1 / 70
第1話 「よければ俺が、しましょうか?」(1)
外は霧雨が煙り、アスファルトを黒く濡らしている。
鍵咲颯太(かぎさきそうた)は、勤めている株式会社OTORIが入っているビルの入り口で、ぼんやり佇んでいた。
(家に帰りたくない……)
またあの苦痛な時間を自分に強いなければならないと思うと、雨に濡れてまで一歩を踏み出す勇気がなかった。
「参ったなあ……」
ため息をつくと、ふと颯太の斜め後ろに、傘をさした長身の人物が立ったことに気づく。
「濡れますよ」
驚いて振り返ると、見覚えのある整った顔立ちのスーツ姿の青年が、颯太に傘を差しかけていた。
(確か、うちの営業部の……)
「ありがとう。えっと、藍沢隼人(あいざわはやと)くん、だっけ? こんばんは」
颯太より二年遅く入社した藍沢は、営業部に配属後半年ほどで、四半期トップの営業成績を叩き出し、そのあともコンスタントに数字を出し続けている逸材だった。今では営業の要とまで言われている、若手のエースだ。
「よく逢いますね」
「え?」
「いえ。何でもないです」
藍沢はポーカフェイスと言えるほどの無表情で颯太をちらりと見たが、やがてその手元に視線を移し、颯太の横に並んだ。
「それ、持ちましょうか?」
「え? あ、いや、大丈夫」
慌てて颯太は自分が持っている紙袋に目をやった。箱に入った幾つかの試作品──いわゆる大人の玩具が、中には隙間なく詰められている。営業部きってのエースにこんな卑猥なものを持たせるわけにはいかない、と考えたあとで、そのエースが売り歩いているものも、いわゆる淫具だと思い出す。
颯太と藍沢が属する会社は株式会社OTORIという。颯太はOTORIの企画開発部商品開発課に属している。「OTORI」は「囮」と表記されることもあり、先代まで家内制工業一筋だった大鳥工務店を引き継いだ大鳥太一郎・弦一郎兄弟が、わずか三年で上場するまでに育て上げた、女性、特にレズビアン向け大人の玩具の、企画製造販売を手がける会社だ。
颯太はこの冬、副社長の大鳥弦一郎の鶴の一声で決まった販路拡大路線に巻き込まれた一人だった。今まで女性向けに特化してきたOTORIの商品を、今度は男性向けに転化しようという案が出され、様々な理由から、その企画開発のチームリーダを任されたのが、入社四年目の颯太だった。
初めて、新しい企画にゼロから、しかもリーダーとして携われるチャンスに、颯太は高揚した。
しかし、企画を通してデザイナーたちと話し合い、安全面も考慮して幾つか試作品をつくったあとで、使用感の確認という問題が持ち上がってくると、それは崩れた。
とはいえ、使用感の確認については避けて通れないことだと予期していたし、モニターをしてくれそうな人材を、一応、確保してはいた。が、プロモーション部と打ち合わせた結果、カップルでの使用感を出してくれ、という話になってしまったのだ。
おまけに頼みの綱だったモニター候補の知り合いから、出張が長引いて予定通りに帰れないと連絡があったのが、先週。途方に暮れた末に、それなら自分ひとりでも、と玩具を持ち帰って試してみたのが三日前。
しかし、童貞処女の颯太は、玩具を体内に挿れることができなかった。失敗したのだ。その末の「参ったなあ……」である。
ともだちにシェアしよう!