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24 眷属
ヴァイルが用意した馬車はすこぶる乗り心地がよかった。小さな穴が空いているような道も小石が転がっているような場所も、大きく揺れることなく順調に進んでいく。乗合馬車しか知らなかったシュエシは、流れるように進む馬車と外の景色に感動しきりだった。
いまもシュエシの黒目は麦畑が続く窓の外を眺めていた。収穫直前の畑は夕焼けで金色に光り、遠くには麦を保管する小屋や粉挽きに使う風車が見える。不意に目の端に眩しいものを感じた。視線を向けると、備え付けの棚に置かれたランプにヴァイルが明かりを灯したところだった。このランプは馬車がいくら揺れても倒れないようになっていて、旅を始めた頃は夢中になって眺めたのを思い出す。
ランプの奥には小さな窓があり、その先に馬車を操る馭者 の男が見える。彼も生きている使用人だが声を聞いたことがない。宿に泊まるときも馬車に留まり、いつの間にか別の男に変わっていることもあった。
「今回宿泊するのはあそこだ」
窓の外をヴァイルが指さした。視線を向けると、麦畑の先に大きくて立派な屋敷が見える。ヴァイルが使う宿はいずれも貴族専用なのか、丘の上にあった屋敷のように立派なところばかりだ。そうした宿に泊まることが多いものの、たまに馬車の中で一夜を過ごすこともある。
(馬車の中にベッドができるなんて、初めて見たときは驚いた)
ヴァイルが「寝泊まりができるように折りたためる台座も取りつけた」と言ったとおり、台座を出すと寝ることもできた。そこに布を敷いて二人で横になる。ただし、寝る以外のことは何もしない。
(……少しだけ、期待してたんだけどな)
浮かんだ言葉に顔が熱くなった。ヴァイルは「花嫁を十分に可愛がることができる」と言っていたが、実際そんなことをしたことは一度もない。
(さすがに馬車の中でなんて、するわけないか)
なんて恥ずかしいことを考えてしまったのだろう。シュエシが顔を赤くしている間に宿である屋敷に到着した。
泊まるのは離れになっている建物らしく、周囲に人の気配はない。部屋に入ると「ここには三日滞在する」とヴァイルが告げた。部屋は丘の上にあった屋敷で過ごしていたのと同じくらいの広さで、覗いた寝室には天蓋付きのベッドまである。その奥には湯浴みをする場所も見えた。
居間に戻るとヴァイルが窓の外を眺めていた。ただ立っているだけだというのに見惚れるほど美しく、気がつけば視線が釘付けになっている。
「どうした?」
「え……? あ、いえ、なんでもないです」
振り返った顔にドキッとした。いまだに見つめられるだけで顔が赤くなる自分が気恥ずかしく、そっと顔を逸らす。そんなシュエシに近づいたヴァイルが顎を掴みクイッと持ち上げた。
「相変わらず初々しい反応だ」
「……ヴァイルさまは意地悪です」
「意地悪か。言うようになったな」
「だって……」
「かまわん。言いたいことがあれば言えばいいし、おまえはそのままでいい」
「……はい」
「とはいえ、たまにはおまえから誘ってほしいと思うこともある」
「そんなこと、ん……っ」
無理だと告げる前に口づけられた。啄むように何度か触れる角度が変わったかと思えば、そのまま舌を絡める深い口づけへと変わる。その舌がするりと上の歯を舐めた。何かを確かめるように何度も舌で擦られる。
「んっ」
「まだ牙はないな」
旅に出てからというもの、口づけるたびにヴァイルは上の歯を舐めるようになった。牙が生えていないか確かめているようだが、どの歯も以前のままで変わったところはない。
(もしかして、僕はちゃんと化け物になれていないんじゃ……)
何度も確かめられているからか、段々と不安になってきた。
「不安がる必要はない。わたしが焦っているだけだ」
「ヴァイルさまが……?」
なぜ焦るのだろう。むしろ焦っているのは自分のほうだ。このまま同じ化け物になれないのではないかと思うと胸が苦しくなる。俯いたシュエシの頬をヴァイルの手が優しく撫でた。
「まだ空腹は感じないか?」
「……はい」
「そうか」
顔を上げると、いつもと変わらない黄金色の瞳が自分を見つめている。だが、それがかえって不安を煽った。
「もしかして、空腹を感じないのはおかしいことですか?」
「どうした?」
「ずっと気になってたんです。それに牙のことも……」
もしちゃんとした化け物になれなければそばにいられなくなる。せっかく故郷に向かっているのに離れ離れにされたらどうしよう。シュエシは眉尻を下げながらすがるように黄金色の瞳を見た。
「心配することはない。おまえはわたしの眷属だ。それは間違いない」
「でも……」
「……そうだな。おまえはただの眷属ではない。花嫁には話しておくべきだろう」
ヴァイルの手が背中に触れた。そうして「座ろう」とソファに促される。
「おまえは吸血鬼の眷属となった。それはわたしと同じように血を求める化け物になったということだ」
「はい。……もしかして、空腹というのは……」
「血を求めるということだ」
そうだ、自分は血を啜る化け物になったのだ。空腹と言われてつい食事だと思っていたが、そうではないことにようやく気がついた。
「僕は……血を、飲みたいとは……」
血を欲していない自分は化け物になり損なったのだろうか。膝に置いた手をギュッと握り締める。
「牙がまだということは、そのときがきていないということだろう」
「……僕にも牙が生えるんですか?」
「血を得るためには牙が必要だ。わたしの牙を何度となく受けているだろう? ああしたものがおまえにも生えてくる」
ヴァイルの言葉に血を啜られるときのことを思い出したシュエシは、体がカッと熱くなるのを感じた。ヴァイルに血を求められるのは肌を重ねているときがほとんどで、どうしてもそのときの感覚が蘇ってしまう。
血を啜られる前、首筋を優しく撫でられてから噛みつかれる場所に口づけられる。そうして体が火照ったところで噛まれた。同時に体の深くを穿たれていることを思い出し、体が疼くように熱を上げる。熱くなった体を持て余しながら「牙がない僕は……」とつぶやいた。
「そのときが来ていないだけだ。血を求めるようになるまでどの程度の時間がかかるかは個体差がある。おまえは時間がかかる体なのだろう。それは理解している。ただ……」
言葉が止まったのを不思議に思い、ちろっと隣を見た。黄金色の瞳がわずかに険しくなっている。
「眷属の中には、最初に口にした血を極上だと感じる者がいる。中には最初に啜った者の血しか受けつけなくなる場合もある」
ヴァイルが一瞬目を閉じた。何かを考えるような仕草を見せた後、ゆっくりと黄金色の瞳が姿を現す。
「おまえが見た夢の中にドレス姿の夫人はいたか?」
「は、はい」
「あれは父の眷属だ」
「え……?」
「母が西の国に戻ったあとに眷属にした女だ。おまえと同じ立場ということになる」
言葉が詰まった。夢で見た光景を思い出し胸がグッと重くなる。
「あれが初めて口にしたのは父の血だった。その後、父の血しか口にできなくなった。人の血はもちろん、試しに与えてみたわたしの血もすぐに吐きだした」
黄金色の瞳が物憂げに細くなる。
「なぜ最初に与えられた血しか受けつけなくなったのかはわからない。ただ、そうした眷属がいるという話は以前から聞いていた。おそらくそうした者がこれまでも一定数いたのだろう。そしてあれが、父の眷属がそうだった。そのことを思い出すたびに、おまえもそうなるのではないかと思ってしまう」
「僕が、ですか?」
「そうだ。だからこそ初めて口にするのはわたしの血でなくてはならない」
ヴァイルの親指がシュエシの唇を撫でた。そのまま指先で唇を割り、牙が現れるあたりを撫でる。
「このあたりに牙が現れる」
「んっ」
「だが、まだその兆候は見られない」
撫でていた親指が離れていく。
「普段は人と同じ状態だが、空腹を覚えると現れる。興奮したときもだ」
興奮したときと言われてハッとした。肌を重ねながら口づけるとき、いつも硬く鋭いものが唇に触れていた。ただし触れるのは一瞬で、てっきりヴァイルの歯だとばかり思っていたがあれが牙だったに違いない。
(だから触れるだけだったんだ)
行為の最中、ヴァイルが深い口づけをしようとしないのが不思議だった。自分の唇や舌に傷を付けないためだったのだとわかり胸が熱くなる。
(そんなの、気にしなくていいのに)
自分のすべてはヴァイルのものなのだから傷つけられてもかまわない。もし我慢しているのなら気にせず貪ってほしい。
「ヴァイルさま」
名前を呼びながら美しい顔に手を伸ばした。いつも甘美な快感を与えてくれる唇を指でなぞりながら「気にしないでください」と囁く。
「何がだ?」
「たとえ牙で唇や舌が傷ついたとしても、僕は平気です。だから気にしないでください。それに……」
黒髪に紅色の艶がチラチラと瞬き始める。ヴァイルを見つめる顔はうっとりと蕩け、黒目にはわずかな情欲の色がちらついていた。
「僕はいつでもヴァイルさまと深い口づけをしたいです」
そう言ってシュエシが首をぐんと伸ばした。カツンと歯をぶつけながら唇を合わせ、もっとと言うように首に腕を回す。熱心に口づけるシュエシの鼻を薔薇の香りがくすぐった。最初はほんのりとしていた香りが段々と濃くなっていく。
(ヴァイルさまの香りだ)
濃密な薔薇の香りはヴァイルが放つものだ。旅の中でそのことに気がついた。屋敷の庭で男たちに遭遇したとき、どこからともなく薔薇の香りがしたのもヴァイルの香りだったのだろう。
あのときは憎しみに満ちた興奮だからか息が苦しくなるほどの香りだった。だが、いまは違う。濃密ながらもうっとりと夢見心地になる優しさと甘さを含んでいた。
(……あぁ、段々と香りが強くなってきた。ヴァイルさまも興奮しているんだ)
幸せを与えてくれる香りの中に、背中を痺れさせるような独特の甘いものが混じっている。その香りを嗅ぐだけで体のあちこちに淫らな熱が生まれた。
(……これが、ヴァイルさまの牙)
唇に硬く鋭いものが触れている。自分の拙 い口づけに興奮してくれたから現れたのだと思うと、どうしようもなく興奮した。たまらない気持ちに胸を振るわせながら牙に舌を這わせる。
「んっ」
チリリとした痛みを舌の端に感じた。おそらく牙の先端が当たって傷がついたのだろう。それでもシュエシは口づけを続けた。傷ついた舌で愛しい牙を何度も舐める。
「……まさか、牙を愛撫されるとは思わなかったぞ」
唇が触れる距離でそう囁いたヴァイルは「いやらしい花嫁だ」と囁き、期待に震えるシュエシの首筋に鋭い先端をあてがった。
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