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第5話

 眠りから覚めると同時に、雨の音が満ちていく。  まだ降っているのか。今はもう朝だろうか。瞼を持ち上げずにいると、すぐそばに人の気配がした。そうか。昨日、畑作業を早めに切り上げて、早めに夕飯を食べて、あいつが俺を。目を閉じていられないような、羞恥に似た居心地の悪さを感じて、ぎゅっと眉根を寄せてから目を開ける。案の定、隣に図体のでかい男がいた。寝台に座って、何か読んでいる。斜め下から見上げるその顔は、精悍といえなくもない。細く高い鼻梁に太い眉。目じりは少し下がっていて、口が大きい。無精ひげをそのままに、強く波打つ黒い髪は肩を過ぎるほどに伸びて、だらしないように見えるのに、不潔な感じはしない。そのままぼんやりと見ていたら、紙面に目を落としたまま、大きな手で俺の頭を撫でた。なんだこいつ。 「なんだ」 「うおあ!起きてたのかよっ!」 「今起きた」 「お、起こしたか。すまん」 「自分で起きた」  決まり悪そうにゆるゆると指を動かしながら、大きな手が離れていく。変な男だ。性的な衝動や、何かの対価ではなく、情愛で俺を抱く男。よく、わからない。ゆうべの、俺の嫌がることを避け、俺の名前を呼び、好きだと繰り返しながら抱く様は、不思議だったし、初めてのことだった。誰のものであっても、精液は汚いし、気持ち悪いと思う、自分のも含めて。だけどああいう行為においては必ずそれが身体に付く。でもこの男は、俺が射精するときも自分の時も、懐紙で受け止めてくれた。俺の感情も身体も都合も、何もかもを精一杯尊重しようとしてくれる。 「雨……」 「ん?ああ……さっき止んでたんだが。また降り始めたな」 「そうか」 「その止み間にな、ちょっと外に出たら、近所に住んでるやつが朝飯持ってきてくれてよぉ」 「ああ……いつも、そうしてくれる子がいる」 「らしいな。カイル先生は!?って問い詰められて、寝てるよって言ったらすげぇ嫌そうな顔で、飯くれた」 「ふ」 「領主さまのはついでだからね、カイル先生のために持ってきたんだからね!っつってよぉ、あいつ、前の村で初めて会ったときなんか、領主さま、お婿さんにしてあげるからお仕事頑張ってね!とかかわいく懐いてくれてたのによぉ、ちょっと会わなけりゃ別の男かよって」 「まだ子供だぞ」 「おお、十かそこらか。すっかりカイル先生一筋だな、あれは」  光景が目に浮かぶ。この男はぶっきらぼうで乱暴な物言いのくせに、親しみを感じるのだ。あの少女も、不意にこの男に対面して照れ隠しだっんじゃないだろうか。聡明で利発な彼女は、時々勉強を見てやっているが、俺はお婿さんに来いと言われたことはない。 「飯、食うか?調子は?」 「調子?なんの」 「え、まあ、……全般」 「普通だ」 「そうか」  おかしな気分だ。性行為は、排せつ行為に似ていた。少なくとも、相手はそう捉えていたと思う。出したいものを出せればそれでよし、出すための刺激が欲しい、その相手が必要で、食料などを持ってきてくれる代わりにそれを手近な俺に要求していた。屋外で相手の都合でするのが普通で、だから、まさか寝所でするなんて信じられなかったけれど、なるほど、理に適っていると思った。この男との行為の最中は、多分立っていられないだろうし、いろいろと手数も多くて念入りで慎重で、時間をかけて重なっていくものだったから。そして、今まで痛みと不快感しかない行為だったのに、そんなものは全くなくて、あろうことか快感らしきものさえ与えられた。だからきっと、この男にとって、あれは排せつ行為とは程遠い何かだったのだと思う。 「ん?」  腕を持ち上げて、なんとなく髭面に触れてみた。ざらついた感触は予想通りで、黒い目がびっくりしたように見開かれてこちらを見ている。黒い髪も、ちょっと引っ張ってみた。見た目より、ずっと柔らかい。そういうところも含めて、本当に、この男は一見した時に受ける印象と実際が随分違う。無謀な行動で森の中で死にかけていたあの不遜な男と自分が、褥を共にするとは思わなかった。そこになんの抵抗もないままに。 「どうした?」  身体を起こして、薄い唇の端にも指先で触れてみる。夕べこの男が何度も何度も繰り返しこの唇で、俺の唇に触れていた。何度も、そこで我慢していたらしい。本当は口を吸いたいようなことを言っていた。冗談じゃない。気持ち悪いし、そんな行為に何の意味があるんだ。そう思っていたけれど、もしこの男の好きにさせたところで、俺は気持ち悪いとも汚いとも感じず、みじめでむなしい気分も味わうこともないのかもしれない。そんな風に、自分の考えが変わった。新しい経験のせいでそうなったのか、この男に感化されたのか、たった一晩で人間は変わるらしい。 「どうした?」  無言のままの俺の目をのぞき込んで、それでも何も言わないでいると、少し眉尻を下げて首を傾げる。そして、大きな手で俺の二の腕あたりをポンポンと軽くたたいた。 「よし、朝飯食おうぜ」  大きな図体の男が頭を掻きながら寝台から降りると、途端に周囲の温度が下がったような気がした。ぽかりと空いた場所には、まとめそこなったらしい書類が一枚。引き戸を開け放したまま、廊下へ足音が遠のいてゆく。ふんと一つ鼻息を噴いて、俺もその後を追った。  やはり、朝食を持ってきてくれる少女は、領主さまに好意があるようだ。俺がいつも頂戴しているよりも豪勢で、覚えたての文字の並ぶ手紙付きだ。茶を用意して食卓を調え、ぼんやり立ったままの俺の顔を見て手招きをして一緒に食べる。図体の割には本当に甲斐甲斐しく働く男だ。 「まーだ降るか」  食べ終えて、大きな身体で立ち上がって急須に新しい湯を足して、そのまま窓辺にもたれて外を眺めて倦んだような声でつぶやく。その声の低さが、俺を落ち着かなくさせる。夕べ何度も、耳元で聞かされた。 「こりゃ仕事になんねぇな、お互い」 「そうだな」 「……」 「……」 「……カイル」 「なんだ」 「あー……」 「なんなんだ、さっきから」 「悪かった」 「何がだ」 「無理させた、ゆうべ」 「同意の上だ。貴様に謝られることじゃない」 「お前さんは優しいね」 「馬鹿にしてるのか」 「まさか。しいて言うなら馬鹿は俺だ。なあカイル、少し話をしようぜ」 「話。なんの」  腹が立つ。夕べとの温度差に、苛立たされる。うるさいほどに好意を囁いて、朝になれば全く違う穏やかな顔でこちらを見る。その目に、あの熱は感じられない。湯気を立てる湯飲みを見つめながら、雨の音を聞いていた。わかっている、身をもって。天気よりも唐突に、人間は変わるのだ。 「……貴様がどういうつもりだろうが、これからどうしようが、どうせそう顔を合わすわけでもない。孕んだわけでもない。何もかも好きにすればいい。貴様にこれ以上」 「おい、ちょっと待て」 「うるさい。俺は貴様にこれ以上、情けを掛けられ」 「待てって言ってる」  分厚い両手を食卓について、真上から俺を覗き込んでくる。その影で湯気が消える。俺は顔を上げてまっすぐに、睨んでくる黒い目を睨み返した。怯んだわけでもないけれど、こころの中で負けてたまるかと自分を叱咤した。そうでもしないと気後れしそうなほどの強い視線だ。 「好き放題言ってくれるじゃねぇか。こっちは話がしたいって言ってんだぜ」 「知るか。どうせまたつまらん気を回しているんだろう。言いたいことがあるならさっさと言えばいい。貴様に何を言われたところで、俺は何とも思わん」  つまらなかったとか。なかったことにしようとか。熱が冷めたとか。はっきり言えばいい。最初から淫蕩領主の気まぐれの戯れだ。そもそもあんなことは何でもない。そうだ。だから、してもしなくてもよかった。あれが最初で最後でも、もう二度と、誰ともあんなことはしないで、俺は今まで通り生きてゆく。  沈黙に耐え切らず、舌打ちをして視線を外した俺の頭上ででかいため息を吐き、でかい図体を起こしてよっこらせと椅子に腰かけ、でかい手が俺の手を握った。ぎゅっと、力強く。 「なんでそんな風に言うんだ。俺は、お前さんと今後の話をしたいだけだ」 「今後」 「そうだ。お互い仕事がある。お互い、ここに住んでいるわけじゃねぇ。なあ、俺はお前さんに惚れてる。心底惚れてるよ。夕べは、舞い上がるような気持ちだった。嬉しくて照れくさくて、だけどだからこそ、ちゃんと確かめてから進みてぇんだよ……お前さん、俺のことどう思うんだ」 「……別に」 「俺はお前さんよりはおしゃべりで、結構一生懸命必死になって自分の考えとか気持ちを伝えてきたつもりだ。お前さんはそれにほだされてくれて、この村を救ってくれて、俺と一晩寝てくれた。そんなお前さんの気持ちを、今の正直な考えを知りてぇんだ」 「……よくわからん」 「俺が好きか?」 「……よく、わからん」 「俺はお前さんとの縁を切りたくねぇんだ。領主としても、一個人としても」 「……」 「……ってのは、きれいに言いすぎだな。好きだ、カイル。ずっと一緒にいたい。こころも身体もつながっていたい。夕べお前さんを抱かなけりゃ我慢できたかもしれんが、もう無理だ。独り占めしたい。閉じ込めたい。あーだこーだ指図して、俺の気に入らねぇ連中とは手を切らせたい。わかるか?お前さんの人生と生活に干渉したいってことだ。うざってぇと思われるかもしんねぇが」 「な」 「かっこわりいだろ、ああもちろんわかってる。かっこわりいし情けねぇしみっともねぇ。お前さんが言ったとおりだ。余裕なんかカケラもねぇし、ひと思いに掻っ攫ってしまおうかとさえ思う。夕べ、俺は最高にしあわせで満たされたけど、お前さんはそうじゃないかもしれない。俺にしてみれば、一回寝たんだし、俺に情を感じて欲しい、俺だけにこころを開いて欲しい、俺のこと好きじゃなかったらあんなこと許さんだろう、そうだよな?って言いたいけど、お前さんに全然そんなことない、脈もない、諦めろって返されるのが怖い。でも、一個一個確認しねぇことには、あやふやなままじゃ、加減が分からなくてお前さんを困らせるかもしれん。それは嫌なんだ。だから」 「……落ち着け」 「はは……俺は、別に」 「わかったから、落ち着け」  すごく色々聞かされたように思うが、その勢いにちょっと驚いて半分ほどしか頭に入らなかった。耳に残っている言葉をゆっくり受け取り、その中には俺が投げつけられるかもしれないと身構えていたようなものは一つもないと知る。握られている手から、少しだけ力が抜ける。 「……俺のこと、まだ好きなのか」 「好きだ」 「どうしたいんだ」 「連れていきたい」 「それは無理だ」 「わかってる。言ってみただけだ、本音を」 「ああ」 「……たまには遊びに来いよ。いろいろ忙しいだろうが」 「遊ぶ?何をして遊ぶんだ」 「……俺に会いに来てくれっつってんの」 「ふん。最初からそう言え」 「来てくれるか?」 「ああ」 「いつ?」 「いつでも。貴様が呼べばいい」 「俺が呼んだら来てくれんの?」 「ああ」 「マジか」  頬を赤くして、目を細めて嬉しそうに言うけれど、貴様こそこの先、俺に会いに来いと呼びつけるつもりがあるのかと驚かされる。家に戻ればそれなりの生活が続くんだろう。酒も女も仕事もある、華やかな生活が。それでも俺にそのこころを渡すのか。俺が、必要なのか。 「俺は、お前さんの特別でありたいんだ。俺にとってお前さんはもう、なにものにも代えがたい特別な存在で、俺もできれば同じようになりたい」 「よく、わからない」 「はは、だよな。あー、どう言えば、いいんだろうな」 「……俺の世界は、あの土地だ。俺はあそこから出ない。あそこでしか生きていかない」 「……そうだな」 「でも、あそこには貴様の座る椅子が、もうある」 「……」 「貴様はこっちの広い世界に、俺を連れ出してくれて、居場所を作ってくれた。感謝してる。おかげで俺は、ここに来られるし、ここに居てもいいと言ってもらえる」 「……」 「俺にとっては、とても特別な状況だ。貴様は、どう思う」 「……お前さんの環境をいい方へ変えられたのだとしたら、すごく嬉しいし、俺は特別なのかもしれないと、思う」 「そういうことだ。今更どうこうと足掻く状況じゃない。確認など無意味だ」 「でも俺は、俺だけがお前さんの特別でいたいから、俺以外に、そうさせるなとも思う」 「うん?」 「椅子は、俺のとお前さんのがあればいい。いずれ弟子もできるだろう。でも、情を交わすのは俺だけだと言って欲しい。隣の領地の人間をつけ上がらせるな。二度と触らせるな」 「結局それか。貴様はそればかり気にして、あんなことは」 「当たり前だろうが!」 「大きな声を出すな」 「すまん」 「……貴様が最初にこの村に連れてきてくれて以降、もうああいうことはしてない。それは自分の意志だし、貴様の作ってくれたこの状況がそれを助けてくれた」 「え?」 「この村の人が良くしてくれるから、日用品も食料も余るほどだ。隣の領地に必要な薬を提供するのは続けているが、患者と状況がはっきりした時しか渡さない。今は物資と引き換えに余分を求められても断っている。その薬を売って金に換えている節があるから。本当は以前から薄々気づいていたのに、俺がだらしなかった。性行為と引き換えに何かを得ることもしてない。必要がなくなったから。一度、二度と断れば、彼らはもう言ってこない。食い下がったりもしない。その程度の執着だから」 「……」 「満足か」 「……わからん」 「ほかにどうしろというんだ。今まで問題があったかもしれないが、俺は」 「お前さんにしたことをなかったことになどできん。無体を強いた人間全員に天誅が下ればいいと思っている。むしろ俺が下したいね」 「その結果、俺の薬が必要になるのか」 「もったいねぇだろう、死ぬまで放っておけばいい」 「……」 「呆れたか」 「困ったやつだと思っただけだ」  困ったやつだ。なぜ性行為に、昨晩のはともかく、そこまでこだわるのか。褒められたことではないかもしれないが、薬のほかに差し出せるものが自分の身体しかない状況では致し方ない部分があったのだ。それをわざわざ説明する必要は感じない。きっと言ってもわからない。ああいうことをする人間性や、その対象となった俺の身体を心配しているのだろうか。だからといって、誰かを傷つけていい理由にはならないし、俺はあの行為の代償に必要なもの得ていたのだ。 「それほどああいうことを毛嫌いするのなら、そうしていた俺を軽蔑したり嫌ったりしないのか」 「は?」  ちょっと背筋がひやりとするほどの低い声だった。黒い目が、虚ろに光る。気に障ったらしい。何気ない問いかけのつもりだったが、想定外の反応だ。気をつけようと思った。迂闊な言葉は、どうやらこの男に火をつける。一言も発さずじっとみつめられて、顔が引きつる。 「……いや、自分を卑下しているわけじゃない。ただ貴様はああいうことを気にするのになぜ」 「お前さんのお師匠さんは、病気や怪我で困っている人に付け込むなと教えた。だから作った薬を売買するなと」 「ああ」 「それを忠実に守るお前さんに助けてもらいながら、困りごとに付け込んだクズは万死に値する。ところでお前さんは、あいつらとお前さんの事情の違いを、俺が理解できねぇと思うか?」 「……いや」 「もっといろいろ言って聞かせてぇところだが、頭に血が上る。俺の気持ちが理解できないのはしょうがねぇとしても、そういうことは言ってくれるな」 「わかった。もう、言わない」 「お前さんは、俺にとってもこの村の連中にとっても、お前さんの親御さんやお師匠さんやこの先知り合ういろんな人にとっても、大事なんだ」 「……そうか」 「そうだ。ああ、そうか、そこだな。そうなんだ、お前さんは大事なんだ。賢くて優しくてかわいくて最高で、大事すぎて撫でまわして俺の懐に匿いてぇくらいだ」 「貴様があんまりそういうことを誰彼構わず言って回るから、村の人に"領主さまの言う通り、いい人だね"などと言われる。返事に困るからよせ」 「おお、さすが俺の領民の皆さん。理解が早くて助かる」 「何を馬鹿なことを」 「好きだ、カイル。お前さんは、俺を好きか?今話したようなことを、俺はまったく偽りなく本気で考えている。それをお前さんは許せるか?他の誰でもなく、俺だけが、お前さんの本心を知り、甘えてもらえる存在でありたい」 「……」 「弱みは見せたくないもんだ。でも俺には弱みを見せて、悩みを聞かせて、嬉しい時も俺に真っ先に教えて欲しい」 「……」 「そうしたくない?」 「……それで貴様に何の得がある」 「得か。得なぁ。俺だけがお前さんの特別なんだというその事実は、俺を世界で一番しあわせにする。それ以上にお得な話ってあるか?」 「……」 「それでもって、俺に惚れられているお前さんが、それって悪くない話かもなって、そう思ってくれたら、それは相思相愛じゃねぇかな」 「……」 「どうだ?」 「……悪くない、と、思う」  ぱっと黒い目が見開かれ、そしてまた嬉しそうに細められる。言葉はとても大事だと思う。相手に伝えたいことがあるのなら、応えたいのなら、できるだけ素直に率直に、言葉にしなければ。それがきっと誠意というものだ。 「よく、聞け」 「ん」 「……俺が貴様に惚れているのかどうかは、何度考えてもよくわからない」 「そうか」 「でも昨日、久しぶりに顔を見て、相変わらずで、なんだかほっとした」 「そうか」 「……夕べ、は」 「違いがわかった?」 「え?」 「違いを、同じ行為でも違うんじゃないかって、確認したいって言ってただろう」 「……違った」 「気持ちよかった?」  なぜこうも揃いも揃って、突っ込む側は気持ちいいか聞くのだろうか。自分の快楽のための行為に付き合わせておいて、こちらの都合など斟酌するつもりもなく、まあ夕べのこの男はそうではなかったけれど、気持ちいいか、気持ちいいだろうと問うくせに返事なんか聞きもしない。気持ちいいわけがあるか。不自然で強引な行為に快楽などない。彼らは、お前も気持ちいいのだから、楽しんでいるのだから、これはおあいこだと言いたいのだろうと思っていた。なけなしの罪悪感を潰したいのだろうと。理解ができなくてイライラして、じろりと黒い目を睨み上げる。黒い目は、穏やかにそれを受け止めて細められた。 「あえて聞いてる。カイル、気持ちよかった?」 「……なぜ聞く、わざわざ」 「ああいうことをして、片方だけがいい気持ちなんて不公平だからだ」 「公平である必要があるのか」 「ある。一番大事だと思う」 「夕べは聞かないでいてくれた」 「最中は、だ」  そうだ。確かに俺は最中にそういうことを聞かれたくないと言った。聞いてどうするんだ。彼らとこの男は違うとわかっているが、なぜ同じことを聞くんだ。罪悪感があるのか。俺が気持ちいいと言えば満足か。気持ちよくないと言えばやめるのか。惚れているから抱きたいと言ったくせに、そんなことで何が変わるというんだろう。 「……」 「言いたくねぇか?んじゃ」 「変な、感じだった」 「うん」 「……悪くなかった」 「そうか」 「だから、貴様は別に俺を抱くのをやめる必要はない」 「そうか、そういうね、そうじゃねぇんだよなぁ」 「何が不満だ」 「俺は満足。びっくりするほどにな。カイルはどうか聞きたかったんだよ。気持ちいいからまたしたいって、お前さんも思ってくれてたらいいなって」 「……俺が、またしたいと」 「そう」 「……」  そんなことは考えもしなかった。ああいうことは、俺の意志と無関係に行われるものだ。俺はできればやりたくなくて、でも生活のために我慢は必要だと割り切っていた。そう、我慢していた。あの時間は苦痛で、実際怪我もしたし、何もかも汚らしく思えて、早く終わればいいとそればかり考えていた。 「貴様は俺が嫌だと言えばそれをしないから、別に、またしても構わない」 「ん。そうか」 「……いや、言い直す」 「ん?」 「貴様がしたいなら、……いや、ちょっと待て」 「うん」 「……貴様は、ああいうことが好きな性分だから」 「え。んー、まあいいや、うん」 「だから、俺としなくとも領土中から女を集めて侍らすんだろうから」 「うーん」 「……だから、そう、……俺は別に、我慢をしていないし」 「カイル」 「なんだっちょっと今」 「一言でいい。頷くだけでもいい。俺として、嫌じゃなかった?」  どう言えばいいのかわからず混乱する俺の手を握り直し、親指でするりと俺の手の甲を撫でる。俺は、小さく頷いた。嫌じゃなかった、全然。何一つ、嫌じゃなかった。 「気持ちよかった?」 「……よくわからない、が、多分。なんか、だから、変な感じだった」 「またしてもいい?」 「……ああ」 「多分もっと気持ちよくなると思うんだよな。そうなれるように、俺に協力してくれるか?」 「気持ちいい方が、いいのか」 「うん」 「気持ちよければ、なんでも、誰でもいいのか」 「まあ、極言すればそうだな。でもお前さんは俺としか気持ちよくならないから、誰でもってのは無理な話だが」 「……そういうものなのか」 「そういうものなんだ。俺もそう。お前さんとしか、あんなに気持ちよくなれない。だからお前さんを抱きたくてたまらない」 「……」 「なんでかわかるか?」 「……いちいちうるさい。好きだからだろう」 「そう。俺もお前さんも、お互いが好きなんだ」 「それは」 「疑問が残るか?」  疑問はないけれど、ピンとこないというのが正直なところだ。あと、落ち着かない。好きな人がいる、という状況が。なんだかものすごく、心もとなくて、不安を覚えてしまう。好きなものにいつか手が届かなくなることを想像してしまう。 「……いつまで?」 「何が?」 「いつまで俺が好きだ」 「難しい質問だな……いつまで、うーん……そうね、ずっとだけど、何か不安があるのか」 「……別に。ただの確認だ」 「お前さんが俺を好きでいてくれる間はずっとって答えじゃ不十分か?」 「……いや、それなら、それでいい」 「ああ。だから、ずっとだな」 「貴様は少し自信過剰だと思うが」 「それって、お前さんが俺を好きじゃなくなる日が来るって話か?」 「何が起きるかわからないという話だ」 「ああ、起きてから考えるわ。俺ぁ今、お前さんのことしか考えられんからなぁ」  俺の手を握ったままにこにこと笑うこの領主は、時々わからないことを言う。でも、嘘は言わない。それに、世間一般については俺よりよほど見識がある。俺の仕事の腕を買ってくれていて、俺の考えを否定しない。だから信用して大丈夫だ。 「納得できそうか?」 「ああ。あまり考えても、仕方がないし。貴様の話を聞いていると、確かに俺は貴様が好き、なのか、だろうかと、そういう気がするから」 「カイルは俺が好き。最高だなぁ」 「知らん」 「よし、じゃあ、まあ、飯も食ってお茶も飲んで、まだしばらくは雨が降る」 「ああ」 「夕べの続きをしねぇか」 「は?」 「嫌か?」 「なぜ?」  なぜこの男はたった今俺が納得して安心したのに、新たにわけのわからないことを言い出すのだろう。続きってなんだ。昨日は昨日で終わっただろうが。胡乱げに睨む俺に、殊更にこにこと笑って見せ、妙な恥じらいを滲ませつつ、それでも話を引っ込めることはしない。 「なぜときたか。なぜってお前さん、そりゃ」 「夕べ、貴様も出したよな?」 「え?そうね」 「そんなにすぐはたまらないだろう。無尽蔵に出るものでもなし。……出してないのか?俺が勝手に」 「出した。ちょっとお恥ずかしいくらい出しました。でも、ああいうのは、出す出すねぇってのは結果であって、出しゃいいってもんでもねぇし、出さなくったって触ってるだけで満足というか」 「触るだけでいいのか」 「いいわけあるか」 「さっぱりわからん。結局、昨晩の行為は不満足だったということか」 「最高だったから、もう一回したいってお誘いだ」 「……」 「雨はまだ降る」 「……いい、けど」 「うん」 「……股関節が痛いから、あまり股を広げさせるな」 「すまんっ!……てか、本当に身体かてぇんだな」 「そうらしい」 「教えてくれてよかった。気を付ける」 「ああ」 「じゃあ、いいか?」 「……ああ」 「ほかは?」 「何が」  昨晩と同じように、俺の手を握って寝室に連れていく大きな背中。思わずべちんと叩きたくなるような大きさだ。薄い寝間着越しに浮き上がる筋肉と、肩のあたりに揺れる波打つ黒い髪。なぜ俺は、この男に抱かれるのか、よくわからない。惚れているから抱きたいと言われて、そういうものなのか、まあ、減るものでなし、嫌いでもないし、恩も感じるからと好きにさせたのが昨晩で、想像と違うことばかりで大変だった。一番の違いは、この男が、ものすごく優しかったことかもしれない。終始俺のことを気遣い、名を呼び、好きだと囁き、行為が終わってからもずっとそうだった。優しい。それは、俺に惚れているからなのだと、予想はするけれど、それだけで説明できないほどの優しさだった。そばにいると心地よくて、そう、行為も、痛くてみじめでつらいだけのはずが、とても心地よかった。それは俺もこの男が、好きだから、らしい。またするのか。耐えられるだろうか。俺はこれ以上、あんな居心地の良さに、耐えられるのか。思わず縋りつきたくなるような、あの気分に。 「ほかに、痛いところとか、俺にされて不愉快だったこととか、あれば教えて欲しい」 「ない」 「ん、そうか」 「……疑っているな、貴様」 「え?いやぁ……」 「俺がないと言ったらない。文句あるのか」 「舞い上がっちゃうね、嬉しくて」 「ふん。信用している、そういう部分は。貴様は、俺の嫌がることをしない」 「ああ」  寂しそうに一枚残された書類を退かせて、さっき起きたばかりの寝床に二人して転がる。そう言えば寝具が変わっている。洗濯が得意なのは本当だったのか。雨の日に洗濯など非効率な話だ。 「好きだ、カイル」 「……もう、わかった」 「俺もって言って欲しいなぁ」 「俺も?」 「……あー、やっべぇ……」  ギュッと抱きしめられて、暖かいなと目を閉じた。手際良く脱がされて弄られて、何度も名を呼ばれて、痛くないか辛くないかと気遣われて、挿入されたら身体が震えた。夕べよりもよくわかる。これ、気持ちいい、多分。 「脚開いてるお前さんもそそるけど、脚閉じてるお前さんもたまんねぇな。かわいいよ」  股関節が痛いという俺の負担を考えてか、俺を背中から抱き抱えて横になって挿入されたから、脚を開かないで済む。耳元で吐息まじりに囁かれれば、なんとも言えない何かが腹の奥で重く蟠る。肌が泡立つような感覚に、伸ばしていた身体が少し丸くなる。ちょっと、変だ。夕べより変な感じがする。 「ん?嫌か?しんどい?」 「べつ、に」 「かわいいな、カイル。好きだ」  体格差があるから、後ろにいるのにこの男は俺の顔を肩越しに覗き込んでくる。気づかわし気で口調は穏やかだけれど、両手は俺の腹やら胸やら股間やらを撫でまわしているし、黒い波打つ髪が肌にくすぐったいし、届く範囲あちこちに唇で触れてくる。余裕綽々でムカつくなと思うけれど、よく見ると額に汗がにじんでいて、やせ我慢なのだろうと知る。乱暴に雑に好きに腰を振れば、貴様の満足に早く近づくだろうがと、もちろん言わない。そんなことを、この男が望まないと、今は理解しているからだ。緩く息を吐き、どうにか得も言われぬ感覚をやり過ごそうとしたが、大きな足がするりと俺のふくらはぎを撫で上げて、何一つうまくいかない。 「ん、う」 「ああ、ちょっと待ってくれ」  夕べもそうだけれど、強く腰をぶつけられるような激しいことはされない。ゆるゆるとじっくりと抱かれてもう気をやる直前になっている俺の様子を察して、懐紙を取るために大きな身体が離れる。たっぷりと塗りこめられた潤滑油のおかげで痛みなく受け入れたものを抜かれれば、その大きな体積が除かれて腹の中の苦しいようなたまらなさがなくなる。そうしたら、念入りに広げられた奥からゆっくりと、さっきまでの強い圧迫を欲しがるように締まっていくのが自分でもわかった。それを止めるのに力を入れればいいのか抜けばいいのか、焦っていたら急激に射精感がせりあがってきて混乱する。待て、今は、挿入されてない。揺さぶられてない。触られてない。それなのに、身体が何度も跳ねる。歯を食いしばっても、声を上げるのを我慢できない。目の前が白いのは敷布を見ているからなのか自失しそうなのか、もうわからなくて、俺はそのまま射精してしまった。何もされていないのに、ただ、寝台に横になっているだけで、余韻だけで。 「すまん!あー、悪い、ごめん、カイル」 「あ、う」 「俺の手際が悪かった、せっかく気持ちよかったのにな、水を差したな、すまん」  慌てて大きな手が懐紙で俺の腹の辺りを拭ってくれる。どうしよう。汚した。汚いと思われる。謝らないと、始末を自分でしないとって思うのに、熱が落ち着かなくて、動けない。初めてこの男との行為の最中につらくて涙が滲んだ。どうしよう。 「カイル?洗えばいい。あと、お前さんがどう思うか知らんが、汚いとは思わん。でも、悪かった」 「す、まない、汚した、汚い、から」 「謝んなよ。気持ちいいから出るんだろ。俺としてはむしろ嬉しいね」 「うれしい、なんか、おかしい」 「ん?おかしいか?他人のならまあ、あれだけど、お前さんのはいい。なんでかわかるか?」 「俺が、かわいいから」 「ふ。そう、そうだ。わかってるじゃねぇか。カイルはかわいいから、いいんだよ、こんなこと全然かまわん」 「俺が、かわいいわけ、あるか」 「かわいいね、お前さんは。俺にとっては最高に」  馬鹿馬鹿しい。でも、この男にとっては本気の本音で、こんなことを本心から言える馬鹿な男を、俺は好き、らしい。だからきっと、俺も馬鹿なんだ。涙は止まった。まだ心臓がバクバクとうるさい。身体が熱い。俺の粗相の後始末を済ませて、俺をあお向けにして、大きな手が俺の頬を撫でる。 「……貴様も、出せ。俺の中に、出していい。それであいこだ」 「あいこでは、ねぇな、それ」 「じゃあどこに」 「別に、お前さんは俺に借りも何もないわけでな」 「だから」 「かわいいな、カイル。かわいいことを、あんまり言ってくれるな。本気にするぞ」 「俺は、本気だ」 「お前さんは俺相手に、どんな状況にあっても我慢したり妥協したり譲歩したりしなくていい」 「貴様に」 「カイル、もっと気持ちいいことしようぜ。付き合えよ。出しちゃったとか、そんなのどうでも良くなるくらい、夢中にさせてぇな」  この男は、普段俺の話をちゃんと聞いてくれるくせに、今は酔っているのかと思うほど話が通じない。黒い目にじっと見つめられて、ドキドキする。これは、まださっきの粗相の衝撃が収まっていないからだ。俺さえよければ世の中の半分くらいはどうでもいいと言う男。どうでも良くなることなんか、俺の世界には一つもなくて、まったく俺と釣り合わない男。だから、この男とまぐわっている間は、何もかもどうでもよくなるほど、気持ちよくなれば。そうすれば、少し近づけるのだろうか。この男の感情や、優しさに。無精髭のざらつきを感じながら、両手で精悍な顔を包み、引き寄せて唇を触れ合わせる。触れた唇が気持ちよくて、ぺろりと舐める。ああ、もう、どうでもいい。 「カイル」 「もう、いろいろ、やめだ。俺は汚いと思うけど、貴様はそうでもないと言うし、だったらそうかもしれない。口吸いなんか、気持ち悪いと思うけど、そうでもないかもしれない。だから」 「おお、付き合うぜ」 「……うん」 「やならやめような」 「やじゃない、ような気が、しないでも、ないかも、しれない」 「そうか」 「……貴様が、言うから、試してみた方が、いいのかもしれんと」 「うん。かわいいな、カイル。股痛ぇの、我慢できるか?」 「なぜ」 「顔見てしてぇんだけど」 「違う」 「え?」  なぜ俺が言おうとしたことを先に言うのか。いつも後ろから抱かれていた。木だとか壁だとか地面に手をついて自分を支えて、背後から蹂躙されて、身体を汚される。それが普通で、俺にとっては受け入れるしかない日常だった。正面から抱き合うことも、寝室ですることも、俺にとっては未知の行為で、教えてくれたのがこの男でよかったと心底思う。多分これが、好きという感情への俺の答えだ。今までできなかったことができるようになる。嫌なことを嫌だと言える。辛かったことを変えてくれる。この男に背中からぎゅっと抱きしめられて、耳朶に唇で触れられたまま甘言を流し込まれれば、居心地の良さを感じる。どれだけ俺が暴れても、触れ合う肌が離れない。全然嫌じゃなかった。気持ちよかった。でも、俺を抱くこの男の顔は格別で、眺められるのは俺だけだから、多少無理をしてでも顔を見ながらしたい。 「俺は、我慢しない。痛くても構わないと思うだけだ。貴様もするな」 「うん」 「好きにしていい」 「俺だけだな?」 「貴様だけだ、俺を好きにしていいのは」  過去の経験などどうでもいい。痛みなんかもっとどうでもいい。この男が我慢なく好きに俺を扱ったらどうなるのかを知りたい。手足を目いっぱい伸ばして、やたらと図体のでかい、優しい色男にしがみつく。すぐさま太い腕が背中に回って、強く抱きしめられ、唇を塞がれた。柔らかくて大きな舌が入ってきて、口の中を舐られて、頭の奥が痺れてくる。白く霞む頭で、この男にかかれば身体中どこもかしこもおかしい程気持ちよくなっていくんだなと考えた。気持ちいい。もっとされたい。 「……俺だけ、だ」 「ん?」 「貴様が、こういうことを、するのは」 「そうだな。俺はカイルにしかこういうことはしない」 「うん」 「気持ちいいな。夕べより」 「うん」 「かわいいな、カイル。好きだ。惚れてる。これ以上、ないくらい」 「貴様も、かわいいぞ」 「ほんとか?そうか。初めて言われたなぁ、そんなこと」 「俺だけだ」 「そうだな。嬉しいよ」 「俺も」 「ふふ」  甘くて重くて激しい性行為は、嫉妬心さえどうでもよくさせた。逃げたい、解放されたいと思うのに、永遠に続いて欲しいような気がする。溺れるかと思うほどの強烈な快感の嵐の中で、一瞬この男さえいればいいと、そんな感傷が過るほどだった。  ◆ 「惚れ薬ってのはできねぇのか?」 「できなくはない。作り方はある。ただ、貴様をはじめほとんどの人は惚れ薬を誤解していると思うが」 「相手を自分に惚れさせる薬だろ?」 「そのきっかけを作るものだったり、錯覚させるものだったり、そういう薬だ。薬というのもどうかと思うが、とにかく飲んでたちまち相手に惚れるわけじゃない」 「へえ」 「薬の力で多少は事が進みやすくなるかもしれない、という程度のものだ。……必要か」 「さあ、どうだろう。どう思う?」  黒い目が俺を見る。どこかに惚れ薬を使いたい相手がいるのだろうかと、俺に考える余地さえ与えないほど、俺ばかりを見つめる目だ。 「……要らんと、思うが」 「そうか」 「ああ」 「ふふ。あー、昔の俺に言ってやりてぇな、頑張れ、いいことあるぞってな」 「俺もだ」 「人生捨てたもんじゃない。こんなにも、いいことがある」 「そうだな」  人生捨てたもんじゃない。過去の俺は、きっとこの言葉を信じないだろう。でも、これは現実だ。安心できる場所が、相手が、ちゃんと見つかる。喉が枯れるほどの情交を結んだあと、恥ずかしいほどやさしく甘やかしてくれる相手が。どんなときも、意志を尊重してくれる相手が。 「……おなかがすいた」 「お?いいねぇ、俺もそう思ってたところだ」 「雨は止んだか?」 「んーどうだろうな。止んでいても、いいだろう、たまには。のんびりしようぜ」 「まあ、それも悪くない」 「だろう?雨の音に守られて、まるで世界にお前さんと二人きりみたいだ」  それも、悪くない。

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