9 / 11

9 変様

 ゾワリと何かが近づいて来るような気配がする。  はドロリとしているような、それでいて霧のような不確かなものだった。ただ、が黒く淀んだ色をしているのだけはわかる。  少しずつ近づいてくるの気配に、シュエシはブルリと震えた。得体の知れないが、どうしてかものすごく恐ろしかったのだ。じわり、じわりと近づいてくるから逃げたいのに、足が動かない。足どころか手も、首も、体のどこも動こうとしなかった。  逃げなければと焦れば焦るほど体は固まったように動かず、ゆっくりと近づいてくるの気配に体が震え出す。どうしようもない恐怖は、きっと本能だ――這い寄るから逃れようと、震えながらも必死に足を動かそうとした瞬間、ストンと体が闇の中へ落ちていくのを感じた。 「……!!」  ハッと目を見開いたシュエシの視界に入ったのは、見慣れた天井だった。あぁ、ここは屋敷だ……、そう安堵した瞬間、ゾワリと嫌な気配を感じてビクッと震えた。あれは夢じゃなかったのかと冷や汗が出る。 「おまえも感じるようになったか」  すぐ近くから聞き馴染んだ声がした。ゆっくりと視線を動かせば、美しいヴァイルの顔があった。 「……ヴァイ、ル、さま」 「は土地の者の気配だ。正確には人の邪念といったところだが」 「じゃ、ねん?」 「土地の者たちは欲を持って屋敷に近づいて来る。そのほとんどは歪んで醜いものばかりだから、邪念と表現して間違いないだろう。しかし、よりによっていま来るとはな。我が花嫁の目覚めには相応しくないというのに、とんだ邪魔をしてくれたものだ」  そう言ってヴァイルの美しい顔が近づいて来た。ぼうっと見惚れているうちに優しく唇が塞がれる。いつもなら冷たく感じるそれは不思議と少しだけ温かく、口内に侵入してきた肉厚な舌も熱く感じられた。それを不思議に思いながらも、シュエシの頭はじんわりと痺れるような快感を拾い、ますますぼんやりとしてしまう。 「どうした? わたしと同じものになって、嬉しくないのか?」 「…………え?」 「まだ記憶が不確かか」 「ぼく、は……」 「おまえは正式に我が花嫁となった。永い生をともに歩み、死してもなお離れることはできない」  ヴァイルの言葉がゆっくりと頭に入ってくる。「同じもの」という言葉が、じわじわと体に広がっていく。そうして隅々まで行き渡ったとき、シュエシは初めて自分がヴァイルと同じ化け物になったのだと理解した。  どこがどう変わったのか実感はまったくないが、ヴァイルと同じ存在になったということに心が震えるほどの喜びを感じた。 「……嬉し、です」  そう答えると、ヴァイルが美しく微笑んだ。美しい顔を見ながら、シュエシの目尻からはすぅっと涙が一筋こぼれ落ちた。 ・ ・ ・  しばらく頭がぼんやりとし、体に力が入らなかったシュエシだったが、数日後には寝台から出て歩けるまでに回復した。  そうなると、自分がどう変わったのか気になって仕方がなくなった。どこが違うのだろうかと体のあちこちを見てみたが、眠る前と違うところはひとつもない。手鏡で顔や髪を見てみたものの、やはり変わったところはないように思えた。  そんな様子をおもしろそうに見ているヴァイルからは、何度か喉が渇かないかと訊ねられた。シュエシはそのとき初めて空腹を感じていないことに気がついた。 「そういえば、起きてから一度も食事をしていません」 「我らは人のような食事を必要としないのだ」 「そうなのですか?」 「飲み食いはするが、嗜好として楽しむ程度だな」  ほかにも年を取るのが人より格段に遅くなることや、嗅覚が鋭くなることなども教えてもらった。その中でシュエシが一番驚いたのは、陽の光に当たっても平気だということだった。  シュエシが知っている吸血鬼という化け物は、陽の光を極端に嫌い、神の印や聖なるものに近づけない存在だ。土地の者たちも同じような話をしていたし、読んだことのある西の国の物語にもそう書かれていた。 「おまえが見聞きした話は、人が勝手に思い描いた虚像に過ぎない。我らは陽を浴びてもなんともなければ、神の屋敷で神の像を眺めることも聖歌を歌うこともできる。ただの装飾品に過ぎない聖なる印のどこが恐ろしいのか、さっぱりわからん」  執事だったときのヴァイルは、窓越しに陽の光を浴びていたし庭にいることもあったと思い出す。 「そうなんですね……」 「恐ろしいものから身を守るため、人が必死に考え出したのだろうな。我らは無駄に人と接触したりはしないし、無駄な殺しもしない。ただ生きるためにわずかばかり食事をするだけで、それも殺さぬ程度がほとんどだ。人のように欲望のままに大量に(あや)めたり、財産を奪うために(あや)めたりなどしないと言うのに」  わずかに呆れを含んだようなヴァイルの眼差しは冷たいものだった。  シュエシは幼い頃に見聞きしたことを思い出し、たしかにヴァイルの言うとおりかもしれないと思った。どの土地にも恐ろしい存在の伝承や物語はたくさんあったが、思い出して一番恐ろしいと思うのは、やはり人だった。 「人にとって人こそもっとも警戒すべき化け物だということに、いつになったら気づくのやら」  恐ろしくも美しい笑みを浮かべるヴァイルに目を奪われる。冷たく光る黄金色(こがねいろ)の瞳に我を忘れそうになる。そうしてぼうっと見惚れているシュエシに気づいたヴァイルが、不意に口づけるのもすっかり日常となっていた。 「……んっ、……あの、」 「どうした?」 「ヴァイル様を温かく感じるのは、どうしてだろうと思って」 「あぁ、我らは人より体温が低いからな。同じものになったいまでは、人同士と変わらぬ熱を感じるだろう?」 「温かいです……」  それを不思議に思って自分の体のあちこちに触れていると、またもやクスクスと笑われてしまった。 「おまえは化け物になっても、何も変わらんな」 「おかしいですか……?」 「いや、そんなところも好ましいと思っている」  ヴァイルの言葉に、シュエシの頬が真っ赤になった。  こういう言葉のやり取りは、どうしても慣れない。むしろ夜の行為のときのほうが、よほど滑らかに口が動くくらいだ。 (早く慣れたいのに……) 「恥ずかしがる花嫁も初々しくていいと思うぞ?」 「ヴァイル様……」 「赤く熟れた肌はわたし好みだから、そのままでいい。さて、わたしは少し用事を済ませてこよう」  そう言ってソファから立ち上がったヴァイルに、シュエシは慌てて声をかけた。 「あの、庭に出てもいいですか?」 「庭に?」 「はい」  シュエシは、本当に陽の光が平気なのか確かめようと思った。すべてヴァイルが教えてくれるものの、自分でも実感として知っておきたかったのだ。 「あの、駄目ですか?」  少し考えるような仕草を見せるヴァイルを、窺うように見つめる。 「……まぁ、大丈夫だろう。ただし、庭から外へは決して出るな」 「わかりました。じゃあ、着替えてきます」 「なぜ着替える?」 「え?」  なぜと問われて、シュエシは困ってしまった。見下ろした自分の姿がドレスだったからだ。 「奥方なのだから、ドレスでかまわないだろう?」 「でも、それでは汚してしまうかもしれないので……」 「かまわん。ドレスなら何着でも用意してやる」  ヴァイルはシュエシが男だとわかってもなお、少女のようなドレスを用意し続けている。いまも派手さはないものの、土地の娘たちなら手を叩いて喜びそうなドレスを身につけていた。これは今朝、ヴァイルが選んだものだ。 (……まぁ、影の人たち以外に会うこともないだろうし) 「……じゃあ、このままで」 「そうするといい。あぁ、先ほども言ったように、庭の外には絶対に出るな」  シュエシはもう一度頷き、ヴァイルを見送ってから庭へと向かった。  ひらひらと動く長い裾に注意しながら、ゆっくりと足を踏み出す。靴も少女が喜びそうな作りだったが、上質なものだからか自分が履いていたものより随分と歩きやすかった。 (ヴァイル様は、僕がこういう格好をするのが好きなのかな……)  よくわからないが、ヴァイルが喜ぶのならシュエシも嬉しい。それなら多少恥ずかしくても受け入れよう。そんなことを考えながら、柔らかい草と土を踏みしめ庭を歩いた。 「陽の光は暖かい……。花の匂いは、ちょっときついかな。……うん、匂いがよくわかるようになった気がする」  もっと大きく変わったかもしれないと身構えていたが、驚くほどは変わっていないことにシュエシは少しだけホッとした。このくらいなら戸惑うこともなさそうだと思いつつ、庭の端に近づいたときだった。  ゾワリとした気配を感じて体が一瞬すくんだ。ハッとして振り返ると、そこには見たことのある男が立っていた。 (あの人はたしか……、そうだ、パン屋のおじさんだ)  そこにいたのは、シュエシが育ての親に言われてたまに買いに行っていたパン屋の主人だった。土地の人たちは滅多なことでは屋敷に近づかないと聞いていたのに、どうしてここにいるのだろうと思っていると、男が目を見開いた。 「おまえ……、生きてるじゃないか」  ひどく驚いている顔に、シュエシのほうが驚いた。男の言葉の意味がよくわからずに立ち尽くしていると、男が大股で近づいてきた。 「花嫁はみんな売り飛ばされるか、殺されるんじゃなかったのか……? 生きてるってことは、あの子も、俺の娘も生きてるのか!? 二年前にこの屋敷に来たんだ、見かけてないか!? おまえも知ってるだろ、ほら、いつもおまえにパンを渡してた、あの子だ!」 「ええと、あの……」 「どこにいる!? おまえが生きてるってことは、あの子も生きてるんだろう!? 一目でいいんだ、あの子に、娘に会わせてくれ……!」 「……っ」  肩を掴んできた男の指が肌に食い込んで、ビリッとした痛みが走る。男はものすごい形相で、どれほど必死かシュエシにもよくわかった。  それでも答えることはできなかった。二年前ということは、すでにヴァイルが領主になった後だ。ということは娘は食事として求められたわけだから、もう生きてはいない。それを男に告げることはシュエシにはできなかった。 「おまえがこうしてここにいるってことは、娘もいるんだろう!? 頼むから、会わせてくれ! 取り戻そうなんて思っちゃいない! ちょっとだけでいい、頼むから……!」  男の悲痛な声にギュッと目を瞑った。答えられないシュエシには、ただじっと男の言葉を聞くことしかできない。 「……なんで何も言わないんだ? これだけ頼んでるのに、無視するのか? ……どれだけ俺たちがおまえの世話をしてやったと思っているんだ。それなのに、ちょっとした頼みすら聞けねぇって言うのか? ……まさか、あの子はもう、……そうなのか?」  男の気持ちを考えると、それが真実だとはどうしても言えなかった。 「……どうして、おまえはここにいるんだ?」 「ぇ……?」 「あの子はいないのに、おまえが、どうして生きてるんだ?」  言葉と一緒に、ゾワリ、ゾワリとした得体の知れない気配を感じた。 「どうして、おまえなんかが生きていて、あの子がいないんだ……? おまえみたいな土地の者でもない奴が、どうして生きてるんだ……?」  ゆっくりと目を開ければ、男の体からモヤモヤとした霧のようなものが立ち上っているのが見えた。薄灰色のそれは徐々に黒く濁っていき、ユラユラと漂っているような霧なのにドロリと濁った雨水のようにも見える。 「売られるしか価値のない奴がなんで生きてるんだ……! いままで生かしておいた意味がねぇだろうが!」  男の鋭い声に、シュエシは何も言えなかった。ただ痛いほどに肩を掴まれ、ガクガクと揺さぶられるまま男の言葉を聞くことしかできなかった。 「どうして土地の娘たちは殺され、おまえは生きているんだ! 代わりにおまえが死ねばいいんだ!」 (ヴァイル様の言ったとおりだった)  それは悲しくもあったが、それ以上に男が恐ろしくてシュエシは動けなくなっていた。男の周りに漂うドロリとしたものがますます色を濃くし、霧の端がユラユラと揺れながらシュエシに近づこうとしている。ゾワリとしたものが近づく気配に、手も足も動かせなくなる。 「おまえこそ殺されてしまえばいいんだ! おまえなんか生きてる価値はな――」  プツリと男の言葉が途切れた。男の手が肩から離れ、腕はダラリと力なく垂れ下がっている。男の目は先ほどまでと違い虚ろな状態で、どこを見ているのかわからない様子だった。男の周りに漂っていた得体の知れないゾワリとした黒いものも、少しずつ薄まっていく。  震えながらもどうしたのだろうと思っていると、シュエシの背後から薔薇のような甘く濃密な香りがふわりと漂ってきた。 「人というのは、とことん愚かだな」 「ヴァイル様……」  現れたのは、美しい顔に呆れた表情を浮かべるヴァイルだった。 「これでわかっただろう? おまえは善意で生かされていたわけではない。土地の者たちにとっては、ただの物にしか見えていなかったのだよ」 「……はい」 「煩わしいことに関わりたくないからこそ税をなくして屋敷にこもっているというのに、こう何度も来られてはたまらんな」 「何度も、ですか……?」 「このところ、やけに回数が多い。おまえが目覚めたときにも何人か来ていたし、眠っている間にも来ていた。ただ庭の外をうろつくだけなら構わんが、こうしておまえに接触してくるとなっては、何か考えざるを得ないが……」  そう言ってヴァイルの白い指が男の眉間あたりに触れる。すると男はひと言も声を出すことなく、足を踏み出した。自力で歩いてはいるものの、男の目は虚ろなままで明らかに様子がおかしい。  それがどうしてか尋ねようとヴァイルを見ると、彼の瞳も違っていることに気がついた。 「ヴァイル様、目が……」 「あぁ、少しばかり力を使ったからな。あれで男はここに来たことも、おまえがこうして元気でいることも覚えていない」  わずかに微笑むヴァイルの瞳は、いつもの黄金色(こがねいろ)ではなく朱色に輝いていた。それはまるで鮮やかな血の色にも見えて、ゾクリとするとともにあまりの美しさに目が離せなくなるほどだった。 「さて、もういいだろう。部屋に戻るぞ」  少し横を向いたヴァイルの瞳は、いつもの優しい黄金色(こがねいろ)に戻っていた。シュエシは自分は思ったよりも大変なものに変わったのかもしれないと、ほんの少し思った。

ともだちにシェアしよう!