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10 夢
(ここは……どこだろう)
ぐるりと周囲を見渡す。どこを見ても木々や草ばかりで建物や人影などは見当たらない。
シュエシはとても深い森の中に立っていた。どうしてこんなところにいるのか、いつからここにいるのか思い出せない。ここがどこで自分がどこに行こうとしていたのかもわからなかった。
不意に遠くで何かの鳴き声のようなものがした。それは森のずっと奥から聞こえるもので、人の声のようにも聞こえる。
(行かないと)
シュエシは声のほうへ行かなくてはと思った。どうしてそう思ったのかわからないまま森の奥へと歩き出す。枝をかき分け、草や蔓を踏みしめ、必死に声のほうへと歩いた。
鬱蒼とした木々の間をなんとか進んでいくと、突然開けた場所に出た。元は原っぱのようなそこに草花はなく、むき出しの土はところどころ不自然に盛り上がったり抉れたりしている。
(あれは……屋敷?)
奥のほうに屋敷のような建物が見えた。近づこうとしたところで赤いものが舞い上がる。
(燃えてる)
近づくと大きな屋敷が燃えていた。バチバチと燃える音の中に柱か何かが崩れ落ちる音が混じっている。焦げ臭い匂いと、その中になんとも言えない不快な匂いが混じっていることに気がついた。
どこからか声が聞こえた気がした。もしかして逃げ遅れた人がいるんだろうか。シュエシは急いで建物のほうへと走った。屋敷のそばに人が倒れている。慌てて近づくと、倒れていたのは……首のない女性だった。女性だとわかったのは立派なドレスを着ていたからで、しかし首から上はない。途切れた首のあたりからはどす黒い大量の血が流れ出している。
思わず視線を逸らしたシュエシは、ドレスの近くに小柄な人影が倒れていることに気がついた。おそるおそる近づくと、倒れていたのは小さな少年だった。すぐ近くには少女らしき人物も倒れているが、どちらにも頭がない。
(どうしてこんなむごいことを……)
むせ返るような血の臭いに目眩がした。あまりの惨状に目を背けると、少し離れたところにもう一人倒れていることに気がついた。ためらいながらもゆっくりと近づく。
仰向けに倒れている人物は貴族だとわかるような立派な服を着ていた。しかしその胸には腕ほどの太さの木が突き刺さっている。
「うぐ……っ」
シュエシは慌てて口を覆った。戻すことはなかったものの、胸が悪くなり腹の奥が鉛を抱えたように重くなる。
(この屋敷でいったい何が……)
倒れている人物は男性だった。ほかの三人と違って頭がついている。これほどひどい死に方をしているのに、なぜか男性の顔に苦悶といった表情はない。まるで眠っているかのような顔はあまりに美しく、死に顔だというのにシュエシは目が離せなくなった。
血に染まっている髪の毛は鈍い銀色をしているが、元々は月の光のように美しかったに違いない。薄く開いた瞼の奥にガラス玉のような瞳が見える。燃えさかる炎を反射しているからか、瞳は綺麗な金色に光っていた。
(銀色の髪に黄金色の瞳……まるで……)
シュエシが何かを思い出しかけたとき、目の前が真っ暗になった。
「……っ!」
体がガクンと落ちるような感覚にハッと目が覚めた。心臓はドクドクと激しく脈打ち、額からツーッと汗が流れ落ちる。
(いまのは……)
すぐに夢だとわかった。目に映っているのは見慣れた天井で、日の光が差し込んでいるからかいつにも増して眩しい。横になっている感触からここがベッドだということがわかる。頭のない死体や美しい顔をした死体は全部夢だ。わかっているのに、それでもドクドクと脈打つ鼓動は収まらない。
(あれは夢だ……夢だ……)
シュエシは目を閉じて何度もそう自分に言い聞かせた。しばらくするとようやく落ち着いてきた。それでも目にしたものの色や鼻をつく匂い、屋敷を飲み込む炎の熱はなかなか消えない。まるで実際に目撃したかのような鮮明すぎる記憶に、掛布の中で両手をギュッと握り締めた。
これまでシュエシがあれほどひどい光景を目にしたことはなかった。旅の途中で様々なものを見聞きした中にも、ああいった光景はない。それなのにあまりにも強烈な記憶にひどく混乱した。
「それは夢だ、忘れろ」
聞こえて来た声にハッと目を開いた。慌てて視線を向けると、ベッドの傍らに領主が立っている。
銀色の髪は日差しを浴びていつものように美しく輝いていた。黄金色の瞳も見惚れるほど美しい。これまで何度も見てきた姿なのに、なぜか胸がキリキリと痛くなった。美しい顔が夢の中の男性と重なるような気がして気持ちが重くなる。
(胸に杭を打たれていたあの人は、もしかして……)
銀の髪も黄金色の瞳も目の前の領主によく似ていた。シュエシは胸が押し潰されそうになりながらも上半身を起こし口を開いた。
「あの、領主様の家族は……」
黄金色の瞳がスッと窓のほうに向く。整った横顔には何の感情も浮かんでいない。
「わたしの血を舐めたことで余計なものを見たな」
「血……」
「それだけおまはわたしの血に順応しやすいということだ。そのことは興味深いが、夢を覚えている必要はない」
領主の言葉は難しく理解することができない。それでもシュエシは夢で見た人たちが領主の家族に違いないと察した。
(もしあれが本当にあったことだとしたら、どうしてあんなひどいことに……)
なぜ領主の家族があんな最期を迎えることになったのだろうか。頭がない女性、血まみれの少女と幼い子ども、胸を杭で穿たれた男の人――夢で見た彼らを思い出すだけで胸が重苦しくなる。ひどい惨状に気持ちが悪くなるよりも痛みを感じるほうが強かった。
「なぜ泣く?」
指摘されてシュエシは初めて自分が泣いていることに気がついた。慌てて目尻を擦りながら「あの人たちは」と言ったところで口をつぐむ。黄金色の瞳が黙り込むシュエシを見下ろした。
「おまえが考えているとおり、あれはわたしの家族だ」
「……領主様の家族が、どうしてあんなことに……」
「言っただろう? 人のほうが化け物だと」
「まさか、土地の人たちが……?」
「自らの行いを差し置いてわたしを化け物と呼んでいるとは、とんだ笑い話だ」
そう言って口元を歪める顔さえ美しい。つらい話をしているときでさえ美しいままの姿に、シュエシは胸を抉られるような痛みを感じた。同時に母親のことを思い出した。
シュエシの母親は、その美しさから東の国の貴人に花嫁にと求められた。しかし母親はすでに父親に嫁いだ身で、腹にはシュエシが宿っていた。それでも貴人は母親を求め、無理やり父親と引き離し宿った子を流そうとした。
母親は激昂した。たおやかで優しかった母親はその貴人を殺め、父親とともに国を出て遠い西の土地へと逃れた。シュエシがこの話を聞いたのは随分と小さい頃だった。母親はまさか記憶に残るとは思わず、つい思い出語りのつもりで話してしまったのだろう。
幼かったシュエシは当然話の内容を理解できなかった。しかし、その後も何度か「だからわたくしは」とつぶやく母親の言葉がずっと忘れられずにいた。そうして年を経てようやく母親のしたことを理解した。
よくよく思い出せば、母親は時々恐ろしい顔を見せていた。それは決まって東の国の人を見かけたときで、寝物語に聞かせてくれた夜叉のようだとシュエシは思った。
『一生分、いいえ、来世の分もお父様を好きになったのよ』
そう告げる母親はとても美しかった。父親を心の底から愛していたのだろう。
『だからわたくしは――』
続く言葉はいつも聞き取りづらいほど小さかった。それでもシュエシは忘れられなかった。夜叉の話をするたびに、母親は「だからわたくしは殺めたのよ」とつぶやいた。そうして真っ赤な汁を滴らせる果実を口に運んだ。
(母様は僕を守るために人を殺めた)
その事実に気づいたとき、母親を恐ろしいと思うよりそうさせてしまったことに苦しさを覚えた。自分が腹に宿っていなければ貧しい旅人にならなくて済んだのにと思うこともあった。それでも母親はシュエシと父親を選んだ。そのことがうれしかった。たとえ夜叉のような形相を目にしても、それさえ美しいと思った。
(母様はいつも美しかった。でも、それが幸いだとは限らない)
人は美しいものが好きで、それを手に入れたいと欲を掻く。その結果、誰も幸せにならない結果になることもあった。人とはそういうものだとシュエシは旅をする中で知った。
(ヴァイルさまの家族も、きっと美しいせいであんなことになったんだ)
真相はわからない。しかし夢で見た惨状からそうではないかと考えた。もしかして美しい顔だけでもと頭を切り取られたのではないかと想像し、ブルッと背中が震える。
(ヴァイルさまは家族を失って、一人きりになってしまった)
自分も両親を亡くし一人きりになった。そのうえ厄介者でもあった。ただ生きているだけでなんの価値もない自分に初めて優しく接してくれたのが執事だった。たとえ意趣返しだったとしても、シュエシは自分が存在してもいいのだと感じ嬉しかった。
さらに領主は花嫁という立場を与えてくれた。いまのシュエシにとって領主は幼い頃から求めていた存在だった。
(僕がずっとそばにいます)
どうせほかに行くところはない。なにより大好きな人と一緒にいたかった。死ぬまで好きな人のそばにいたい。母親のように死ぬ間際まで隣にいたい。
(僕はヴァイルさまが好きだ。ヴァイルさま以上に好きになる人はいない)
一人きりは寂しい。もう一人きりにはなりたくない。ようやく見つけた大好きな人とずっと一緒にいたい。
シュエシの顔がとろりととろける。うっとりした眼差しを領主に向けながら立ち上がった。そうして熱を帯びた眼差しで美しい領主を見上げた。
「僕はあなたが好きです」
「聞いたな」
「あなたがたとえ化け物だったとしてもかまいません。ぼくは化け物であるあなたも好きです」
「物好きな奴だ」
「どうか死ぬまで僕をそばに置いてください」
声に熱がこもる。はっきりと話してはいるものの、シュエシの表情は夢うつつの中にいるようにとろりとしていた。
「僕はあなたの花嫁ですから、ずっとあなたのそばにいます」
黄金色の瞳をわずかに細めた領主がシュエシの顎を掴みクイッと持ち上げる。そうして朧気な光を宿す黒目を覗き込み「興味深いのは髪だけではなさそうだな」とつぶやいた。
途端にシュエシが夢から覚めたような顔をした。間近にある美しい顔に頬を染め、「あ、あの」と口ごもる。
「わたしの影響を受けていないのに、それによく似た状態だ。我を失うほどの何かがおまえの中にあるのだろう」
「領主、様……?」
顎を掴んでいた手が離れていく。白い手を目で追っていると「おまえは花嫁だ」と言われ慌てて領主の顔を見た。
「花嫁ならばそばにいるのは当然だ」
「は、はい」
そういえば何かとんでもないことを口走った気がする。シュエシは記憶が曖昧になるほど見惚れてしまったのかと恥ずかしく思いながら、「そばにいるのは当然だ」という領主の声に胸を昂ぶらせた。
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