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第3話
「ご正室さまには、本日もご機嫌うるわしゅう」
「ありがとうございます。おかげさまで。皆さま方も、お変わりございませんか」
「ええ」
「うん」
「はい!」
時折行われる正室と側室のお茶会に、五人が揃って笑顔で挨拶を交わす。晴れた午後の風が気持ちいい。
「領主さまとは、いかがお過ごしですか」
「ここ三日ほどお顔を拝見しておりませんね」
「えっっ!!!!!!!!??!」
三日!?三日って言った!?三日もあの男が自分の正室と会わないなんて死んでるんじゃない!?
四人の側室はまったく同じ反応を示し、顔をひきつらせた。俺は茶器を手に、少し首を傾げる。
「三日って……えー……でも昨日も一昨日も、普通でしたよ。今日はおやすみですが」
「そうですか。俺との喧嘩で仕事を疎かにするなどあってはならないことですから、安心いたしました」
「意地になってる」
「うん」
「あ、あの、サキさま、喧嘩ですか?喧嘩したんですか?ト……領主さまと?」
「ええ、まあ。お恥ずかしいことです」
「いや、別に、恥ずかしいことではないと思いますが……」
ただ、信じられないだけで。ユキさまはそう小声で言って、眉間に皺を寄せている。
「喧嘩というとなんだか子供のようですけど、意見の合わないことで言い合いになって、お互い譲らない状態で膠着している次第です」
「喧嘩だね」
「うん」
「こら」
「サキさま!アオはいつでもサキさまのお味方でございます!!」
「よく喧嘩になりますね?領主さまが、サキさまの意見に頑なに反対なさっているということですか?」
「はい」
「サキさまも、お譲りにならない」
「譲れません」
「……」
「……」
「サキさま!アオはサキさまの意見に賛成でございます!」
「……差し支えなければ、その、えーっと」
「俺の世話をしてくれるチルリとの距離が近すぎると言われまして」
「あー……」
「それはねぇ……」
「うん……」
「チルリさんはアオと同担仲間なのに!?ひどい!!」
「俺はチルリがいなければ、トウマさまをお迎えする支度も整いませんと申し上げましたが、今後はお世話をしてくれる者をたくさん雇い、名も覚えない程広く浅く接するようにとのご忠告でした」
「……なるほど」
「いたしかねますと、お答えしました。それでは困りますと、重ねてのご忠告があり、それ以降、お顔を見ておりません」
「夜のお食事は、サキさまがこちらへいらっしゃってからずっと一緒になさっていたと聞いておりますが」
「はい。でも、それもご遠慮いただいております」
「サキさま!サキさまの意志の強さ、アオは大好きですっ」
トウマさまは以前と変わらず夜の食事時には訪ねてきてくれているけれど、考える時間を下さいと伝えているので、花や本など、持参された俺宛の贈り物を家の者に預けて帰って行かれる。会いたい。でも、チルリを手放すことはできない。
「サキさんは、私の希望を汲んでくださらないのですか」
「できることとできないことがあります。俺にとってチルリはかけがえのない子なんです」
「サキさんがそうやって彼を特別に扱うので、私は穏やかではいられないのです」
「おっしゃる通り、チルリは俺にとって特別です。俺のことをよくわかってくれていて、ずっと俺を支えてくれています」
「私がお支えします」
「トウマさまと思いが通っていなかった辛い時期を支えてくれたのはチルリです」
「今は私がおります」
「トウマさまとチルリは別の存在です」
「もちろんです。私はあなたの伴侶です」
「トウマさま。俺はチルリを傍に置きます。それを受け入れて欲しいと思います」
「できません。あなたの傍に、私以外の特定の人間がいることを我慢できません」
「気にしなければいいのではないでしょうか。実際、トウマさまはチルリとほとんど顔を合わせないでしょう」
「顔を合わせるかどうかなど些末なことです。あなたのその髪を結ったのも彼なのですよね?あなたの色々を、あなたの気に入りの一人が段取りしているかと思うと」
「ええ。この髪を結ってくれるのも、着替えを用意して手伝ってくれるのもあの子です。おかげでトウマさまにお褒めの言葉を頂ける俺が出来上がります」
「あなたは裸でも十分魅力的です」
「裸で過ごしましょうか」
「サキさん」
「トウマさま。俺の伴侶はあなたです。あなたを大切に思います。でも、トウマさまはチルリの代わりは出来ません」
「私は彼の代わりになりたいと言っているのではありません。あなたの世話をする者が必要なのも理解している。でもその者にあなたが特別の好意を、親愛の情を、向けることが我慢ならないと言っています」
「俺は俺の世話をしてくれる者全員に好意があります。庭師も料理人も含めてです。トウマさまの思い通りにしようと思えば、誰もが顔を隠し、個人を特定できないようにこの家のことと俺のことを手伝ってもらうほかありませんが、そうなったとしても俺は彼らに感謝し好意を」
「サキさんはとても愛情深くていらっしゃる」
「嫌味でしょうか」
「力づくであなたを閉じ込めることはしたくありません」
「それがトウマさまの本音ですか」
「あなたを誰にも見せず匿ってしまいたいと、思っていることは事実です。あなたもそれをご承知のはずです。しかし今は、そうさせないで欲しいと申し上げています。本来、あなたの世界には、私だけがいればいいのですが」
「そんな世界に住む俺に、トウマさまは早晩興味を失くすと思います」
「ありえませんのでご安心ください」
──数日前の応酬を、苦い気分で思い出す。事を荒立てずにチルリを傍に置く手立てはないだろうか。トウマさまに会いたい。こんなに意固地な俺を、嫌いになってしまっただろうか。トウマさまに会いたいなぁ。知らずに小さいため息が漏れる。ご側室の一人が、気づかわし気に俺の顔を覗き込む。
「……妥協点は見つかりそうですか?」
「どうでしょう。でも、みつからないとしても、今のままで長くいることは不可能です。正直、もうすでに限界でしょう。チルリが先に参ってしまいますし、俺も、これ以上はちょっと、辛いですね」
たった三日と言えばそれまでだけれど、頼もしいチルリはずっとしょんぼりとしている。自分のせいで俺達二人が仲たがいをしているとなればそれはそうなってしまうだろう。気にしないでいいと声を掛けてはいるけど、申し訳ないと頭を下げられる。そんなチルリを見るのが辛くて、俺も何も手につかない。あの日ユキさまが渡してくれた書面の内容が頭をよぎるけれど、この程度のことでそんな大げさにしたくない。
「……トウマさまのああいったご意向を、俺も全部受け止められると思っていたのですが、……想像していたより、難しかったようです。情けなく思います」
「サキさまは悪くないでしょう」
「わかる」
「うん」
「サキさまは悪くないです!アオは同担歓迎ですけど、世の中、同担拒否派の方が多いんですね!意外ー!」
「アオ、ちょっと黙ってて」
「うん」
「うん」
「えーでもー」
ご側室方の優しさに、曖昧に微笑みを返す。俺の覚悟が足りなかったのだ。偉そうに切った啖呵を思い出せば恥ずかしい。トウマさまの情愛を得る一方で、思い通りにならないことがあるのだと、心底からは理解できていなかった。これ以上、叶わない交渉を続けても仕方がない。たくさん雇えと言われている者の中にチルリも入れてもらえるようお願いするのはどうだろうか。トウマさまがあまり気になさらないようにできるだけチルリの話は控えるとして、どうにかチルリを手放さずにいられないものだろうか。本当は諦めるべきだとわかっているけれど。
「アオさまは、同担拒否?という方とどうやって仲よくなさってるんですか?」
気の毒そうに俺を見つめるアオさまに、俺はなんとなく話を振ってみた。アオさまは時々一人で俺の家に来てはお茶を飲んだりしつつ、チルリと楽しそうに話をしている。初対面の時以降、チルリはアオさまとの距離を測りかねているような感じだったのに、今ではすっかり仲が良くて、チルリはそんなことはないです、恐れ多いです、お話も合いませんしとか言っているけれど、微笑ましい限りだ。アオさま曰く同担なのに、それを拒否するチルリと仲良くなっているのなら、その方法を参考にしたいような気がした。
「よくぞ聞いてくださいました、サキさま!同担歓迎のアオはサキさまの話をみーんなでしたいんですけど、同担拒否の方はご自分だけがサキさまのことをわかっていたいと思っていらっしゃる方が多いので、仲良くはなれません!」
「……そうですか。残念です」
「はい!でも、同担拒否の方どうしはまだ道がありますよ!自分が一番だという自負があればいいので!」
「……なるほど」
「トウマさまも、ご自分がサキさまの一番だって心底から信じられれば、多少のことにはお目こぼしくださると思います!同担拒否どうしでも、まあこの人なら許容範囲かな……みたいなこともあるらしいですし!アオのような同担歓迎派のことは心底嫌みたいなんですけどね!」
「……詳しくお願いします」
「ウケる」
「うん」
「まあまあ」
こうなるともうアオさまの独壇場だ。俺はもちろん、他の皆さんも笑いながら話を聞いている。
「同担同士で探り合いになると、どっちが古株かみたいな不毛な話になるんです。どうでもいいことですのにねぇ」
これはチルリの方かな。多分。あの子も長く俺に仕えてくれているなぁ。
「あと、どっちがサキさまに尽くしてるかっていうか通ってるかっていうか推し活してるか、みたいな」
これは二人を比べられないな。通うのはトウマさまだけだし、推し活って何?
「あとは、サキさまのことをどう捉えているかですね。サキさまはいつも朗らかで優しくて慎み深いと、アオは思いますけど、そうじゃないと感じる人もいたり」
「そりゃそうだ。サキさまは相手に合わせて接してくださるんだから、人によって印象が変わることは不思議じゃないよ」
「はい。でも同担拒否の人は、そういうちょっとしたことで同担さんと話が合わなかったり、対抗意識を感じたりして、疲れちゃうんですって。だから嫌なんですって」
「そうなんですか」
「なので、チルリさんと領主さまが会わなければ問題は起こらないと思います」
「俺もそう思います。でも、そういうことじゃないって、言われてしまって」
「あーじゃああれですね。同担拒否の理由の中でも、一番扱いに困るやつです」
「……それは」
「独占欲です!」
「ダメじゃん」
「うん」
「うん」
ダメだ。アオさま以外俺を含めた四人が各々肩を落とす。トウマさまの独占欲がすべての発端であり理由であるので、ダメだ。解決できない。アオさまはきょとんとしている。
「えー、でもそもそも、チルリさんはサキさまの大事な人ですが、お世話をしてくれる方なので、例えばチルリさんと食事をしたり出かけたりはなさいませんよね?」
「はい。チルリは忙しいですし」
「きっとチルリさんも、サキさまとのそういった過ごし方を望んでいるのではなく、お仕えする、お支えすることが生きがいなんじゃないでしょうか?」
「ええ、だと、思います。ありがたいことに」
「なので多分、チルリさんは領主さまを同担だと思ってないと思います」
「え?そうなんですか?」
「はい。アオはそう思われていますが。うふふ」
「うふふ?」
「サキさまをお支えする立場ということで。自分と同じ角度からサキさまを見ていると」
「はあ」
「領主さまは違いますよね。どちらかというと、サキさまと同じ立場です。お仕えすべき方です。お仕えするかどうかは別ですが」
「はあ」
「ですので、チルリさんは領主さまを、そういう意味では拒絶はなさらないのではないでしょうか。お立場上、そもそもそういったご自分の感情を表に出されることは滅多になさらないでしょうし、むしろサキさまの伴侶として丁重に接するでしょう」
「はあ」
「サキさまのおしあわせを願うばかりに、領主さまに対して腹立たしく思うことがあったとして、それを理由にトウマさまにツンツンしたりはしないかと」
「それはそうです。そんなことはとんでもないことです」
「もちろん、サキさまに向かって、はー?領主さまってちょっと感じ悪くないですか?マジ引くんですけど。やめといたほうがよくないです?とかも」
「言うはずがありません」
「はい。チルリさんは大変立派な方なので、サキさまのおっしゃる通り、そういうことはされません。アオには時々、顔を顰めていらっしゃいますが。うふふ」
「うふふ?」
「チルリさん、本当にいい人ですよねー!」
チルリを褒めて貰えたので、俺はにっこり笑ってお礼を言ったけれど、参考にはならなかった。ユキさまが、俺に向かって大丈夫かと聞いてくれる。
「俺は大丈夫です。ご心配には及びません」
「心配はしますよ。我々は、あなたをお守りするためにここにいます。そうでなくとも、友人として心配しますし、力になれないことで申し訳なく思います。……でも残念ながらお話を聞く限り、もし我々が領主さまに進言すれば、ますます意固地になりそうですね……」
「いいのです。俺も、わかっているんです」
「わかっている、とは」
「俺が、変わるべきであると、わかっています。チルリがいなくなるのが寂しいなどと、それは俺のわがままだと、わかっているのです。チルリには次の仕事を見つけてやるべきでしょう。あの子はずっと俺の実家で働いていましたし有能ですので、戻れるように手紙を書くつもりです。俺の側仕えじゃなくなっても、あの子は俺にとって大事な存在ですので、ここで肩身の狭い思いなどさせたくはありません。寂しさは、一時のものでしょう。我慢するというほど大げさなものでさえない。わかっているのですが、……心細くて、往生際悪く足掻いてしまった。トウマさまにも申し訳ないです。俺の態度はひどいものでした」
トウマさまが好きだ。あの人の全部を受け止めたいと思う。チルリを実家に帰したって、俺は何かを失うわけじゃない。でも俺がチルリに固執すれば、トウマさまは穏やかではいられないのだから、取るべき行動は決まっている。こうして皆さんに話を聞いてもらえたら、気持ちの整理がようやくついた。冷め始めたお茶を手にし、自分の至らなさが恥ずかしくて照れ隠しに笑った。
「俺は、トウマさまをお慕いしていますから」
「サキさま……」
「本当に、皆さまには感謝しています。いつもありがっ」
突然ガサガサと近くの茂みが揺れたかと思ったら、そこから大きな影が飛び出してきて逃げる暇もなく座っている俺に覆いかぶさってしがみつかれた。びっくりしたけれど、茶器を落とさずに済んだし、悲鳴を上げる無様も晒さなくて済んだ。でもびっくりした。何事かと思った。
「と、トウマさま?」
俺にしがみついて離れないのはトウマさまだった。茂みから出てきたせいで、全身に葉っぱがついている。と思う。俺の顔面はトウマさまの胸元に埋まっているから見えないんだけど、空いている左手にはかさかさと葉っぱに触れる。誰かが俺の右手から茶器を引き取ってくれた。これだけがっつりしがみつかれては、肘から下しか動かせない。あー、トウマさまだ。見えなくともわかる。嬉しくて、トウマさまの服をそっと掴んだ。
「下がれ」
「はい」
「お前たちが私の言いつけを守らず、サキさんと必要以上に親しくしていたことについては後で聞く」
「はいはい」
「さっさと下がれ」
ご側室の皆さんが、口々に、ごきげんよう、ご正室さま、失礼しますと言って去っていく気配がする。トウマさまに気付かれないよう、小さく手を振った。そして訪れる、静けさ。
「……あの、トウマさま」
誰もいなくなって、それでもしばらく俺から離れずにいたトウマさまがようやく腕を緩めてくれた。椅子に座ったままの俺をじっと見おろす目が、久しぶりで、かっこいいなぁと見惚れる。やがて手近な椅子を引いて腰を降ろし、トウマさまが両手で俺の両手を握ってくれた。
「あの、俺、お詫びを申し上げます。この度の」
「サキさん」
「はい」
「謝るのは私です。サキさんはもう、私のことを見損なってしまったでしょうか」
「まさか」
「煩わしく扱いにくい男だと思われたでしょう」
「いいえ」
「でも私はあなたが」
「トウマさま」
ぎゅっと手を握り返し、俯くトウマさまが顔を上げてくれるのを待つ。悲しそうに眉根を寄せる美丈夫を、俺は間違いなく愛しいと思う。だから俺は殊更明るく振る舞った。
「俺が悪かったのです。トウマさまのおっしゃることに従います。チル……側仕えの者は、この土地で別の仕事を得るのは難しいと思いますので、実家に戻そうと思います」
「聞いてました」
「聞いてたんですね」
「そこの、茂みで。どうしてもサキさんの声だけでも聞きたくて。サキさんに会えない日々に耐え切れず」
「茂みで。えーっと、……そうですか」
「そこの茂みに隠れようとする私の手助けを、あなたの側仕えの者がしてくれました」
「え?チルリが」
「庭に入り込んだ私を見つけて、もの凄く怪訝そうな顔でしたが、私の意図を察してくれて、ここなら気づかれずにお傍にいられますよとすすめてくれました」
「……この、茂みを」
「はい、この茂みを。おかげで数日ぶりにあなたの声が聞けて、しあわせでした」
「……なるほど」
「側室たちがあなたを名で呼び、馴れ馴れしく会話をしているのは受け入れられることではありませんでしたが、見つからないよう我慢しました」
「……なるほど」
「それは我慢していましたが、あなたが、あなたのお気持ちを知り、いてもたってもいられなくなりました」
えっと、多分、お茶会が始まる前からここにいたってことだよね。こんなに大柄な人が隠れられるのは確かにこの茂みしかない。そのチルリはと言えば、この度の揉め事を気にして最近は俺の傍に立つことを控えていて、だから姿は見えない。あの子は時々面白い程真面目だな。それにしても、会話を全部聞かれていたのか。何かまずいことを言っただろうか?
「……あなたの傍に、特定の者がいることは、どうしても我慢なりません」
「はい。承知しております。この数日は私も冷静ではなく、トウマさまに不愉快な思いをさせたと反省しております」
「寂しく思いました、とても。あなたとこころがすれ違っていることも、会えないことも」
「はい。俺もです。トウマさまにお会いしたかったです。自分が悪いのに、身勝手なことですが」
「あなたと離れ離れになったら、あの者も寂しい思いをするのですね」
「……一時のことです」
「私の狭量さのせいで、そのおかげで一生寂しく過ごすのだと、言われました」
「そんなご無礼を、あの子が、申し訳ありません」
まさかチルリがそんなことを、直接トウマさまに伝えるとは思わなかった。驚きとともに、ほんの少しの不快さ。事実なら、許されることではない。トウマさまは俺の顔を見て、首を振る。
「あなたがです」
「え?」
「あなたが、私のせいで一生寂しく過ごすのだと、言われました。友人知人から距離を取らされて」
「……俺は」
「私がいるのだから、寂しいはずがないと、答えました。サキさんのことは私が全力で愛します」
「はい」
「サキさんには、私だけを見て欲しいのです。ほかの誰かに構うのは許しがたい。どんな時でも、あなたが手を伸ばす相手は私だけであって欲しい」
「はい」
「寂しいですか、そんな人生は。私だけでは、だめでしょうか」
「ダメに決まっています」
「チルリ!」
トウマさまさえいればと、即答できなかった。俺にはまだ覚悟が足りない。その一瞬の隙に、いつの間にか傍にいたチルリが毅然と言い放つ。とても、怖い顔をして。
「チルリ、失礼をお詫びして」
「致しかねます」
「チルリ」
「いずれ私はサキさまのお傍を離れます。思い残すことなく去れるよう、領主さまにお伝えしたいことがあります」
「やめなさい」
「サキさん、私以外の名を呼ばないでください」
「トウマさまは、今は少し黙っててください」
「サキさまこそ、今は少し黙っててください」
「え、俺!?」
「そうです。私は領主さまとお話がしたいのです」
「いやでも」
「いいでしょう。受けて立つ」
「喧嘩はやめてくださいよ!?トウマさま、大人げないです!」
「あいにく私は彼と同い年です」
「ええ、あいにく」
なんでチルリはそんなに好戦的なの!?二人って同い年だったっけ、そうだったんだ、仲良くできそうですね、仲良くしなくていいから喧嘩しないでよ、黙っててってなんで俺が黙るの!?
立ち上がり、チルリをじっと見るトウマさまは、もの凄い威圧感だろうと思う。俺も慌てて立ち上がり、でもこの二人が話したいと言っているのなら、もう好きにすればいいんじゃないのと半ば止めるのを諦めて、トウマさまにくっついている葉っぱをポイポイと取りながらチルリに無礼をお詫びしなさいともう一度言う。無視されたけど。
「サキさん」
「はい」
「彼と話をしたら、あなたと話をしたいです。待っていてくれますか」
「あ、はい」
トウマさまはまだたくさん葉っぱをくっつけて、俺を振り返るとそう言った。……寝室で、だよね。うん。ちょっと頬が熱くなった。こくりと頷いて見せると、トウマさまは微笑んでくれた。
「何も心配はいりません。サキさんは、部屋へ」
「あ、でも、俺も」
「いえ、彼と二人で話します」
俺がいれば邪魔になるのだろう。俺はチルリがトウマさまにこれ以上無礼を働かないか、トウマさまにこれ以上傷つけられないかが心配で、立ち会いたかったけれど、二人に否と言われては引き下がるしかない。すごすごと寝室に引き取り、ドキドキする余裕もなくため息とともに部屋の中を歩き回る。トウマさまは、俺が予想していたよりも早く来てくれた。
「お待たせしました」
「あ、あの、いかがでしたでしょうか。あの子が失礼をしませんでしたか。いったいどんなお話を」
「サキさん」
「はい」
「……彼とどんな話をしたか、あなたに全て説明することはしません」
「え?なぜですか?」
「これは、私と彼との話ですので」
「でも」
「彼の扱いはこれまで通りで構いません」
「……え!?なんで!?おかしいじゃないですか!あれだけご自分以外の者を斥けようとなさっていたのに」
「その気持ちは変わりません」
「じゃあ」
「彼との話し合いの結果です。もちろん、今後も私の前で彼を含めた他の人間の話は控えてください。心中穏やかではありません」
急転直下。嬉しいけど、訝しく思う。
「……チルリが、トウマさまを説得したという解釈でよろしいですか」
「私はあなたのことに関して、誰かに説き伏せられたりはしません」
「では」
「サキさん。あなたの希望通りです」
「納得できません」
全然わからない。全然わからない話の結論だけを聞かされて、喜べるほど無邪気ではない。トウマさまは少し困った顔で俺の手を握り、寝台に促すと一緒にそこに腰掛けた。彼の肩に、まだ一つ残っていたはっぱがひらりと落ちる。
「何も話さずに済ませることが難しいのはわかっています」
「俺は、あの子があなたに無礼や無茶をしてないか心配しています」
「もし仮に彼が私に無礼な態度で無茶な話をしたとして、そのくらいで私があなたのことに関して譲歩すると思いますか」
「そういう問題ではないです。そういうことをしたという事実が大問題なのです」
「彼の名誉などどうでもいいですが、彼はそういうことはしていません。そうですね、利害が一致したということです」
「利害、ですか」
「ええ。あなたの身の回りの世話を、従来通り彼が担うことが、私とあなたに利する。同じ働きができる者が他にいませんので彼にさせるというだけのことです。状況が変わればまた別の判断をするでしょう」
「……よく、わかりません」
「それで構いません。これは私の判断です。まあ、みっともないことに何もかも最初から、私だけが騒いでいるのですが」
「みっともなくなどないです」
「サキさん」
「はい」
「あなたが欲しいです。仲直りをしませんか」
「……俺も、その、トウマさまと久しぶりにお会いできたので、そういう、でも」
「その気にはなれませんか」
「そう、ですね、なんだか、話が呑み込めなくて」
「理由はどうあれ、彼は従来通りこの家で働きます。変更点は今のところありません。彼も納得しています」
「はい、あの、お取り計らいをありがたく思います。おかげさまで、俺は見ず知らずの人に世話をされずに済みます」
「他に何か、気になることはありますか?」
「いえ……でも、その、まだ陽も高くて」
「昼間のあなたを、まだ抱いたことがありません。逃す手はないのですが」
「か、変わらないと、思いますっ」
「そうでしょうか。私は変わるかもしれません」
「トウマさまが」
「ええ。私も、いつまでもものを知らない若造ではありません。今はこの程度でも、すぐにあなたにふさわしい男になります」
「え?」
「愛しています、サキさん」
言葉は静かだけれど、トウマさまは多分、不機嫌だ。拗ねているようにも思う。チルリはとても賢くてしっかりしていて、だから恐らく、トウマさまを淡々と責めたんだろうと思う。礼儀を弁えつつも、トウマさまの至らなさを、容赦なく、的確に。同じ年の、自分が今排除しようとしている人間からそれをされて、憎らしさのあまり罰を与えるのではなく、歯を食いしばってチルリの正論を受け入れたのだとしたら、でもそれが嫌でしょうがなくて鬱憤が溜まっているのだとしたら、なんてかわいい人なんだろうと思う。利害なんて、本当にあるのかな。
「俺も、トウマさまが好きです。すごく好き。でもこんな昼から、ダメですよ」
「なぜです?何か用事がありますか?」
「えっと、ご側室の皆さまにお詫びの手紙を書かないと」
「側室の相手など、あなたがする必要はありません」
「皆さまが、俺の相手をしてくださっているのです」
「あなたの相手は私一人で十分です。あいつら、馴れ馴れしいにも程があります」
「罰したり、なさらないでくださいね。もしそうするなら、俺に罰を与えてください」
「サキさん。そんな風に誰かを庇うものではありません」
「俺は正室なので。ご側室の皆さまにもし落ち度があるのなら俺が責任を取るべきだと考えます」
「なるほど。全く納得いきませんが、では、私のいないところで側室たちと慣れ合った罰を受け取ってください」
力任せに抱き寄せられて、唇を塞がれる。初めての夜からもう何度も寝て、俺の身体はすっかりそういうことを悦べるようになっている。いつもトウマさまは優しくて丁寧で、でもなるほど、昼間は違う趣向なのかもしれない。柔らかい舌で探るように口の中を嬲られて、それが少しだけ強引で、いつもより情熱的で、あっという間に夢中になっていく。寝台に押し倒されて、夜着ではない首元の合わせを広げられ、わずかに覗く素肌に柔らかい唇が押しつけられれば、もう拒む気も失せていた。
「これは、罰、ですか?」
「どうでしょう。断られたのに抱こうとしているので、私に罰が下りそうですね」
「……俺、もう、その気になってます」
「では、二人して罰とは無縁ということでしょうか」
「ふふふ。はい。よかったです」
「ええ、サキさん、あなたが笑ってくれて、よかった」
ぎゅっと抱きしめられて、吐息がこぼれる。ものすごく愛されているとしみじみ思う。領主としてはそつなく仕事をこなし、とても立派で尊敬している。でも伴侶としてみれば、時々脇が甘いし、不器用で言葉が足りなくて、自分の感情を持て余しているのが伝わってくる。俺を何処かに閉じ込めてしまいたいと本気で考えているのに、ただそのことを俺に伝えるだけで、行動力がまだ自分の欲望に伴っていなくて、ひどく歪だ。俺の肌を辿る手は、ずいぶん行為に慣れて、今日は格段に俺の快楽を引き出している。きっとこうやって、少しずつ自分の気持ちに見合うような振る舞いができるようになって、今はまだ隙間だらけの俺を入れる檻も頑丈になっていくのだろうか。
「トウマ、さま」
「はい」
「俺はもし、檻の鍵が開いていても、逃げません」
「……そうですか」
「はい」
「居心地のいい檻を、用意します。一緒にそこで過ごしましょう」
「ふふ。はい」
「ずっと」
「はい」
「サキさん、かわいいサキさん、好きです」
「俺もです。あの、あ、ん、トウマさま、チルリのこと、ありがとう、ござ」
「あなたとまた喧嘩になった時、茂みに隠れる手引きをしてくれる者が必要だと思っただけです。損得で考えましたので礼には及びません」
「ふふ」
「あなたが肌を晒して庭で鍛錬するのを、止める者も必要ですしね」
「う!それは、あの!」
チルリのばか!なぜそれを言う!!ほら見ろ、トウマさま結構怒ってるじゃん!?俺は必死に、もういたしませんという気持ちを込めて、何度も首を横に振ってみせた。珍しく、トウマさまがにっこりと笑う。
「納得してくださいましたか?でしたら、もう私以外の誰かのことを考えるのはやめて下さい。怒りが噴き出しそうです」
あ、誤魔化そうとしてる。絶対核心は別のところにある。そんな理由でトウマさまがチルリを俺の傍に残すとは思えない。でも、もういいや。トウマさまの言う通り、俺の希望は叶ったんだ。
「いいですか、サキさん。あなたは私の伴侶です。私だけの、サキさんです」
「はい」
「あなたの世話を誰かがして、あなたの食事を誰かが作る。でも、あなたを抱くのは私だけです」
「はい。もちろんです」
「褥でのあなたを知るのは私だけです。だから、もっと見せてください」
「あ、ん……!」
「私なしで生きていたくないと思うほど、あなたにそう思われるように、励みます。期待してください」
間近に目を覗き込まれ、頬から頭まですっぽりと覆うように両手でつつまれて深く口づけられて眩暈がする。励んでくれるんだ。今でも、こんなに気持ちよくて毎回これ以上ないっていう天井を易々と飛び越えるような体験をさせられるのに、もっと、すごく、気持ちよくなっちゃうのか。ああ、そう思ったら、確かにトウマさまが入ってくるこの感覚が、いつもよりも衝撃的でただそれだけで大きな声で叫んでしまった。枕に頭頂部を押し付けるように身体を反らせ、特別な感覚を受け止める。
「はあ……サキさん……昼のあなたは、とても扇情的です、目に毒だな……」
もう、行為にほとんど痛みは感じない。トウマさまがいつも丁寧に念入りに準備をしてくれてたくさん香油を使ってくれて、全身がとけるような愛撫をしてからいれてくれるからだけど、なんだか今日はすごい。快感を拾う神経がむき出しになったのかと思うほど刺激が強くて、トウマさまがゆっくりとなじませるように何度か腰を動かしただけであっという間に高みが見える。
「ま、って、まって……!あ、あ、あ」
「気持ちいいですか?私はすごくいいです。サキさん、こっちを向いて、顔を見せてください」
「い゛……っく……!」
確かに達した。と思う。強烈な快感が渦を巻きながら身体の中心を突き抜けていった。息が詰まり、少し遅れてひどく汚い悲鳴が漏れた。汗が噴き出し、身体が勝手に暴れる。達した。なのに、解放されない。
「サキさんの、何も出てないのに、出すときと同じように動いていますよ。お腹の上で跳ねて、射精してるみたいに。何も出ませんね。あなたの中も、すごく動いてます。イキましたか?」
「あ、は、あ、たぶ、たぶん、でも」
「嬉しいです。また新しいあなたが見られました。出さずに達すると、何度も何度も繰り返し絶頂できるそうです。ずっとその気持ちよさが続くらしい」
「いけません、トウマさま、ダメです」
「いけますよ」
「そうじゃ、な」
「サキさんの肌は綺麗ですね。薄い褐色は、汗で光ると殊更艶めかしい。庭先で晒すなど言語道断です」
「いたしません、もう、なので」
「ああ……私もすごく気持ちいいです。ゆっくりしましょうね。時間はありますし、あまりに気持ちよくて、乱暴にしてしまいそうですから、ゆっくりと」
とめて欲しかった。少なくとも、もうちょっと落ち着くまで。出さずに達した?このまま、こんな気持ちいい状態が続いて、何度も絶頂する?耐えられる気がしない。気持ちいいのは好きだ。でも、さっきのは常軌を逸してる。あれをゆっくり何度も味わわされるなんて、おかしくなりそう。だから。
「あー!あー!!……っ……っ!!……っんあああ!」
「サキさんのそんな声、初めて聞きました。嬉しいです。いつもとなにが違うんでしょう?昼だからですか?朝は、どうなるんでしょうか」
俺の懇願も空しく、トウマさまの立派なあれは俺を何度も絶頂させ、その間隔がどんどん短くなり、俺はそこから降りて来られなくなった。わずかな愛撫に震え、乳首を抓られただけで大きく痙攣する。そう、乳首だ。この間までこんな風に感じなかったのに。昼だからなのか。もう何も考えられない。涎を垂らしてみっともなく乱れる俺を、トウマさまがじっと見ていて、でも恥ずかしいと思う余裕さえない。向かい合わせに座って抱き合う体勢や、四つん這いになって後ろから貫かれる体勢や、そのままべしゃんと潰れて上に乗りかかられる体勢など、吹っ切れたように様々な体位で抱かれた。どれもこれも気持ちよくて刺激的で、トウマさまもそのうち余裕をなくして、それが嬉しかった。
「あー、くそ、もたない、サキさん、出しますよ、ここに」
「ん、あ、あふれ、て」
「うん、溢れてる、ね、いっぱい出したから、私が、あー、気持ちいい、サキさん、かわいい、サキさん」
「いくいくいく……!いく、いくっ!ひぐぅ……っ!」
汗で滑りながらトウマさまにしがみつく。最高だった。喧嘩した後の行為って、すごく燃える。癖になりそうなほど、身体の奥深いところまで、満足させられた。
◆
本日は晴天です。
数日前に降った雨もすっかり渇き、領主家の裏に広がる林の緑はこれ以上ないほどに輝いています。サキさまと領主さまが、半日ほど林の中を散策されるということで、私チルリと数人がお二人とは距離を取って随行しています。
「以前に、もっと向こうの湖に行きましたね」
「はい。とても綺麗でした」
「湖はもう一つあるのです。小さいですが、深くて、幼い頃は近づいてはいけないと注意されたものです。私も一度か二度、親に連れて行ってもらっただけですが」
「危険なのですか?」
「なんというか、神秘的で、引き込まれてしまう気がしますね」
「そうなんですか」
「ええ。今日はそこへ参りましょう」
「はい」
「私の記憶では、その湖は、サキさんの瞳のような藍色でした」
「楽しみです」
お二人はのんびりと会話をされながら歩いて行かれます。林は時々開けたり、ところどころに椅子や机が置かれていて休憩ができます。休憩時には我々がその机に手早く綺麗な布を掛け、お茶の準備をしたりもします。伴侶となってもう数年経つお二人は日に日に睦まじさを増し、時々喧嘩をなさいますが、仲直りをしてはまたお互いを笑顔で見つめる日々です。
「昨日、アオさまがご挨拶に来られました」
「そうですか。アオは他所で仕事を得ると聞いています」
「はい。俺としては、これからも一緒にトウマさまをお支えしてくださればと思っていましたので残念ですが」
「私にはサキさんがいればいいのです」
「アオさまのご尽力を、トウマさまもお認めだったじゃないですか」
「そうですね。理解に苦しむ言動も多かったですが、有能でしたね」
「お寂しくはないですか」
「私はサキさんがいれば寂しくなどありません」
「俺は寂しいです。アオさまは、俺によくトウマさまの話を聞かせてくださったので」
「引き止めましょうか。あなたを寂しがらせるのは罪深い」
「アオさまにもご都合があるでしょう。チルリと仲がいいので、また顔を出してくださると思います」
「側室でなくなったアオと交流するおつもりですか」
「できればそのように……手紙なら、お許しくださいますか?」
「私の見ている前で書いてください」
「はい」
「中は覗きません」
「ふふふ。はい」
「手紙を直接渡すのなら、同席します」
「トウマさまも、アオさまに会いたいんですね」
「私はあなたと会いたいだけです」
最大瞬間側室数歴代最高驚異の六を叩き出した領主さまですが、先日アオさまがお宿下がりという名目で側室のお立場を降りられ、今はユキさまお一人がそのお役目をお務めです。サキさまと領主さまの婚姻後、最初の年でご側室は六名に増え、その頃は本当に波乱万丈でした。当時のサキさまは領主さまと揉め事が起きるたびにため息をつき、悲しそうなお顔で過ごされていました。そして、俺にはチルリがいるし、トウマさまは成長期なんだよ、大丈夫だよと気丈に振る舞っておられました。そのたびに私は、成長してから娶れよと内心思っておりました。私を斥けようとした領主さまには、今でも恨みがあります。気に入りません。でも、サキさまが領主さまを慕っていらっしゃるので、であればおしあわせになって欲しいと願うばかりです。その気持ちは最初からずっと変わっていません。
「トウマさまも、ご自分の気持ちを持て余していらっしゃるんだよ。そのうち落ち着かれるさ。俺を傷つけまいと自分でご側室を増やすんだから理性はまだある」
「……ですが、先日はとうとうサキさまに手を上げられました」
「返り討ちにしてしまったことを反省しているよ。あのときトウマさまの気の済むようにしておけばよかった」
「そんなことをすれば、サキさまが怪我をしたかもしれません」
「殴ろうとしたんじゃなくて、捕縛しようとしただけだから、怪我はどうかなーしたかなー」
「サキさま。あまり良い状況であるとは思えません」
「そう?俺は、状況が進んでいると思うよ、良い方向に」
「サキさまには、領主さまとの良い未来が見えているということでしょうか?」
「いいこと言うね、チルリ。そう、俺にはね、見えるんだよ」
サキさまは笑って、俺に見えているのはトウマさまが落ち着かれた、穏やかな未来だよとおっしゃいました。どうやったら落ち着くのかとお尋ねしたら、サキさまはさらに笑っておっしゃいました。
「今トウマさまが落ち着かないのは、いざというときに俺をうまく閉じ込めることができないだろうと思って焦っていらっしゃるからだと思うんだ」
「はい」
「でも実際は、段々、少しづつ、俺の行動や思考をちゃんと把握しつつあって、俺の理解が進んでいる。だから今回、俺が定期的に外出しようとしているのを事前に勘づいて反対して、出かけさせないように捕まえようとした」
「はい」
「俺としてはこちらの領地の文化をもっと知りたいからという理由だったんだけど、トウマさまにしたら全く受け入れられない理由だよね」
「それは、そもそもこの領地の領主さまですから。知りたければ自分に聞いて欲しいということではないでしょうか」
「うん。チルリの言う通り。でもトウマさまはお忙しいし、驚かせたいなっていう気持ちもあったし、俺の計画に気付くかなっていうのもあって」
「試したということですか」
「うーん、様子を見たってところかな」
「危険だと思います、あまり、刺激なさるのは」
「反省してるよ。でも、トウマさまは今は俺のやり方に怒っていらっしゃるけど、俺の外出を未然に防ぐことができたということには安心されていると思う」
「そう、でしょうか」
サキさま曰く、領主さまが"落ち着く"のは、"いつでもサキさまを完璧に閉じ込めることができる"と"確信した"時だとおっしゃいました。だからサキさまは領主さまに、早くサキさまの考えを見抜けるようになって欲しいし、行動を止められるようになって欲しいし、いついかなる時でも自分がその気になれば世界から匿えるのだと自信を持って欲しいのだそうです。
「もし万が一俺がトウマさまから離れようとしても、気づけるし止められるしその時はどこかに閉じ込めてしまえる、それができるとわかっていれば落ち着けると思うんだよね。俺のやることなすことお見通しで、俺はいつもトウマさまの手のひらの上でコロコロしてるって思ってもらえれば」
「サキさまは領主さまを慕っておられるのでそのようなことはないと思うのですが、領主さまの勘違いでサキさまが理不尽にどこかに閉じ込められてしまったら困ります」
「だから俺は、今でも鍛錬を欠かさないんだよ」
サキさまは、領主さまの檻にいつでも入るつもりがあり、でもそれを拒絶すべき時にはそうできるように準備は怠らない、というお考えのようでした。
サキさまの期待に応えるように、領主さまはサキさまを喜ばせることも牽制することも徐々にうまくなり、ご側室の数は年々減っていき、今に至ります。これがサキさまの思い描いた未来なのかはわかりませんが、領主さまがサキさまの言いなりになるわけでもなく、サキさまが一方的に何かを強いられるわけでもない。ただお二人ともがお互いを慕い、信じているようにお見受けします。そして最近のサキさまは、なんだか物足りないねと笑うほどです。傍目から見れば異常な領主さまの執着が、それを受け止めるサキさまにとっては物足りないのだと。
「少し、風が出てきましたね。寒くありませんか」
「はい。トウマさまは?」
「私は大丈夫です」
「そうですか。寒いとおっしゃっていただければ、それを言い訳にもう少しお傍に寄ったのですが」
「ええ、まったく、同じことを思いました。サキさんは寒さにも強いんですね」
「ふふふ。トウマさまが寒がりだとよかったのにな」
「今から寒がりになります」
「わ!」
気候は穏やかでしたが、時折風が吹くようになり、笑い合うお二人の間をすり抜けるようにつむじ風が起こりました。本日のサキさまは、長い髪の大半を背に流し、耳の上の辺りの髪だけ後頭部でまとめて髪飾りをつけておられました。美しい金の髪は風に煽られて吹き上げられてしまいました。
「あはは、びっくりしましたね。あ、トウマさま、葉っぱがついてます」
「サキさん、動かないでください。髪飾りに髪が絡まっています」
「あらら」
「じっとして」
「はい」
領主さまがサキさまの背後に回り、髪飾りに引っかかった髪を外そうとしておられます。普段サキさまは長い髪を小さくまとめたり結ったりしておられることが多いのですが、本日のお支度の際に、この衣装には髪を降ろしたら似合うかなぁとおっしゃり、そのようにさせていただきました。髪飾りは華美ではありませんが、林の中の散策ということで植物をあしらったものをお選びになり、ですので髪が引っ掛かりやすい形です。
「サキさんの髪は、いつも綺麗ですね。手触りもいい」
「ありがとうございます」
「今日は、いつもと髪型が違うので印象も違いました」
「そうですか」
「今日の服、新しいものですね、それにも合います」
「……トウマさまは、お優しいですね」
「そうでしょうか」
「はい、あの、嬉しいです」
「そうですか。でしたら今朝お会いしたとき、最初に言えばよかったです。今日のサキさんも素敵だと、思っていましたので」
「あの、もう、その辺で、十分です」
「まだ取れません」
「そうではなく」
お二人で過ごされている時は、お邪魔をしないようにお供の我々は少し離れております。声は聞こえるので、お二人のいつまで経っても微笑ましい会話に胸がポカポカするような思いです。サキさまは少し俯きがちに、領主さまは動いてはダメですよとサキさまに声を掛けながら、髪を触っておられます。やがて、領主さまが大きなため息を吐いて、私を呼びました。ものすごく、低い声で。
「……チルリ」
「はい」
「風が吹いたくらいでサキさんの髪が乱れるなど、手落ちではないか」
「申し訳ございません」
私が頭を下げてサキさまに近づくと、領主さまは私に嫌事を言いつつサキさまの背後を譲られました。ご自分はそのままサキさまの正面に回り、私では難しいので、彼にやらせますとサキさまに伝えています。
「トウマさまに褒めていただいたので、首尾は上々なのですが、外歩きをするのには向かない髪型でしたね。俺の見立てが良くありませんでした」
「私はいつもサキさんを本心から褒めているつもりですが、足りませんか」
「十分です」
「時々言葉にならないのです。今朝もそうでしたが、あなたがあまりに魅力的で、目もこころも奪われてしまって」
「あの、本当に、十分です」
「かわいいサキさん。私の気持ちが、ほんのわずかでも伝われば良いのですが」
「も、あの、過分で、ございます」
慎重に髪飾りを外して、乱れてしまった髪をほどき、常に持ち歩いているサキさまの櫛で柔らかく美しい金の髪を丁寧に梳いていきます。ちらりと見える首筋や耳がが少し赤くなっていて、サキさまがかわいいということには全面的に同意しつつ、お二人の会話に反応しないように気をつけつつ、再度耳上の髪を取って後頭部で纏めて留めます。そして、降ろしていた髪を束ねてゆるく毛先まで編んでしまいます。風が収まればすぐに解ける程度にこちらも留めて、失礼いたしましたと頭を下げました。サキさまは終始、私の方をご覧になりませんし、お声をかけられることもありません。今も、サキ様の背後で一仕事終えた私の言葉に目線を向けたのは領主さまです。頷かれ、私がサキさまから離れると、髪を確認するようにサキさまの後ろに回られます。
「こちらを」
私は外した髪飾りを領主さまへ差し出しました。領主さまは黙ってそれを受け取り、サキさまの髪に挿し、それでサキさまの後ろ姿は完成しました。私はもう一度頭を下げて、先ほどまでの位置に戻ります。
「サキさん、お待たせしました」
「はい。ありがとうございます」
「風がまだ強いので、手を繋ぎませんか。あなたが飛んでいっては困りますから」
「ふふ。はい」
「本当は、あなたを抱っこしたいくらいです」
「重いですよ。鍛錬ですか?」
「そうですね、精神面の」
「ふふふ」
気を使う必要のない我々のような者の前でも、お二人は余りベタベタなさることはありません。でも今のように、私や誰かがサキさまのお世話をした後には、領主さまはよくサキさまに触れられます。サキさま曰く、ああいうとこかわいいよね、トウマさまってさ、らしいのですが、私としては、ハイハイ、誰も取りませんよーという気持ちです。
「領主さまも、ずいぶん余裕というか貫禄が出てきましたね」
「ええ、本当に。一時はご正室さまを追い詰めてしまわれるのではとハラハラ致しましたが」
「側室の数も減って、突然使用人の総入れ替えなんてことも言いださなくなりましたし、ご正室さまの靴を全部燃やすなんてことも」
「ああ、ありましたねぇ……ご自分の目の届かないところで行動されるのがお嫌だったのでしょうね」
「ええ。でもほら、今は我々がお二人を見ていてもお叱りがありません」
「以前なら、背を向けるか俯いてついて来いとおっしゃって」
「やはり、ご正室さまの深い愛情のおかげでしょうか」
「でしょうねぇ。嬉しいことです。今となってはご正室さまが来客を受けることもお許しだとか。寛大になられましたねぇ」
「領主さまは元来、懐の深い、お優しい方ですから」
「ねぇ」
領主さまのお付きの方たちが、嬉しそうにひそひそと、お二人の変化を喜んでいらっしゃいます。確かに以前に比べて、領主さまのサキさまへの過剰な干渉が減ったように見えますし、理不尽な要求をなさらなくなったように見えます。でも私には、ああ、大きくて頑丈な檻が仕上がりつつあって、今はきっと、二人で眠る寝台を運び込んでいるのだろうかと、そのような印象です。
「参りましょう、サキさん」
「はい」
私の願いは、領主さまが早く、サキさまにふさわしい人になってくれること、そして、お二人睦まじく穏やかに暮らしていかれることです。それがもし檻の中だとしても、おしあわせなのだろうと思います。
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