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23 眷属
ヴァイルが用意した馬車はすこぶる乗り心地がよかった。あちこちに小さな穴が空いているような道も、石が転がっているような場所も大きく揺れることなく進んでいく。乗合馬車しか知らなかったシュエシは、流れるように進む馬車と外の景色に何度も感動した。
いまもシュエシの黒目は麦畑が続く窓の外を眺めている。黄金色の畑は夕焼けに染まり、遠くに麦を保管する小屋や粉挽きに使う風車が見えた。不意に目の端に眩しいものを感じた。視線を向けると、備え付けの棚に置かれたランプにヴァイルが明かりを灯したところだった。このランプは馬車がいくら揺れても倒れないようになっていて、旅を始めた頃は夢中になって眺めた。
ランプの奥には小さな窓があり、その先に馬車を操る馭者 の男がいる。彼も生きている 使用人だがシュエシは声を聞いたことがない。宿に泊まるときも馬車に留まり、いつの間にか別の男に変わっていることもあった。
「今回の宿泊先はあそこだ」
窓の外をヴァイルが指さす。視線を向けると麦畑の先に大きくて立派な屋敷が見えた。ヴァイルが使う宿はいずれも貴族専用なのか、丘の上にあった屋敷のように立派なところばかりだ。そうした宿に泊まりながら、たまに馬車の中で一夜を過ごすこともある。
(それにしても馬車の中にベッドだなんて、初めて見たときは驚いた)
ヴァイルが「寝泊まりができるように折りたためる台座も取りつけた」と言ったとおり、台座を出すと横になることができた。そこに布を敷いて二人で横になる。ただし、寝る以外のことは何もしない。
(……少しだけ、期待してたんだけどな)
浮かんだ言葉に顔が熱くなった。ヴァイルは「長旅の間も十分に花嫁をかわいがることができるだろう」と言っていたが、さすがに馬車の中でというのはいやらしすぎる。
シュエシが顔を赤くしている間に宿である屋敷に到着した。泊まるのは離れになっている建物らしく、中に人の気配はない。部屋に入ると「ここには三日滞在する」と告げられた。見回した部屋は丘の上にあった屋敷の部屋と同じくらい豪華で、覗いた寝室には天蓋付きのベッドがあった。その奥には湯浴みをする場所も見える。
居間に戻るとヴァイルが窓の外を眺めていた。ただ立っている姿でさえ美しく、もう何度も見ているというのにぼぅっと見惚れてしまう。
「どうした?」
「え……? あ、いえ、なんでもないです」
振り返った顔にドキッとし、顔が熱くなるのがわかった。いまだに見つめられるだけで顔が赤くなる自分が気恥ずかしく、そっと顔を逸らす。そんなシュエシに近づいたヴァイルが顎を掴みクイッと持ち上げた。
「相変わらず初々しい反応だ」
「……ヴァイルさまは意地悪です」
「意地悪か。言うようになったな」
「だって……」
「そういうのも悪くない。言いたいことは言えばいいし、おまえはそのままでいい」
「……はい」
「初心なままもいいが、たまにはおまえから誘ってほしいと思うこともある」
「そんなこと、ん……っ」
無理だと告げる前に口づけられた。啄むように何度か角度を変え、そのまま舌を絡める深い口づけへと変わる。その舌がするりと上の歯を舐めた。まるで何か確かめるように何度も舌が動く。
「んっ」
「まだ牙はないな」
旅に出てからというもの、口づけるたびにヴァイルは上の歯を舐めるようになった。しかしシュエシの歯は以前のままで牙が生える気配はない。もしかして自分は化け物になり損ねているのではないかと指摘されるたびに不安になった。
「不安がる必要はない。わたしが焦っているだけだ」
「ヴァイルさまが……?」
なぜ焦っているのだろう。むしろ焦っているのは自分のほうだ。このままちゃんとした化け物になれないのではないかと思うと胸が苦しくなる。俯いたシュエシの頬をヴァイルの手が優しく撫でる。
「まだ空腹も感じないか?」
「……はい」
「そうか」
顔を上げると、いつもと変わらない黄金色の瞳があった。だが、それがかえって不安を煽る。
「空腹を感じないのはおかしいんですか?」
「どうした?」
「ずっと気になってたんです。それに牙のことも……」
もしちゃんとした化け物になれなければそばにいられなくなる。せっかく故郷に向かっているのに離れ離れにされたらどうしよう。シュエシは眉尻を下げながらすがるように黄金色の瞳を見た。
「心配することはない。おまえはわたしの眷属だ。それは間違いない」
「でも……」
「そうだな。おまえはただの眷属ではない。花嫁には話しておくべきだろう」
ヴァイルの手が背中に回った。そうして「座ろう」とソファに促される。
「おまえは吸血鬼の眷属となった。それはわたしと同じように血を求める化け物になったということだ」
「はい。それで、空腹というのは……」
「血を求めるということだ」
言われてハッとした。そうだ、空腹と言われてつい食事だと思っていたが、化け物となった自分が口にするのはヴァイルと同じ血だ。
「僕は、血を……飲みたいとは思ってません」
「牙もまだということは、そのときがきていないということだろう」
「僕にも牙が生えるんですか?」
「血を得るためには牙が必要だ。わたしの牙を何度となく受けているだろう?」
言われて体が熱くなる。ヴァイルに血を求められるのは肌を重ねているときがほとんどだ。首筋を噛まれる感触と同時に体の深い場所を穿たれる感覚を思い出し、体が疼くように熱を持つ。
「牙がない僕は……」
「そのときがきていないだけだ。血を求めるようになるまでどの程度の時間がかかるかは個体差がある。おまえは時間がかかる体なのだろう。それは理解している。ただ……」
黄金色の瞳がわずかに細くなった。
「眷属の中には、最初に口にした血を極上だと感じる者がいる。中には最初に口にした血しか受けつけなくなる者もいる」
ヴァイルがスッと目を閉じる。そうしてゆっくりと開いた。
「おまえが見た夢の中にドレス姿の夫人はいたか?」
「は、はい」
「彼女は父の眷属だ」
「え……?」
「母が西の国に戻ったあとに眷属にした女だ。おまえと同じ立場ということになる」
言葉が詰まった。夢で見た光景を思い出し胸がグッと重くなる。
「彼女が初めて口にしたのは父の血だった。そして父の血以外、口にできなくなった。人の血はもちろん、試しに与えてみたわたしの血もすぐに吐きだした」
黄金色の瞳がシュエシを見た。
「なぜ最初に与えられた血しか受けつけなくなったのかはわからない。ただ、そうした眷属がいるという話は聞いたことがある。おそらくそうした者が一定数いるのだろう。そして彼女がそうだった。彼女のことを思い出すと、おまえもそうなるのではないかと思ってしまう」
「僕が、ですか?」
「そうだ。だからこそ初めて口にするのはわたしの血でなくてはならない」
ヴァイルの親指がシュエシの唇を撫でた。そのまま指先で唇を割り、牙が現れるあたりを撫でる。
「このあたりに牙が現れる」
「んっ」
「だが、まだその兆候は見られない」
撫でていた親指が離れていく。
「普段は現れないが空腹を覚えると現れる。興奮したときもだ」
興奮したときと言われハッとした。肌を重ねながら口づけるとき、いつも硬く鋭いものが唇に触れた。ただし触れるのは一瞬で、てっきりヴァイルの歯だとばかり思っていた。しかしあれは牙だったに違いない。
(だから触れるだけだったんだ)
行為の最中、ヴァイルは深い口づけをしなかった。どうしてだろうと思っていたが、自分の唇や舌に傷を付けないためだったのだとわかり胸が熱くなる。
(そんなの、気にしなくていいのに)
自分のすべてはヴァイルのもので、たとえ傷つけられてもかまわない。もし我慢しているのなら気にせず貪ってほしい。
「ヴァイルさま」
名前を呼びながら美しい顔に手を伸ばす。いつも甘美な快感を与えてくれる唇を指でなぞりながら「気にしないでください」と囁いた。
「何がだ?」
「牙で唇や舌が傷ついても僕は平気です。だから気にしないでください。それに……」
黒髪に紅色の艶がチラチラと見え隠れする。ヴァイルを見つめる顔はうっとりととろけ、黒目にはわずかな情欲の色がちらついていた。
「僕はいつでもヴァイルさまと深い口づけをしたいです」
そう言ってシュエシが身を乗り出した。カツンと歯をぶつけながら唇を合わせ、もっとと言うように首に腕を回す。熱心に口づけるシュエシの鼻を薔薇の香りがくすぐった。ふわりとしていた香りが少しずつ濃くなっていく。
(ヴァイルさまの香りがする)
濃密な薔薇の香りはヴァイルが放つものだ。シュエシは旅の中でそのことに気がついた。そして香りを漂わせるときは興奮しているときだということにも知った。だから薔薇を盗みに来た男たちと遭遇したときも薔薇の香りがしたのだろう。あのときは息苦しいほどの香りだったが、肌を合わせるときは優しくうっとりするような香りが漂う。まるで髪の手入れに使う香油のように華やかで、シュエシの身も心もとろけるような芳しさだ。
(……これが、ヴァイルさまの牙)
唇に硬く鋭いものが触れた。きっと牙に違いない。自分の拙 い口づけに興奮してくれたから現れたのだ。シュエシは体を熱くしながら牙に舌を這わせた。
「んっ」
チリリとした痛みを舌の端に感じた。おそらく牙の先端が当たり傷がついたのだろう。それでも口づけを続けた。傷ついた舌で愛しい牙を何度も舐める。
「……まさか、牙を愛撫されるとは思わなかったぞ」
唇が触れる距離でそう囁いたヴァイルは「いやらしい花嫁だ」と囁き、期待に震える首筋に鋭い先端をあてがった。
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