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閑話 人質の姫となった王子
キライトが覚えている一番古い記憶は、綺麗な女の人が口から血を吐いて倒れている姿だった。その女の人は自分と同じ銀色の髪をしていて、薄く開いた瞳は右目と同じ淡い碧色をしていた。
その人が母だということを知ったのは、少し大きくなってからだった。いや、“知った”のではなく“思い出した”のだ。
キライトは、気がついたときには一人きりだった。食事や入浴のときにはシュウクがいるものの一日のほとんどは一人で、そんな一日の大半は本を読んで過ごしていた。簡単な文字はとても小さい頃に覚えていて、難しい言葉は本を読みながら、入浴中にシュウクに教えてもらいながら、たくさん覚えた。
キライトが過ごす部屋には少しの家具しかない代わりに、本だけはあふれんばかりに置かれていた。シュウクから、ここが「書庫」と呼ばれていた部屋だったということを聞いた。
（しょこにまどがないのは、ごほんを、いためないため）
ふと、何かの本に書いてあったことを思い出した。キライトの知識のほとんどは、部屋にある本から得たものだった。中には難しくて意味がわからない本もあったけれど、それらを読むことしかキライトにできることはなく、外の世界に触れる機会も方法もなかった。
そんな一人きりの生活を送るキライトの元に、ある日男の人がやって来た。初めて見たその人は、何か難しいことをずっと話している。普段シュウクと簡単で短い会話しかしないキライトには、男の人が何を話しているのかうまく聞き取ることができなかった。
延々と話をしていた男の人が、急にキライトの腕をつかんだ。他人に触られることがほとんどないキライトは、やけに熱い感触に恐怖と気持ち悪さを感じた。
「やだ……」
離してほしくて声を出したけれど、男の人はニヤニヤ笑うだけで腕を離そうとはしない。ますます怖くなったキライトが口を閉じれば、今度はソファまで引きずるように連れて行かれ、そのままドンと突き飛ばされた。驚きのあまり目を見開くと、男の人が覆い被さるようにのしかかり、キライトはさらに驚いた。
「なるほど、美貌で有名だった亡き妃殿下によく似ておられるな。それにこの瞳、たしかに珍しい。まさに魔性の目そのものだ……」
男の人の言葉を聞いた直後、キライトは血を吐いて倒れている銀髪の綺麗な女の人のことを思い出した。
（……あのひと、は、……ははうえ、）
唐突に蘇った記憶に引きずられるように、あのとき抱いた感情がキライトの中にブワッとあふれ出した。
驚きと衝撃、見たものを理解できない気持ち、得体の知れない不安、よくわからない恐怖――噴き出した感情は小さな体を震わせ、瞳を潤ませ、それがのし掛かる男の劣情をより一層煽ることになった。
それから後のことは、よく覚えていない。気がついたらベッドで寝ていて、そばには心配そうな顔をしたシュウクがいた。
「大丈夫です。服が少し破れただけで、あぁ、頬はしばらく冷やしておかないと」
左の頬に、ひんやりするものが触れる。自分を見るシュウクの顔がいつもと違うように見えたキライトは、怖くなってギュッと目を閉じた。
そのあとも、何度も知らない男の人たちが部屋にやって来た。皆キライトの理解できない話をして、頭や体を撫でたりした。
怖さと気持ち悪さに目を瞑ると、皆「目を開け」と言った。それが嫌で首を振ると、頬に鋭い痛みが走る。痛みと恐怖、それに理解できない状況に、キライトの意識はすぅっと真っ暗になった。
そうして次にキライトが気がつくと、いつもベッドに寝ていた。傍らに心配そうな顔をしたシュウクが座っているのも同じだった。
どうして自分が寝ているのか、キライトにはわからなかった。部屋にやって来る男の人たちが誰なのか、何を話しているのかもわからなかった。ただ、体のあちこちを撫で回す熱い手の感触だけははっきりと覚えていて、それがどうしようもなく怖くて気持ち悪かった。
同じくらい、キライトには怖いと思うことがあった。それは男の人に触られたとき、どうしてか倒れている母を思い出してしまうことだった。母のことを思い出すと、あのとき感じたものがどんどんあふれてくる。あまりに強烈な感情に体は震えるばかりで、そうなってしまう母の記憶がとてつもなく恐ろしかった。
（……そうだ。思い出すから怖いのなら、思い出さなければいいんだ）
少し大きくなったキライトは、母のことを思い出さなくて済む方法を考えるようになった。
思い出すのは、きまって知らない男の人たちに触られるときだ。男の人に触られるのが怖くて、同じくらい気持ち悪くて、そうすると母のことを思い出してますます怖くなる。
「じゃあ、気持ち悪いとか、思わないようにすればいいんだ」
自分の発した言葉に、キライトはこれだと思った。
それからのキライトは、怖いとか気持ち悪いとかを考えないように努めた。そのうち、何かを感じるからいけないのだと思うようになった。
「じゃあ、何も感じないようにすればいいってことだ」
キライトは、すべての感情を押し殺すようになった。何も感じないように過ごすことだけを考えた。
そのうち、楽しいだとかうれしいだとかも感じなくなっていった。唯一の楽しみだった読書も、ただ知らない知識を得るだけの作業になった。柔らかな黒猫の体を撫でても、ただ柔らかくて温かいと思うだけになった。
そうして過ごしている間に、何度か部屋を移動することがあった。部屋を移ったあとも男の人たちがやって来たけれど、もうキライトが怖いと思うことはなかった。ただギュッと目を瞑り、次に目が覚めたときにはベッドの中で、そばにシュウクがいる日常をくり返すだけだった。
そうして何度も住む場所が変わり、ついには城から出て遠い場所に行くことになった。城の外に移ってからは男の人たちが現れることはなくなったけれど、キライトがそれに何か思うことはなかった。
城の外に出て何年か経ったある日、迎えだという人たちがやって来た。外に連れ出され、何日も馬車に乗ってたどり着いたのは、最初に住んでいた城だった。キライトはこのとき初めて、父だという人に会うことになった。
連れて行かれた広い部屋には、父だという人以外は誰もいなかった。その父も、少し高いところにある椅子に座ったきりで何も言わない。ただじっとキライトを見据えるだけだった。
（…………こわい）
キライトは、久しぶりに怖いという気持ちを感じた。内側から冷えていくような寒気にカタカタと体が震え、やけに喉が渇いてどうしようもなかった。
そうしてただじっと見据えるだけだった父という人が、たったひと言口にしたのが「人質の姫としての役目を与える」だった。人質の姫――それが父である国王から初めてキライトに課せられた役目だった。
役目を与えられたキライトは、自分の国とアンダリアズ王国との関係が書かれた歴史書をたくさん読んだ。そこで、自分に課せられた役目がとても重要だということを知った。
もし自分が何か問題を起こしたりすれば――たとえば男であることが露呈したり伴侶になる人の機嫌を損ねたりしてしまえば、この国はきっと罰を与えられるだろう。もしかすると、誰かが危ない目にあうかもしれない。
（……シュウクたちが、危険な目に、あうかもしれない）
キライトの心に、わずかな感情が蘇った。ずっと一緒にいてくれたシュウクや仲良くなった猫たち、小さい頃お菓子をくれた母の侍女たちが大変な目にあうのは嫌だ。
キライトは、人質としての役目を全うしなければと考えた。余計なことを言わず、余計なことをしない人質でなければいけない。もともと視界はぼんやりとしたもので、周囲の声も遠いもののように感じていたキライトには、人質としてただそこにいることしかできないというのが正直なところでもあった。
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キライトはメイリヤ姫という新しい名を与えられ、大国アンダリアズへと送られた。荷物はごく少なく、侍女一人も付けられず、たった一人捨てられるかのようにアンダリアズ王宮へと置いて行かれた。
城で過ごしていたような部屋で暮らすようになって少しすると、シュウクがやって来た。はじめはシュウクだと気づかないときもあったけれど、毎日姿を見て声を聞くうちに、一人きりの部屋に唯一いたあのシュウクだということがはっきりわかるようになった。
そのうち、頻繁に目に映る人がもう一人増えたことに気がついた。その人はアンダリアズ王国の王子で、自分の――メイリヤ姫の伴侶だという人だった。
はじめは王子の顔がよくわからなかった。声もなんとなくしかわからなかった。けれどシュウクが来て、猫が来て、毎日王子の姿を見るようになると、ようやくはっきりと判別できるようになった。
キラキラした金色の髪の毛は、たぶん太陽の色。
緑色の目は、たしか原っぱの色。
キライトは、アンダリアズ王国に来るときに少しだけ見た景色を思い出した。それから、王子がミティアスという名前だということを覚えた。
ミティアス王子は珍しいものをたくさん持ってきた。その中でキライトの目に留まったのは“燈火 ”だった。硝子でできたそれは、遠い昔、綺麗な女の人――母が持っていた首飾りのようにキラキラ光り、目が離せなくなった。
小さい頃、母の膝に乗ったときに必ず目に入ったその首飾りはとても綺麗で、母が大事にしていたことは何となく覚えている。それに似た硝子の燈火 のことが、キライトは気になって仕方がなくなった。
そのうち、燈火 やいろんなものを持ってくるミティアス王子のことが気になるようになった。誰かのことが気になったのは、キライトにとって初めてのことだった。
「ミティアス様は、……あたたかい」
この人は温かくて優しい。そう思ううちに、心の奥に仕舞ってあった母のことを少しだけ思い出すようになった。タータイヤにいたときは母のことを思い出すのが怖かったのに、いまはそこまで怖くない。少しだけホッとして、少しだけ淋しくなる。
（……淋しい、んだ）
キライトは、久しぶりに淋しいという気持ちを感じたような気がした。
そう思ったら、別の気持ちもあちこちから出てくるようになった。小さな泡のようなものがフツフツと湧いてきて、それがパチン、パチンと弾けていくような感じがする。弾けた泡の向こう側に見えるのは、金色の髪と緑色の目をした優しい笑顔だった。
「ミティアスさま」
一緒に寝ている綺麗な顔を見ながら小さく小さく声に出した名前に、どうしてかキライトの心臓がトクンと反応した。
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