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22 旅立ち
「おまえはまだ生まれたばかりの赤ん坊のようなものだ。そんな状態で人の邪念に触れるのはよくない」
邪念と聞き、ゾワリとした気配を思い出した。たしかにああいうものを何度も感じたいとは思わない。
「まだ空腹を感じないか?」
「え?」
ヴァイルの指がシュエシの唇をするりと撫でた。
「空腹を感じることはないかと問うている」
急にどうしたのだろう。指の感触に顔を赤らめながら「とくには」と答える。
「そうか」
「ヴァイルさま……?」
「いや、焦る必要はない。だが、いまの状況でここに留まるのはやはりよくない」
今度は頬を撫でられた。まるで慈しむような眼差しは初めて見るもので、期待と戸惑いにシュエシの黒目が揺れる。
「西の国には我らの故郷がある。もともとここに留まっていたのも気まぐれに過ぎなかった。領主として留まっても得があるわけでもない。ならば故郷に戻るほうがいい」
「ヴァイルさまの故郷、ですか?」
「わたしの母の故郷で、幼い頃わたしも過ごした場所だ。ここよりずっと美しく多くの同胞が住んでいる。人と関わることなく過ごせるという意味でも、おまえにとってよい場所になるだろう」
故郷という言葉に、両親から聞いた東の国のことを思い浮かべた。シュエシは一度も故郷を見たことがない。そもそも生まれたのは旅の途中で、その後も旅を続けていたシュエシに故郷と呼べる場所はなかった。
シュエシにとって故郷という場所は憧れだった。そんな憧れの、しかも好きな人の故郷に連れて行ってもらえる。それだけで胸がいっぱいになった。
「わたしの故郷に興味はあるか?」
「はい。僕は故郷というものを知りません。好きな人の故郷というのはどういうところなのか、見てみたいです」
好きな人の故郷に行き、好きな人のそばで同じ化け物として過ごす。そうした場所なら化け物の力に戸惑うこともないだろう。制御できなくても、きっとどうにかしてもらえる。安堵と喜びが入り混じる表情を浮かべるシュエシに、ヴァイルが「なるほど」とつぶやいた。
「ヴァイルさま?」
「この感情を愛しいというのかもしれんな」
「いとしい……いとしい、って、」
言葉をくり返したシュエシの頬が赤くなった。意味がわかり戸惑うように視線をさまよわせる。その様子にヴァイルが「フッ」と笑った。
「まさか人にこのような感情を抱くことになるとはな。いや、これも必然というべきなのだろう。そうでなくては人を眷属になどするはずがない」
美しい顔がグッと近づいた。驚いている間に頬に口づけられ黒目を見開く。
「おまえを花嫁にしてよかったと心から思っている」
「ヴァイルさま」
「おまえはそのままでいろ。心まで化け物になる必要はない」
「でも、僕は同じ化け物になり、……っ」
言い終わる前に唇を塞がれた。驚き身をよじったのは一瞬で、上唇を甘く噛まれ力が抜ける。愛しい人にもたれかかりながら、シュエシは必死に口づけに応えた。
これまでにも何度か口づけられたことはある。しかしこうして口内に舌を入れられたのは初めてで、熱い舌がどこかに触れるたびに肌が震えた。上の歯を何度も舐められ腰から力が抜けていく。
「まだ牙は出ていないな」
「……き、ば」
「血を得るための牙だ。その牙に初めて触れるのはわたしでありたい。いや、わたしでなければならない」
「ヴァ、ん……っ」
再び口づけられ上顎を舌先でくすぐられた。そのまま確認するように上の歯を舐められる。シュエシはどうすればいいのかわからず、ギュッと目を閉じた。なんとか自力で立とうとするものの、腰が砕け両足ともブルブルと震えて力が入らない。
「んぅっ」
さまよっていた舌をヴァイルに甘噛みされ背中がゾクゾクと震えた。思わず腰を擦りつけそうになったところでヴァイルの唇が離れる。
「ふ、ふっ、ふ」
荒い息を吐くシュエシの首筋を白い指がひと撫でした。それだけでシュエシの口から「んふ」と甘い声が漏れる。慌てて口を閉じ俯くシュエシに「敏感なのはいいことだ」とヴァイルが囁いた。
「言っただろう? 昼は淑女でも夜は淫らなほうが好ましいと。そういう意味でもおまえは理想的な花嫁だ」
もたれかかるシュエシをヴァイルが抱きしめる。
「おまえを守ってやる。人からも同胞からも、おまえに害をなすすべてのものから守ってやろう」
「ヴァイルさま、」
「わたしはおまえを愛しいと思っている。いや、すでに思っていたのかもしれんな。それに気づいていなかっただけなのだろう」
頭に口づけられシュエシは耳まで赤くした。
「かすかにだが、おまえから甘い香りがしている……間もなくだ」
最後のつぶやきは聞こえなかった。しかし、それが気にならないほどシュエシは満たされていた。これまでとは違う温かな腕の感触に頭がとろける。うっとりしていたシュエシの耳に「そうだな」と何かを決意するようなヴァイルの声が聞こえてきた。
「故郷に帰るならこの屋敷に用はない。すべて消してしまうか」
「え……?」
どういうことだろう。不安そうな表情を浮かべるシュエシにヴァイルが言葉を続けた。
「ここは辺境の地ではあるが、わたしがいなくなってもすぐに新しい領主が現れる。たとえ屋敷がなくとも自分好みの新しい屋敷を建てるだろう。それに、化け物が住んでいた屋敷になど住みたくはないだろうからな」
それからのことはあっという間だった。屋敷に戻るとヴァイルはすぐさま影たちに命じて荷物をまとめさせた。もともとヴァイルが自ら用意したものはほとんどなく、服や日用品に執着も未練もない。故郷に戻ればいくらでも用意できるものはそのままにし、必要最小限のものだけを鞄に詰め込ませた。
そうした荷物はどこからともなく現れた生きた 使用人たちが運び出した。彼らは荷物を馬車に載せると一足先に屋敷を後にする。影たちも一足先に旅立った。その様子を窓から見ていたシュエシは、初めて目にした使用人たちに少しばかり驚いていた。そんなシュエシに「長い移動には影は向かない」とヴァイルが説明する。
「ここから故郷までは遠い。そのぶん人の中に長く留まることになる。人の中を移動するには人であるほうが便利だ」
「あの人たちはヴァイルさまのことを、その、知っているんですか?」
「あぁ。西の国には我らが吸血鬼だと知っていて仕える者たちもいる」
「そう、ですか」
「彼らは非常時の糧でもある。労働や血の見返りに我らは彼らを庇護している」
糧という言葉にドキッとした。ヴァイルもそういう存在から血をもらうのだろうか。自分以外の血を口にすることがあるのだろうか。馬車が向かった先を見ながらシュエシの眉尻が少しだけ下がる。
「わたしがあれらの血を求めることはない」
「え?」
「わたしにはおまえがいる。喉が渇けばおまえの血をもらう」
「あ、りがとう、ございます」
心を見透かされたようで恥ずかしい。顔を赤らめるシュエシにヴァイルが「礼か」と小さく笑った。
「血を奪われるというのに、礼を言うのはおまえくらいだろうな」
「そうかもしれないですけど、でも、やっぱりうれしいので……」
「そういうところも悪くない。いや、我が花嫁らしくていい」
「ありがとう、ございます」
首まで赤くしたシュエシの顎をヴァイルが掴む。そうしてクイッと持ち上げ触れるだけの口づけを落とした。
日が落ちる頃にはすべての作業が終わった。最後に屋敷と温室に火が放たれる。温室の薔薇たちには可哀想だが、薔薇を残せば必ず土地の者たちの間で争いが生まれる。欲望を刺激された土地の者たちはどんな行動に出るかわからない。土地の者同士で血を流すことにもなりかねない。ヴァイルの言葉に庭で遭遇した男たちを思い出したシュエシは、こくりと小さく頷いた。
はじめは小さな火だったものが、あっという間に勢いを増し屋敷を呑み込む炎となった。ゴウゴウと燃える様子は夢で見た炎のように熱く、柱か何かが崩れ落ちる音が止めどなく聞こえてくる。
「そろそろ行くぞ」
ヴァイルに声をかけられたが、シュエシはしばらく炎から目を離せなかった。
「なんだ、名残惜しいのか?」
背後に立ったヴァイルの問いかけに、首を横に振りながら「わかりません」と口にする。
「名残惜しいというか……ここはヴァイルさまに出会って、花嫁にしてもらった場所だったから」
そういう意味では思い出の場所と呼べるかもしれない。旅をしていたシュエシにはそうした場所があまりなかった。留まるのはわずかな時間で、次々と景色を変えるためはっきりと覚えている場所はほとんどない。この土地に留まって十年以上が経つが、住んでいた部屋や街を思い出だと感じることもないだろう。
「故郷に行けば、そうした場所はいくらでも作れる」
「楽しみです」
「それに旅の間も思い出の場所を作ることはできる」
きっと幼い頃の旅とは大きく違うはずだ。両親との旅は大事な思い出ではあるものの、好きな人との旅とは違う。それに旅の終着点はヴァイルの故郷だ。
「どんな旅になるのか楽しみです」
「体に負担がかからないよう、頑丈で広めの馬車を用意した」
少し離れたところに立派な馬車が止まっている。シュエシが知っている乗合馬車とは違い、まさに貴族の乗り物といった雰囲気だ。
「馬車にはカーテンもある。寝泊まりができるように折りたためる台座も取りつけた。さすがにベッドのようにとはいかないが、それでも体がひどく痛くなることはないだろう」
寝泊まりという言葉に驚いた。ヴァイルの故郷は遠いというから、時にはそういうことがあるのかもしれない。「そういうのも楽しみだな」と馬車での寝泊まりに思いを馳せていると、「それに」とヴァイルの言葉が続いた。
「多少揺れたところでびくともしない。山道でもなめらかに走るような馬車を用意させたからな」
「すごい馬車ですね」
「そうだな、中で何をしても滞りなく進むことができる。長旅の間も十分に花嫁をかわいがることができるだろう」
「え?」
「まだ蜜月は始まったばかりだ」
「!」
何を言っていたのか悟ったシュエシの顔がパッと赤くなった。
「そうした反応も悪くない」
「ヴァ、ヴァイルさま……!」
掠めるように頬に口づけたヴァイルが、「さぁ、行こうか」と言って左手を差し出した。貴族然とした美しい姿に一瞬見惚れたシュエシはすぐにハッとし、おずおずといった様子で右手を伸ばす。
「我らの故郷へ向けて出発だ」
「はい」
丘の上に建つ領主の屋敷は夜通し燃え続けた。土地の者たちは遠くに見える赤い色に驚き、それでもすぐに駆けつける者はいない。誰もが口を閉ざし、顔を歪めながら燃えさかる炎を見つめた。
そんな家々から少し離れた畑の間を黒光りする馬車が一台通り過ぎた。そのまま西へと続く街道に速度を緩めることなく進んでいくが、その馬車に気づく者は一人としていなかった。
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