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番外編 麗しき侍従と苦労性の護衛側近

 花茶の新しい木箱を開けながら、シュウクは「ふぅ」と小さくため息をついた。原因は今朝方見た夢で、夢の中では主人(あるじ)も自分もまだ石造りの砦でひっそりと暮らしていた。 (なんて縁起の悪い)  思い出すだけでぶるりと体が震える。  花茶の茶葉をポットに移しながら、主人(あるじ)と共に過ごしている部屋を見渡した。タータイヤの王城や砦で過ごした部屋と同じで窓がないながらも、あちこちに硝子の燈火(ランプ)が置かれているからか華やかに見える。すべて主人(あるじ)の伴侶となった大国の王子が揃えた物だと思うと、なんとも微笑ましく思えた。 「ミティアス殿下は、思ったよりも可愛らしいお方のようだ」  側近のダンと親しく話す様子を見たときにもそう思ったが、恋愛に関してもどうやらそうらしい。ダンが言うには「これまで本気の恋をしたことがないのだ」ということで、色恋をまったく知らない主人(あるじ)との距離感にも戸惑っているように見える。 「けれど、そろそろ本当の伴侶になっていただかなくては」  主人(あるじ)からは、はっきりと慕っているという気持ちを聞くことができた。もっと触れ合いたいという欲求を抱いていることもわかった。閨教育は受けていないものの、自分の体の変化には気づいているようでもあった。  それならば、あとは伴侶の手で導いていただくのが一番よい……シュウクはそう考えていた。侍従としては少々手荒な方法かもしれないが、二人がたしかな絆で結ばれなければ本当に安心することはできない。 「ミティアス殿下には、身も心も我が主人(あるじ)の虜になっていただかなくては」  そうすれば、今後決して手放そうとは考えないだろう。何があっても主人(あるじ)を手元に置こうとするに違いない。もしかすると、“捕リ篭(とりかご)”と呼ばれているこの部屋から主人(あるじ)を連れ出してくれるかもしれない。 「アンダリアズ王国の王子なら、そのくらいは造作もないことのはず」  すべては主人(あるじ)であるキライトのためであり、キライトが望むことは何としても叶えたいとシュウクは思っていた。 「これまで何もして差し上げられなかった殿下のためなら、わたしは何でもしましょう」  ポットに注いだ湯の中で漂う花茶の花びらを見ながら、シュウクはもうすぐ昼寝から起きて来るであろう主人(あるじ)に思いを馳せた。 ・・・  恋に手慣れているミティアスならうまく導いてくれるに違いないとシュウクは考えていたが、思わぬ誤算があった。なんと、ミティアスがキライトと少しばかり距離を取り始めたのだ。  シュウクは、キライトから「キスをした」と聞いていた。自分がダンの唇を奪ったのを見られたときにはどうしたものかと思ったが、結果的にはよい方向へ向かったのだと安堵していた。それなのに、まさかミティアスのほうが距離を取るとは考えもしなかったのだ。  何も知らないキライトを怖がらせないようにという、ミティアスなりの気遣いかもしれない。しかし周囲の感情に敏感なキライトは、案の定誤解をしてしまった。これではミティアスと結ばれる前に、再び心を閉ざしていまいかねない。ようやく笑みを浮かべるようになったキライトが、また以前のように表情をなくしてしまうかもしれない。 (あのような殿下をまた見るのは、耐えられない……)  シュウクは、乱暴だとわかっていながらミティアスを焚きつけることにした。「自分のことを好きではなくなったのでは」と悲しみながらもミティアスの手を待っている主人(あるじ)のため、暴言とも取れる言葉を口にした。そんなシュウクの言葉を、ミティアスはじっと受け止めた。 「……申し訳ない。僕は、……いまも昔も、自分のことばかりだな。殿下のことが本当に大好きなのに、こんなに想ったのは、初めてなのに」  その言葉と表情に、シュウクはミティアスの気持ちが間違いなく主人(あるじ)に向いていることを確信した。それなのに臆病な様子を見せるのは、本当に主人(あるじ)を思っているからだろう。 (やはり、殿下にはこの方しかいらっしゃらない) 「そのお言葉は、直接キライト殿下にお伝えください」  美しい緑眼が主人(あるじ)のいる部屋へと向けられる。その目には、わずかに焦燥のようなものが見て取れた。それがミティアスの中にある真摯な葛藤だと受け取ったシュウクは、大丈夫だと自らに言い聞かせた。 「……いいのか?」 「はい。キライト殿下もお待ちだと思いますので。……どうか、良きように導いてくださいませ」  そう言って主人(あるじ)の伴侶を見送ったシュウクは、今日はもう二人とも出て来ないだろうと予想し、前室に控えている側近にそのことを伝えに行くことにした。  前室へ続く扉を開いたシュウクは、そこに思っていた人物の姿がないことに疑問を抱いた。いつもならミティアスが主人(あるじ)と会っている間、側近であるダンはこの前室に控えている。それなのになぜかダンの姿はなく、代わりに何度か見たことのある騎士が大きな木箱を持って立っていた。騎士は帯刀しているものの軽装備は身につけておらず、警備のために前室にやって来たようには見えない。  たまたま荷物の運び込みを手伝っているのだろうか。それにしては、いつも出入りしている侍女たちの姿が見当たらない。ミティアスから大きな荷物が届くとは聞いていないが、自分の発言のせいで言い忘れたのだろうか……そんなことを思いつつ、シュウクが口を開いた。 「……あの、ダン殿は?」 「所用ができたとのことで、不在にしています」 「そう、ですか……」  騎士の言葉に違和感が芽生える。  シュウクの知る限り、ダンは普段の気さくな雰囲気とは違い職務には厳しい男だ。主人(あるじ)であるミティアスがまだ“捕リ篭(とりかご)”にいるというのに、控えておくべき前室を個人的な理由で離れるとは考えにくい。もし離れなければいけない出来事があったのなら、自分にひと言告げるはずだ。  一体どうしたのだろうと思い、ダンの行き先を尋ねようとシュウクが騎士に視線を向けたときだった。  ガタン!  大きな木箱が音を立てて床に置かれた。いや、半分放り出されたと言ったほうが正しいかもしれない。なんと乱暴なと騎士を見ると、騎士のほうもシュウクをじっと見ていた。 「……何か?」  ダンよりも濃い碧眼が自分をじっと見ている。なんとも言えない眼差しにゾワリとしたものが背筋を伝った。そう感じた瞬間、シュウクは“捕リ篭(とりかご)”へ戻るべく足を動かした。しかし、それより先に騎士の手がシュウクの腕をつかんだ。 「なにを、」 「男にしては細い腕だな」 「……!」  つかまれた腕を引き寄せられ、抱きしめられそうになる。逃れようとシュウクは身をよじったが、逆に壁際に追い詰められ騎士と壁の間に捕らわれてしまった。 「そこら辺の貴族令嬢より、おまえのほうがよっぽど美人だ。……たまらないくらいにな」  騎士の言葉にギョッとするとともに、シュウクの脳裏にかつての出来事が蘇った。  シュウクの母の生家は、曾祖父の代まで遡ると王族に連なる家柄だった。貧乏ではあったが家柄だけはよく、その縁で母は伯爵家に嫁ぐことになった。そこで生まれたのがシュウクだったが、周囲から伯爵家子息として可愛がられたのは三歳を迎える頃までだった。  少し成長したシュウクは、幼子らしからぬ整った顔立ちから大いに注目を浴びた。成人を迎えるのは十年以上先だというのに、あちこちの貴族から縁談を申し込まれるほどだった。  その程度なら、まだよかったのかもしれない。五歳になった頃には、伯爵家を訪れる大人たちから劣情を向けられるようになった。どこかへ出掛ければ攫われかけ、王城に行けば王族に手込めにされかけた。  あまりの状況に、ついには伯爵家から母共々追い出されることになってしまった。最後に父に会ったときに言われた「王族の余計な血を引いたな」という言葉は、その後もシュウクの中にずっと残り続けた。  そうして嫁ぎ先を追い出され、生家からも見捨てられた母子に手を差し伸べたのが後の王太子妃となる女主人だった。幼い頃にシュウクの母と女主人が仲良くしていた縁での巡り合わせだった。  それから三年余りの後、王太子に嫁いだ女主人は一人の男児を生んだ。それがキライトだ。  八歳を過ぎていたシュウクは左右の瞳の色が違う王子を見たとき、父に言われた「王族の余計な血を引いたな」という言葉を思い出し、王城に来てから知った“魔性の目”の伝承を思い出した。 「この王子は、自分のようになるかもしれない」  そう思ったシュウクの予感は的中し、生母を亡くした幼いキライトは、大勢の大人たちの劣情に晒されることになった。同じように、王子に仕えていたシュウクにも情欲の手は伸びた。  軟禁状態のキライトを守りながら、シュウクは己自身も守らなくてはいけなくなった。それが仕えていた王太子妃の後を追った母との最後の約束だったからだ。 「必ずや殿下をお守りしなさい。一生をかけておそばに仕えお守りすることが、おまえの務めです」  母の言葉には、「周囲を惑わすおまえは誰とも思い合ってはならない」という意味も含まれていたに違いない。そう解釈したシュウクは、十二歳を迎える前に三歳の主人(あるじ)に一生仕える決意をした。キライトと共に軟禁されるのなら、誰とも思いを交わすことがないだろうと思ってのことでもあった。 「これだけの美人だ、タータイヤでもさぞかし多くの男たちを相手にしていたんだろう?」  シュウクは騎士の言葉にカッとなると同時に、胸を抉られるような悲しみに襲われた。 (どこにいても、そういう目で見られ続けるのか)  キライトと共に軟禁生活を送っていたとき、多くの貴族や王族から“出来損ないの魔性の目”と呼ばれ蔑まれた。同時に下劣な劣情を向けられ、何度も体を触られた。日用品などを運ぶ使用人に「具合を確かめてやる」と襲われかけたこともあった。  抵抗しても無駄だと悟ってからは、体を差し出す代わりに手や口を使って奉仕することを覚えた。あの時間はシュウクにとって地獄にも等しいもので、キライトの存在がなければ自死を選んでいたかもしれない。  そんな日々を送っていたある日、キライトがアンダリアズ王国へ人質として向かうことが決まった。アンダリアズ国王の末子の伴侶として迎えられることになったのだ。 (自分はついていけなくとも、ここよりはよい環境のはず……)  一生そばで仕えるという望みは叶わなくなったものの、シュウクは主人(あるじ)の行く末にわずかばかり安堵した。  その後、すぐさま自分もアンダリアズ王国に呼ばれ、普通の侍従として仕える毎日を送ることができるようになった。ここには自分を蔑み情欲のまま触れてくる者はいない。それどころか、自分を同じ仕える者として対等に見てくれる人物――ダンがいた。 (……だからわたしは、ダン殿に引かれたんだ……)  主人(あるじ)のことを一番に思いながらも、どうしようもなくダンに引かれた。自分を美人だと評しながらも、そういう目で一切見ないあの碧眼に焦がれるようになった。あれほど下劣な眼差しを嫌っていたはずなのに、ダンにはそういう目で見てほしいと思うようになった。  シュウクはここにいないダンを思いながら、壁に追い詰め腕の中に閉じ込めようとする目の前の騎士をキッと睨みつけた。 「わたしはミティアス殿下の伴侶に仕える者です。無礼なことをしないでください」 「ハッ、無礼ときたか! 所詮タータイヤの姫は人質だ。いずれは我が国に支配される小国の姫に仕えるよりも、未来ある王宮騎士に囲われるほうがよほどいいんじゃないか?」  騎士の物言いにシュウクの柳眉がキッと跳ね上がる。 「いかに人質であろうとも、正式に殿下の伴侶として迎えていただいたのです。王宮騎士という立場で、そのような言い様は無礼でしょう!」 「伴侶というのは形だけだ。あのミティアス殿下が人質の姫にご執心になるとは思えないな。いまは陛下のご命令か何かで通っているんだろうが、そのうち飽きられるだろうよ」 「なんと無礼な……っ」 「それに、おまえが仕える姫とやらは大層変わっているそうじゃないか。そんな姫に仕えるより、もっといい思いをさせてやると言っているんだ」  自分の上着に剣が触れるほど騎士近づいてきた。自分の身の危険よりも主人(あるじ)を侮辱されたことに震えていたシュウクだったが、ハッと気づき慌てて騎士の胸を押す。しかし軟禁状態にあった細腕の侍従の力で鍛え抜かれた王宮騎士の体を押しのけることはできず、両手首をつかまれ頭上に絡め取られてしまった。 「なんて細い手首だ。片手でまとめてつかめるじゃないか」 「離してください!」 「美人がキャンキャン吠えるのも悪くないな」  近づいてくる騎士から離れたくても、背中が壁にべったりついた状態のシュウクに逃げ道はない。それでも何とかしようと足を動かせば、今度は股の間に騎士の足が入り込んで動きを封じる。そうして動けなくなったシュウクにニヤリと笑った騎士が、空いているほうの手で腹の辺りを撫で始めた。 「……っ」 「おっと、初心な反応だな。それとも、立ったままってのは初めてか?」 「……!」 「どうせ美人に見つめられるんなら、そんな怖い顔じゃないほうがいいんだがな」  そんなことを言いながらも騎士の手はシュウクの上着の下に入り込み、ズボンの腰回りを締めている紐を引っ張った。 「なにを、」 「時間がないから、ちょっと味見するだけだ」 「やめっ、」 「一度イけば力も抜けるだろう? おとなしくなったら、箱に入れて運び出してやる」  騎士の言葉にギョッとした。先ほど床に乱暴に置いた大きな木箱は、自分を入れるための物だったのだ。  人を物のように扱おうとする騎士に吐き気がした。かつて主人(あるじ)を物のように扱っていた王族や貴族、タータイヤ国王を思い出し目の前が真っ赤になる思いがした。  それほどの怒りを覚えていても、いまのシュウクには反撃するすべがない。力で勝てない相手に押さえ込まれ、前をくつろげられたズボンの中に侵入する不快な手を拒むことすらできない。  あまりの状況に思わず目を閉じると、蔑むように笑った騎士の息が頬にかかりゾッとした。下穿きの上から急所を撫でられ、ますます吐き気が強くなる。 (こんな男に……わたしは……)  何もできないのはアンダリアズ王国でも同じなのだ。普通の侍従のように過ごせていたのは奇跡だったのかもしれない。主人(あるじ)の未来に光が見え、初めて焦がれる相手に出会えたというのに、結局自分はタータイヤにいたときと変わらないのだ――シュウクが悔しさと絶望に涙しそうになったとき、廊下に続く扉が音を立てて開かれた。 「何をしている」  聞こえてきた声に真っ先に反応したのは、シュウクを押さえつけていた騎士だった。バッと体を離すと、すぐさまピシッと立ち頭を下げる。 「副団長殿!」 「わたしはもう王宮騎士団には所属していないし、第一王宮騎士団の副団長でもない。それより、何をしているのかと聞いているんだが」  前室に入ってきたダンは、壁際で乱れた服のまま立ち尽くしているシュウクをチラッと見たあと、頭を上げた騎士に視線を向けた。 「これは、その……」 「何をしているのかと聞いている」  ダンの声が一段低いものに変わった。それに大きく反応したのは騎士で、グッと拳を握りしめながら緊張した声で返事をする。 「わたしはその、荷物を運んできたのですが、」  そこまで言ったところでダンの眼差しがなお厳しいことに気づいたのか、騎士が裏返った声で慌てて続きを述べた。 「この者に誘われ、自分を見失っておりました!」  突然の言葉に、シュウクは驚いて騎士を見た。それからゆっくりとダンへと視線を移す。優しい眼差しをしていることの多い碧眼は、シュウクが見たことのないような厳しい色に変わっていた。 「その男に誘われ、手を出していたと言うのか?」  ダンの言葉にシュウクはハッとした。まさか騎士の言葉を信じたのだろうか。そんなことはあるはずないと思いながらも、自分を一切見ないダンの様子に不安になる。  異国人の侍従よりも同国の騎士の言葉を信じたのだろうか。男を誘うような奴だと思ったのだろうか。そんな疑問が次々と湧いてくる。これではタータイヤにいたときと変わらないじゃないか……そう思った瞬間、目尻に溜まっていた涙がポロッと頬を伝った。 「間違いなくそうだと言えるか?」 「間違いありません! わたしはこの男に誘われ、我を忘れておりました!」  なおも自分の都合のいいように答える騎士に腹が立った。かつて自分に手を伸ばしてきた男たちの下卑た顔を思い出し、目の前が真っ赤になる。同時に、自分は変われないのだと胸の内が真っ黒になる思いがした。  主人(あるじ)の先に見える光は輝いていても、自分の目の前には蝋燭の明かりすらないのかもしれない――シュウクの頬に、もう一粒涙がこぼれる。  次の瞬間、部屋の空気がざわりと動いた。 「おまえもよく知っているだろうが、わたしは偽りを報告する部下をよしとしない」  ダンの低い声が張り詰めた部屋に響く。 「誉れ高い王宮騎士団において、上官に偽りを述べる部下は必要とされない」  拳を握りしめている騎士の両手がブルブルと震え出した。 「あまつさえ、偽りをもって上官を騙す輩に王宮騎士は務まらない。……ミティアス殿下宛ての急ぎの書状が届いていると伝えにきた侍女は、おまえから聞いたと話していたな」  腕だけでなく足までもガタガタと震え始めている。そんな騎士の頭から足下までゆっくりと視線を動かしたダンは、再び騎士の顔を見るとわずかに笑みを浮かべた。 「だが、わたしはもう副団長ではない。王宮騎士のあれこれについて咎める立場でも処罰する立場でもない」  ホッとするように騎士が息を吐き出す。それを見たダンは騎士に近づき、肩にポンと左手を置いた。 「いまのわたしはミティアス殿下の護衛側近だ。殿下の害になると判断したら、その場で処罰できる権限を持つ。騎士団長の采配を仰ぐ必要もなく、審議にかけることなく斬り捨てることもできる」 「……っ」 「俺の気が変わらないうちに出て行け。二度とこの部屋に近づくな。持ってきたろくでもない荷物も忘れるな」 「ひ……っ」  真っ青になった騎士は、慌てて大きな木箱を持ち廊下へと向かった。途中、何度もつまづきそうになったのはダンへの恐怖のためだろう。  閉まった扉の向こう側で遠のく足音を耳にしながら、シュウクはそっとダンを見た。そこには、わずかに眉尻を下げた壮年の騎士の姿があった。ゆっくり近づいてくるダンに、シュウクの顔がほんの少し強張る。 「おまえが誘ったなんて思っていない」 「……」 「キライト殿下のことを一番に考える侍従の鏡のようなおまえが、誰とも知れない男を誘うと考えるほど、わたしは愚かじゃない」 「……ダン殿」 「だから泣くな。……涙を見せられると、どうにも我慢できなくなりそうで困る」  そう言ったダンの無骨な親指が頬に触れ、涙を拭った。その感触に肌が粟立ち、目尻に触れられる心地よさにシュウクがそっと瞼を閉じる。 「……その格好で目を閉じるなんて、無防備すぎるぞ」 「あなたしかいないのだから、よいのです」 「…………はぁ」  ダンの大きなため息に、シュウクはそっと目を開けた。せっかく触れていた親指が目尻から離れたことを残念に思いながらも、どうしたのだろうかとダンを見つめる。 「ダン殿?」 「なんともそっくりな主人(あるじ)と侍従だと思ってな」 「そっくり?」 「こうして無意識に相手を試すところなんか、そっくりだろう?」  試してなんかいないと思いながらも、いつになく正直に気持ちを話すダンにうれしくなる。 「わたしだって、侍従であると同時に一人を思っているただの男です」 「それでも、侍従としての気持ちのほうが強い」 「それは……」 「それなのに、こうしてたびたびわたしを誘惑してくるなんてな」 「……それは……」  一番に考えるのは主人(あるじ)のことだが、ふとした瞬間に考えるのはダンのことだった。ダンも憎からず思ってくれているに違いないと考えるたびに体が熱くなり、どうしようもない夜を過ごすこともある。 (ミティアス殿下のことを言える立場じゃないな……)  侍従として主人(あるじ)に仕えながらも、隙を見てはダンに下心を持って接触してきた。どうすれば本当に慕っていることをわかってもらえるのかと、つい強引な手を使ったりもした。そういう自分を拒絶しないのにあと一歩のところで身を引くダンに、シュウクは何度も落胆してきた。 (距離感がつかめずにいたのは、わたしも同じだ)  だから強引にキスを仕掛けもした。それでもダンは揺れることなく、すぐさま従者としての顔に戻った。それが歯がゆくて仕方がなかった。 「侍従としては失格かもしれませんが、それでもわたしは……」 「あなたが好きなのだ」とは続けられなかった。これまでのダンの行動を思い出し、本当は受け入れてもらえないのではないかと思ったからだ。「尻に敷かれている」と称したのはミティアスだが、そんなことはまったくない。自分を受け流すダンの姿がそう見えるだけなのだとシュウクはわかっていた。 「別に従者が恋をしてはいけないなんて決まりはない」 「……そうですが、わたしは普通の従者ではありません」  人質に付き従う侍従は、祖国でもこの国でも厄介者と呼ばれる部類に入るだろう。シュウクは、自分の立場をよく理解していた。 「普通がどんなか、俺にはよくわからない」 「ダン殿……?」  普段とは違う「俺」という言葉に、シュウクが窺い見るようにダンの顔を見上げる。 「なにせ仕える主人はあのような御方で、普通なんて言葉とは無縁の生活を送ってきた。滅多に命じられることのない護衛側近という役目を担うことになり、普通の王宮騎士ですらなくなった。いまさらそんなことを気にしたりしない」 「……?」 「……はぁ。主人(あるじ)のことには(さと)いのに、自分のことはさっぱりか」 「あの、」 「第一にはミティアス殿下のことを考えているが、それ以外では俺もシュウク殿のことを考えているということだ」  ダンの碧眼が優しく細まる。普段とは違う表情に、シュウクの心臓がとくんと音を立てた。 「これまで(かわ)してばかりだったが、そろそろ必要なくなりそうだしな。それなら異国人の侍従に近づいたとしても、誰某(だれそれ)に疑われることも足元をすくわれることもなくなる。殿下に迷惑をかけることもない。それに、俺の我慢もそろそろ限界に近づいていたんだ」 「それは……」 「主人(あるじ)たちが結ばれるのなら、その従者同士が結ばれても問題ないだろう?」 「……!」  驚き目を見開いたシュウクの頬にダンの大きな手のひらが触れた。「え?」と驚いている間にダンの顔が近づき、髪と同じ金色の睫毛を認識した瞬間、シュウクの唇に温かいものが触れた。  ゆっくりと触れるダンの唇は少し温かく、わずかにかさついているように感じる。その唇に唇を()まれると、どうしようもなくゾクゾクしたものが背筋を駆け上がった。()まれ、舐められ、そのうち肉厚な舌が侵入してくる。その舌に口内を舐め回されるだけで、シュウクの腰は震えそうになった。 「……まずは、前室に誰も近づけないようにしないとな」 「あの、ん……っ」 「侍女らはいいとして……」 「んっ、」 「大きな荷物は俺が運ぶことにしよう」 「あの、んぅっ」 「王宮騎士と言えども……」 「ん……っ、ん、んぅ」 「……また今回のような輩が現れないとは言い切れない」 「ん、んふ、んっ」 「美しいものに惑わされるのは、どの国でも変わらないな」 「……っ」  キスの合間につぶやかれていた言葉に、シュウクの体がビクッと反応した。いや、正確には最後の言葉にドキッとしたのだ。 (ダン殿は、わたしの過去を知っている……?)  小さい頃から大人たちの情欲に晒され、キライトに仕えるようになってからは劣情を受け入れざるを得なかった自分を知られているのではないか……シュウクはそう思った。体こそ差し出さなかったが、相手の欲を受け入れていたことに変わりはない。  それをダンに知られているのではないかと思うだけで、シュウクの体は恥辱と恐怖に震えた。カタカタと小刻みに震え出したシュウクを、ダンの逞しい両腕が抱きしめる。 「過去に何があったとしても、おまえの責任じゃない。それに、俺の過去もそう褒められたものじゃないしな。そういう意味では、ミティアス殿下と俺もそっくりな主人(あるじ)と従者ということか」 「ダン殿、」 「いままでは立場上、おまえの気持ちを受け入れることが難しかった。そもそもミティアス殿下のことで手一杯だった。しかし、今後はそんな気遣いも減っていくだろう」 「それは、どういう……?」 「我が主人(あるじ)は、従者をも思ってくださる御方だということだ」  にこりと男臭く笑ったダンが、再びシュウクの唇を塞ぐ。一体どういうことかシュウクが尋ねようにも息継ぎが精一杯で、何か言葉を発しようとすれば唇を()まれ、舌を絡め取られ、歯列をなぞられ口内を蹂躙された。  そのうち息苦しさから立っていられなくなったシュウクは、縋るように目の前の体に身を寄せた。目眩がするのは興奮しているからかもしれない。腰が疼き、わずかに触れているダンの太ももに下肢を擦りつけそうになる。 (もっと……、もっと触れてほしい……)  必死に我慢していた気持ちは、あっという間にシュウクの全身を支配した。広い背中に両手を回し、思う存分抱きしめる。首の角度は苦しかったが、それさえも気にならなくなるほどキスに夢中になった。そうして乱れたままの下肢を逞しい太ももにギュッと押しつけたところで、ダンの腕がシュウクから離れた。 「……どうして、」  突然のことに、劣情を孕んだ声で問いかけてしまった。そんなシュウクの濡れた唇を親指で拭ったダンは、やや困ったような顔をして笑う。 「さすがにこんなところで事に及ぶわけにはいかないだろう」 「…………それは、そうですが」  よく考えればダンの言うことはもっともだ。わかっているのに、シュウクの体に灯った熱が「それでも」と訴えかけてくる。 「大事な人との初めては、せめてベッドの上がいい」 「……っ」  ダンのあけすけな言葉に、シュウクの白い頬にさっと朱が走る。それに男臭く笑ったダンが、そっと耳元で囁きかけた。 「初めてとは思えないくらいイかせてやる。だからいまはおとなしく、な」 「……!」  これまで絶対に見せようとしなかった劣情をともなったダンの姿に、腹の奥がじわりと熱を帯びた。心臓は忙しなく脈打ち、腰が砕けそうになる。 (いままでのわたしの誘惑なんて、子ども騙しのようじゃないか……っ)  主人(あるじ)の未来を思いながらも、どうしても手に入れたくて仕掛けていたシュウクの言葉など、ダンにはまったく響かなかったに違いない。そう思うくらいダンの言葉もキスもはるかに(いや)らしく、大人の色気に満ちたものだった。  そうしてこの夜、二人の主人(あるじ)が結ばれた“捕リ篭(とりかご)”の前室で、従者二人の気持ちもまた通じあった。ただし主人(あるじ)たちとは違い、キスをしたり頬に手を触れ合ったりと、おおよそ大人らしからぬ触れ合いだけに留まった。  それにどうしても不満を持ち悶々としていたシュウクは、翌日になってから暴言とも呼べる言葉でミティアスを焚きつけたことを思い出し、表面上は冷静に、内心はひどく動揺しながら謝ることになった。

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