの血に順応しやすいということだ。そのことは興味深いが、夢を覚えている必要はない」  領主の言葉はいつも難しい。それでもシュエシは夢で見た人たちが領主の家族に違いないと察した。 (もしあれが本当にあったことだとしたら、どうしてあんなひどいことに……)  なぜ領主の家族があんな最期を迎えることになったのだろうか。頭がない女性、血まみれの少女と幼い子ども、胸を杭で穿たれた男の人――夢で見た彼らを思い出すだけで胸が苦しくなる。ひどい惨状に気持ちが悪くなるよりも痛みを感じるほうが強い。 「なぜ泣く?」  指摘され、シュエシは初めて自分が泣いていることに気がついた。慌てて目尻を拭いながら「あの人たちは」と言ったところで口をつぐむ。黄金色の瞳が黙り込むシュエシを見下ろす。 「おまえが考えているとおり、あの人影はわたしの家族だ」 「……領主様の家族が、どうしてあんなことに……」 「言っただろう? 人のほうが化け物だと」 「まさか、土地の人たちが……?」 「自らの行いを差し置いてわたしを化け物と呼んでいるとは、とんだ笑い話だ」  そう言って口元を歪める顔さえ美しい。つらい話をしているときでさえ美しいままの様子に、シュエシは胸を抉られるような痛みを感じた。同時に母親のことを思い出した。  シュエシの母親は、その美しさから東の国の貴人に花嫁にと求められたのだと聞いた。しかし母親はすでに父親に嫁いだ身で、腹にはシュエシが宿っていた。それでも貴人は母親に結婚を迫り、無理やり父親と引き離し宿った子を流そうとした。  母親は激昂した。たおやかで優しかった母親はその貴人を殺め、父親とともに国を出て遠い西の土地へと逃れた。シュエシがこの話を聞いたのは随分と小さい頃で、母親もまさか記憶に残るとは思わず昔語りのつもりで話してしまったのだろう。  幼かったシュエシは当然話の内容を理解することはできなかった。しかし忘れることもなかった。その後も何度か「だからわたくしは……」とつぶやく母親の言葉を聞いているうちに、母親がしたことを理解できるようになった。 (母様は時々怖い顔をしていた)  それは決まって東の国の人を見かけたときで、いま思い起こせば寝物語に聞かせてくれた夜叉のような顔だった気がする。 『一生分、いいえ、来世の分までお父様を愛しているわ』  そう告げる母親はとても美しかった。父親を心の底から愛していたのだろう。 『だからわたくしは――』  続く言葉はいつも聞き取りづらいほど小さかった。それでもシュエシは忘れられずにいた。 『だからわたくしは殺めたのよ』  そうつぶやきながら、母親はまるで本物の夜叉のように真っ赤な汁を滴らせる果実を口にしていた。 (母様は僕を守るために人を殺めた)  そのことで母親を恐ろしいと思ったことはない。ただ、夜叉のような顔を見せるようになってからのほうが美しさが増したように感じていた。  人は美しいものを好む。母親を無理やり娶ろうとした貴人は母親の美しさに我を失ったのかもしれない。だから子を流そうとした。もしかすると領主の家族もそうだったのではないだろうか。 (領主様を見れば、どれほど美しい家族だったか想像できる。あまりに美しいから、あんな目に遭ったのかもしれない)  真相はわからない。しかし夢で見た惨状からそうではないかと考えた。もしかして美しい顔だけでも手元にという理由で頭を切り取られたのではないかと想像し、ブルッと背中が震える。 (ヴァイルさまは家族を失って、一人きりになってしまった)  自分も両親を亡くし一人きりになった。そのうえ厄介者でもあった。ただ生きているだけでなんの価値もない自分に初めて優しく接してくれたのが執事だった。たとえ意趣返しだったとしても、自分が存在してもいいのだと思えたことがうれしかった。  そして領主は花嫁という立場を与えてくれた。もう自分には領主しかいない。 (僕がずっとそばにいます)  どうせほかに行くところはない。それに花嫁なら死ぬまで領主のそばにいるものだ。死ぬまで血を捧げろというのなら喜んで捧げよう。 (だから、どうか僕をずっとそばに置いてください)  一人きりは寂しい。もう一人きりにはなりたくない。ようやく見つけた大好きな人とずっと一緒にいたい。  シュエシの顔がとろりと蕩けた。うっとりした眼差しを領主に向けながら立ち上がり、熱を帯びた眼差しで美しい領主を見上げる。 「僕はあなたが好きです」 「聞いたな」 「あなたがたとえ化け物だったとしてもかまいません。ぼくは化け物であるあなたも好きです」 「物好きな奴だ」 「どうか死ぬまで僕をそばに置いてください」  声に熱がこもる。言葉ははっきりしているが、シュエシの表情は夢うつつの中にいるようにぼんやりとしていた。 「僕はあなたの花嫁ですから、ずっとあなたのそばにいます。あなたを一人きりにはしません」  黄金色の瞳をわずかに細めた領主がシュエシの顎を掴みクイッと持ち上げる。そうしておぼろげな光を宿す黒目を覗き込み、「興味深いのは髪だけではなさそうだな」とつぶやいた。  途端にシュエシが夢から覚めたような顔をした。間近にある美しい顔に頬を染め、「あ、あの」と口ごもる。 「わたしの影響を受けていないはずだというのに、こうして度々よく似た状態になる。それはおまえ自身の何かが関係しているのだろう。その髪、魂の在り方、血の香り……興味深い」 「領主、様……?」  顎を掴んでいた手が離れた。触れていた感触が名残惜しくて白い手を目で追っていると、「おまえは花嫁だ」と言われ慌てて領主の顔を見た。 「死ぬまで花嫁として血を捧げよ」 「は、はい」  そういえば何かとんでもないことを口走った気がする。シュエシは記憶が曖昧になるほど見惚れてしまったのかと恥ずかしく思いながら、「死ぬまで」という領主の声に胸を高鳴らせた。

ともだちにシェアしよう!