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15 誘(いざな)い

 その日、シュエシは窓を開けて庭を眺めていた。広大な庭は手入れが行き届いていて、南側には立派な温室まである。庭の手入れも影たちが行っているのか、たまにフワフワと空中を移動する黒い霧のようなものが見えた。 (あれ……?)  少し離れたところに何かが落ちている。白っぽいそれは紙のように見えた。「どこかから飛んできたのかな」と見ているとふわりと舞い上がり、そのまま風に載って段々と近づいて来る。 (やっぱり紙だ)  少し黄色味がかったそれはシュエシの顔より少し大きな紙だった。手を伸ばすとちょうど指先が触れ、うまく掴むことができた。 (手紙……かな。でも、本の一ページのようにも見える)  端のほうに千切れた部分はあるものの、文字が書かれている部分に損傷はない。それでもシュエシには何が書いてあるのかわからなかった。東の国の文字は言葉と一緒に両親に教えてもらったが、このあたりの文字は習うことがなかったため読めない。それでも文字だとわかったのは、養ってくれていた男が何冊か本を持っていたからだ。 (ヴァイルさまのものなら探してるかも……)  もしかしたら大事なものかもしれない。部屋に来たら渡そうと思いながら指先で文字を撫でたときだった。  ゾワッ。  得体の知れないものを感じたシュエシは、咄嗟に紙を手放した。ふわりふわりと漂いながら絨毯の上に紙が落ちる。体の芯から震えるような感覚に自分の腕で体を抱きしめた。  それでも震えが止まらない。どうしたのだろうと戸惑いながら文字に触れた手で額を押さえた瞬間だった。胸のあたりがグッと重くなり何かがせり上がってきた。慌てて口を押さえたものの、間に合わずに「ゲフッ」と嘔吐する。 「……っ」  よろけながら身を屈めるが、それでも吐き気は収まらない。何が起きたのかわからず、フラフラと上半身を揺らしながら床に膝をついた。 「グフッ」  再び嘔吐し吐瀉物(としゃぶつ)が絨毯を汚す。吐いたのはほとんど無色の唾液だったが、ドレスの胸元も汚してしまった。絨毯もひどく濡れている。あちこち汚してしまったことに青ざめていると、何かが近くで動いたような気がした。扉が開く音に顔を上げようとしたものの、今度は口から赤いものがこぼれ落ちて動きが止まる。 (これは……血……?)  口元を拭った手に付いていたのは血だった。不意に吐血した母親を思い出しゾッとした。もしかして自分も両親が患った病に冒されているのではないだろうか。頭に浮かんだのは死への恐怖ではなくヴァイルのことだった。 (もしそうなら、僕の血を飲んだヴァイルさまは……)  吸血鬼という化け物が人の病に冒されるのかシュエシにはわからない。だが、よくないことには違いないだろう。大変なことをしてしまったと思うとともに、別の意味でも体が震えた。 (これじゃ、もう二度と僕の血を口にしてもらえなくなる)  病持ちの体では血を捧げることはできないに違いない。そんな役立たずの自分をそばに置いてくれるだろうか。 (きっと捨てられる)  見る間に青ざめガタガタと震え出した。シュエシにとってヴァイルのそばにいられないことは命を失うことよりも恐ろしいことだった。 (僕はまた一人きりになってしまう。せっかく大好きな人のそばにいられると思っていたのに……)  シュエシは怯えながら混乱した。口の中に広がる自分の血に眉をひそめる間もなく再び「ゲフッ」と嘔吐し、血の混じった唾液が絨毯に飛び散る。ガタガタと震えるシュエシの耳に「おい」という声が聞こえてきた。ゆっくり顔を上げるとそばにヴァイルが立っている。 「あ……」 「吐いたのか?」  問われた途端にシュエシの目からポロッと涙がこぼれ落ちた。どうしよう、病持ちだと知られてしまった。きっとすぐにでも出て行けと言われるに違いない。 (そんなのは嫌だ)  もっとこの人のそばにいたい。死ぬまでそばにいさせてほしい。僕の血だけを口にしてほしい。僕以外の血をこの人が口にするのは嫌だ。いろんなな思いが駆け巡りシュエシの体をブルブルと震わせる。 「……それか」  黄金色の瞳が床に落ちている紙を見た。「忌々しい」という声が聞こえた次の瞬間、紙からボッと火が上がる。目を見開くシュエシの前でジワジワと紙は燃え、完全な灰になるのと同時に火が消えた。床に残ったのは黒い燃えかすだけで絨毯に焦げた跡はない。 「舐めろ」  目の前に指が差し出された。ヴァイルが片膝をつき指を差し出している。白い指の腹には鮮血がぷくりと玉のように載っていた。 「早くしろ。それで吐き気は収まる」  手も口も吐瀉物や吐血したもので汚れていたシュエシは、ヴァイルの命令に従うべきか迷った。汚れた自分が触れれば美しいヴァイルの手を汚してしまう。そんなことは許されない。そう思い、鼻先に差し出されている指から視線を外した。そんなシュエシに焦れたのか、再び「舐めろ」と言ったヴァイスが無理やり指を口に突っ込んだ。 「んぅ」  慌てて顔を仰け反らせようとしたが、口内に広がる甘い香りに動きが止まった。鼻から抜ける香りに目眩がする。気がつけば冷たい指に舌を這わせ、チュウチュウと赤ん坊のように吸いついていた。 「おまえはすでにわたしの血を口にしている。そのせいで影響を受けたのだろう」  ヴァイルの声にハッとし、慌てて口を離した。「す、すみません」と謝ると「かまわん」と返ってくる。 「影たちはああいったものに影響されにくい。わたしを脅かすほどの力もない。それゆえ失念していた」  黄金色の瞳が見ているのは燃えかすだった。 「……あの、手紙だったのでは……」  掠れた声で尋ねると「ただの(まじな)いの言葉だ」と言われ目を見開く。 「ま、まじない……?」 「よほど領主に消えてほしいのだろうな。化け物に効果があるに違いないと、土地の者たちはああした(まじな)いが書かれた紙や神の御姿だという装飾品を庭に投げ入れる。あれもどこぞの教会に頼んでもらってきたのだろう」 「きょうかい……?」 「神がいるという場所だ。本当に神がいるかは知らん。我らのような化け物がいるくらいだから、どこかに神と呼ばれるものもいるかもしれんがな。だが、神とやらが与えるもので我らがどうこうされることはない」  冷たく光る黄金色の瞳がシュエシの背後を見た。「着替えを用意しろ」と告げると、空中に黒い霧がふわりと現れ寝室へと流れていく。 「あの、よ、汚してしまって、すみません」  着替えという言葉にハッとした。たとえあの紙の影響だったとしても不用意に触れたのは自分だ。そのせいで床やドレスを汚してしまった。きっとこの惨状を不快に思っているに違いない。そう思ったシュエシはドレスの裾を掴むと汚れた絨毯をゴシゴシと擦り始めた。 「何をしている」 「よ、汚してしまったので掃除を」 「そんなことをする必要はない」 「でも、」 「おまえはわたしの花嫁だ。掃除は影がやる」 「……でも、僕は……」  言葉が詰まった。嘔吐したのは(まじな)いが書かれた紙のせいかもしれないが、血を吐いたのは病のせいかもしれない。もし病なら花嫁ではいられなくなる。そう思うと自分から病持ちかもしれないとは言い出せなかった。 「言っただろう? おまえはわたしに血を捧げることだけ考えていればいい」 「でも」 「それとも血を捧げるだけの花嫁では不満か?」 「そ、そんなことはありません! 僕の血をほしいと言ってくれるなら、もちろん喜んで差し上げます。でも……この体は、病に冒されているかも、しれないから……」  ドレスの端を握る手に力が入る。 「おまえは病になどかかっていない。わたしが病持ちの血を口にすると思うか?」  そっと顔を上げると、いつもと変わらない黄金色の瞳が自分を見ていた。 「吐いたのは人の体だからだ。もっとも、吐く原因になったのはわたしが与えた血のせいだろうがな。中途半端に取り込んでしまったせいで(まじな)いに体が反応したのだろう。異物である我が血を排除しようとした結果だ」 「……それじゃ、僕の血を口にしてもらうことは……?」 「この状態でも気になるのはそのことか」 「ぼ、僕には、それしかないので……」  再び俯いたシュエシの髪をヴァイルがそっと手に取る。 「おまえの髪は美しい。その身に宿す業にも興味がある。なによりおまえの血はわたしをひどく惹きつける。肌の上からでさえこうだ」  ヴァイルの冷たい手がシュエシの頬に触れた。そのまま輪郭をたどるように耳たぶに触れ、首筋をするりと撫でる。 「おまえはわたしの花嫁にふわさしいと言ったはずだ」 「んっ」  冷たい指先に耳たぶを摘まれ吐息が漏れた。たったそれだけでシュエシの体に淫らな熱が生まれる。その熱が背中をゾクゾクと震わせ、腰を刺激し、触れられてもいない性器がむくりと頭をもたげた。 「こうしてすぐに体を熱くする。まさに理想的な花嫁だ」 「んっ」  耳たぶを摘んでいた手が再び首筋を撫でた。硬い爪の先が触れると噛まれたときのことを思い出し、また噛んでほしいという欲がわき上がる。 「おまえはわたしの花嫁だ。それが人などの手に(けが)されるのは不愉快でならん」  冷たい手が顎を掴んだ。そのままグイッと持ち上げ、黄金色の瞳がシュエシをじっと見る。 「おまえは人の体でありながら、わたしの血を口にしたことで中途半端な状態になっている。そのせいでわたしを排除しようとする者たちの影響を受けやすい。今回のように嘔吐することがあれば手足を失うことがあるかもしれん。目玉を失ったり声や聴覚を失うかもしれん」  シュエシの背中がブルッと震えた。自分の置かれた状況を知り血の気が引く。 (それでも僕は、ヴァイルさまの花嫁でありたい)  嘔吐も吐血も苦しかった。それでも耐えられる、かまわないと思った。もし命を失うようなことが起きたとしても、好きな人のそばで天に召されるのなら怖くない。たった一人で死ぬよりはずっといい。 「僕は、ヴァイルさまの花嫁で、いたいです」 「命を失うかもしれないのだぞ?」 「か、かまいません」 「死を恐ろしいと思わないのか?」 「少しは、恐ろしいです。でも、一人きりで死ぬよりは、ずっと幸せです」  そのくらいヴァイルが好きだ。何が起きてもこの気持ちが消えることはない。シュエシの瞳の奥にチラチラと漆黒の炎が揺らめく。 「では一つ問おう。おまえはわたしと同じものにないたいか?」  黒目が二度、三度と瞬いた。 「え?」 「わたしと同じ化け物になりたいかと問うている」 「同じ、化け物」 「そうだ。人より長く生き、生き血をすする化け物だ。そうした化け物になりたいか?」  ヴァイルと同じものになれる……首筋がぞわっと震えた。興奮と歓喜でシュエシの目尻に涙が滲む。 「な、なれるのですか?」 「おまえがそう望むのなら」 「化け物になれば、ヴァイルさまのそばに、その、ずっといられますか?」 「長い時間(とき)をわたしのそばで生きることになる。そしてわたしに血を捧げ続けることになる」  喜びのあまり体がブルブルと震えた。好きな人のそばにずっといられる。美しいこの人に自分の血をずっと捧げることができる。シュエシの黒髪に紅色の艶が見え隠れし始める。 「化け物になるのは恐ろしいか?」  頭を横に振ると、より一層紅色の艶が黒髪に広がった。 「ヴァイルさまと同じものになれるのは、うれしいです」  そう答えるシュエシの顔がとろりととろける。 「どうか僕を化け物にしてください。あなたと同じ化け物にして、僕をこれからもずっとそばに置いてください」  顎を掴む冷たい手にシュエシの右手が触れる。 「そして僕の血だけを口にしてください」  まるで愛の告白のようにうっとりした顔でそう囁いた。 「やはりおまえは興味深いな」 「僕は、きっと生まれる前からこうなる運命だったのだと思います」 「運命か」 「はい。この髪も母様からもらった業も。だから、どうか僕のすべてをヴァイルさまのものにしてください」  そう告げると美しい唇にそっと口づけた。途端にパチッと我に返る。唇に触れている冷たい感触に慌てて顔を離したシュエシは、頬を真っ赤にしながら視線をウロウロとさまよわせた。 「あ、あの、」 「おまえは化け物になりたいか?」 「は、はい」  戸惑いながらもそう答えるシュエシにヴァイルが小さく笑う。 「その危うい状態がどうなるか楽しみだな」  口元に笑みを浮かべたヴァイルは、真っ赤になったシュエシを抱き上げると寝室へと向かった。

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