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第54話

「恐れながら……」 「……なんだ」 性に寛容なこの国でも 愛の営みはやはり人の耳目を憚るものだ だからグリフも一応人払いをする 火急の事態も起こりえるのでグリフの部屋つきの人間は部屋を出ることは無いけれど それでも呼ばれるまでは一番遠い間で待機してくれている 例え寝所の入り口の薄布の向こうからとはいえ こんな風に最中に声を掛けられることはない グリフはその大きな体躯でディラを庇いながら応えた ディラはグリフの身体が近くなったのが嬉しくて 愛おしむように肌を撫でてゆるく微笑む 愛し合っていて これ以上ないほど密着していて今さらなのに それでも距離が縮まるのが堪らなくしあわせに思える 「水軍将軍アルム様がお見えでご」 「追い返せ」 「は……ですが……」 「容赦するな。騎乗からの射撃を許可する。その後は馬で外へ蹴りだせ」 「その……このお部屋へ来るとおっしゃるのを、なんとかお引止め申し上げているような状況で、なかなか」 グリフは深いため息を吐いた 幸いと言うかなんと言うか ちょうど今はまったりとお互いに触れているだけ 吹っ飛んだままだったディラも大分落ち着いて戻ってきていた ディラは自分に覆いかぶさりながらも押しつぶさないように自身を支えるグリフの太い腕を甘噛みしながら 彼を呼んだ 「……グリフ、私はかまわぬ」 「俺がかまうのだ」 「うむ……待っているから」 「……すまない」 グリフは眉間に皺を寄せた苦い表情を作り マディーラに暇を詫びる そして寝台を降りてその辺りのゆったりとした服を被ると 恐縮している部下に気にするなと声を掛けて 応接間に向かった 扉を開ける前から中の喧騒が聞こえる グリフは無言で中へ入った 「おお、グリフォード」 おお、じゃないよ!! ビキッと音を立てて"いい部下"の仮面が割れそうになる グリフォードはめまいがしそうな理不尽さを全力で踏み潰し 従者たちに押さえつけられている変態将軍を見た 「わざわざお運びいただかなくとも、私から出向きましたのに」 グリフは顔を引きつらせながらなんとかそう取り繕い アルム将軍の前に座る 少し遅めの夕餉刻 呼び出されれば夜中でなくて良かったと安堵する事はあっても 躊躇うような時間ではない そんなグリフにアルムは隣へ来いと手招きをした 「ご用向きをお伺いいたします」 グリフは自分の分の茶杯を手に隣へ移動し 逞しい美丈夫に促した 軍服ではあるけれど軽装で 穏やかな微笑を浮べて寛いでいる将軍は 尊敬できる軍人だ |悪いこと《エロいこと》を考えていない時は 本当に優しくてかっこよくて素晴らしい人だと改めて思う だからグリフは少し気を緩めてしまっていた 情事の余韻もふんだんに残っていたので 頭の回転数は徐行程度だった 「先日、南の河へ行ったとか」 「は。遊びに出かけただけです」 「そうか。水軍を懐かしんでくれたわけではないのか」 「……」 グリフは将軍から目を逸らしてお茶で唇を濡らした いつまでも今の状況が続くわけではない もちろん今のままで終わるつもりもない それでも生活が一変することを思えば 異動の話に腰が引けたのは事実だった そう 多分自分は異動するのだろう、どこかへ マディーラの悲しむ顔が目に浮かぶ 「グリフォード隊長」 「は」 「休んでいるところを押しかけてすまなかったな」 「いえ……」 「ミズキがなかなかそなたを手放さない。今日はいい加減にしろと言いに行った」 「……」 「私だけではない。カラウも何度も隊長を寄越せと交渉しているらしいのでな」 「……」 「先を越されては水軍の損害だ」 カラウというのは陸軍の将軍で 小柄で物静かな男だ 水陸両軍から求められている事実はありがたく誇らしい 優秀な軍人は一つの場所や部隊にあまり長く留まらないものだ そろそろだと覚悟はできていたし ほんの少し前であればグリフは自分から異動を志願したかもしれない だけど今は 「……そうですか。そのようなお話が上がっているとは存じませんでした」 「で、あろうな。ミズキは首都のことしか考えていない」 「は」 「だからあいつは、このままそなたを自分の代わりにするつもりだ」 「代わり、とは」 「将軍くんだろう」 「……ですが」 「そう。普通はないな。将軍くんなど、首都では置かない。水陸の特権だ」 「……」 「うまくやって、ミズキはそなたを首都に囲い込むつもりだ。私やカラウに渡す気はまったくないらしい」 「……そのようなことがあるのでしょうか?」 「そなたが望めばな。首都を出たくない。そう言えばいい。後は|ミズキ《あのアホ》がなんとでも」 アルムは穏やかにグリフォードを見る そう、望むか? 問いかけられているような気がした このままずっと首都にいて 多少の業務が違えどそれほど変化のない日々を退役まで それが俺の望みなのだろうか そういう道の先にある"将軍"を目指すのか やりがいは? 達成感は? 国を護っているという実感は? 「グリフォード」 「は」 「そなたはまだ若い。時間はあるのだから、思い詰めぬように」 「……は」 「そのような情けない顔は久々だな」 「はぁ」 「どれ、もう少しよく見せよ」 アルムはグリフの腕を取り引き寄せる グリフは自分の将来を思案する事に気を取られて アルムの色気の波に自分が飲まれつつあることに気づかなかった ただ彼の青い目が綺麗でじっと見詰めていた アルムにすれば了解の合図だと受け取れる視線 どうせマディーラと乳繰り合っていたのだろうと容易に知れる気だるい雰囲気をまとうグリフは 取って食うべき格好の餌食 アルムはするりとグリフの顎を捉えて顔を寄せる 「仕事中との落差が大きいな、隊長は」 「そう、でしょうか……」 「寝所では、また違う顔を見せるのであろうな」 「はぁ……」 グリフはアルムの綺麗な青い目が近すぎてよく見えないなと思った 低くて甘い声も近い アルムの片手はグリフの逞しい身体を撫で回している それに気づいたのはいよいよ顔が近づいて みつめていた青い目が伏せられた時だった もちろん時すでに遅し 唇に柔らかい感触 それでも緊張感のないグリフは次の行動に移せなかった つまりアルムと距離を取り拒絶するという行動だ グリフが自分を受け入れていると判断したアルムは気をよくして 鍛え上げられた体躯を圧し掛からせて速やかに次の行動を起こす すなわち押し倒すという行動になる 頭の中には軽めの変態行為の段取りが浮かぶ 「失礼いたします」 グリフが我に返ったのは 涼やかな愛しい声を聞いたからだ そして自分の現状に愕然とする なんじゃこりゃあああ!!!?? 「ちょ、ちょ!!将軍!?」 「おお、マディーラ」 残像が残るほどのすばやさで グリフはアルムの下から抜け出し長椅子に身を正した するすると歩いてくるマディーラは気づかなかったのかもしれない きちんと身なりを整えて いつもと変わらない上品な笑みを浮べて自分の従者を従えている 「アルム将軍閣下がお見えだと聞き、ご挨拶に参りました。お許し願えますか」 「無論だ。相変わらず美しいな」 「とんでもないことでございます」 グリフの心臓はどえらい速度で仕事をしているが アルムは平然とマディーラを褒めている ああ、マジでびびった 俺は何されてんだ!? ほんとこの人、油断なんない…… グリフは背中に汗をかきながら美しい婚約者を見る 彼は控えめに会釈をして二人の前に腰を下ろした 「拙くはございますが、お茶をお淹れいたしましょう」 「それは素晴らしい。マディーラの手ずからとは光栄だ」 「この茶葉は……私が後宮で育てていたものにございます」 静々とオキノが茶器と茶葉を乗せた盆をディラの前に置く 美しいディラの指が茶葉を掬いよく通る声で話を続ける 「閣下。後宮で、最も大切なことは何だと思われますか?」 「うーむ。愛だろうか」 「はい。その通りでございます」 マディーラは嫣然と微笑み頷いてみせる その色香たるや凄まじくアルムの目が輝きだしている グリフは訳がわからず挙動不審になっていた こういう種類の雰囲気をディラが出すのを初めて見たからだ 「愛を守るために、手段は選びません。それが後宮の出の矜持」 「……ほう」 「これは、古い古い昔から、後宮に伝わる茶葉なのです」 「……そうか」 「これを育てられるのは、後宮でも限られた者だけにございます」 「それは、なぜ」 マディーラは答えずに薄く笑う 視線を向けられないグリフでさえ凍りつくほどの鬼気迫る雰囲気 ちらりと見ればアルムの頬も引きつっている 色気の強さは増すばかりなのにこの緊迫感は何事!? 「さあ……なぜでございましょう」 コトリ 小さな茶杯に注がれたお茶をマディーラが躊躇いなく二人の前に置く 銀でできた美しい茶器 手に取るのを躊躇うほどの造形 それをみつめるアルムとグリフの目の前で 湯気に炙られるように内側が見る見る変色していく ちょっと待てーーー!!!! 「どうぞ、冷めませんうちに」 飲めるかーーー!!! 銀を変色させるような液体って何!? マディーラ怖いんだけどっ!! 「お。もうこのような刻限か。参った参った、失礼せねば」 将軍、超棒読み!! 意味もなく大声で笑いながら立ち上がってアルムが出て行こうとするのを マディーラが静かに引き止める 「閣下」 「はいっ」 「どうぞ道中ご用心くださいませ」 「はいっっ!!」 アルムに向けた笑顔は目を瞠るほどの美しさ 目を逸らせないほどの妖しい毒を含む艶淫さ アルムはぎこちなく手足を動かしよろめきながら出て行った 待って!お願い、独りにしないでぇーーー!! 「グリフ」 「はいっ」 「飲まぬのか」 「のっ」 飲むのか俺! 飲まないのか俺!? 汗は全身から噴出してこめかみを流れる すでに茶器は銀色をしておらずお茶の色さえ変わっている 愛って命がけですね!! 「もちろん、飲むさ!」 グリフの手には小さすぎる銀の茶杯 指先で摘むように持つと震えて落としそうになる チラリとディラを見れば美しい紫の目がじっとグリフを見つめている 「い、いただきますっ!」 腹をくくってその液体を一気にあおる この世のものとは思えないほど苦い 今まで経験した事のない味に目を白黒させていると ディラの手が手付かずだったアルム将軍の茶杯に伸びる 冗談じゃない ディラにこんな危険なものを飲ませるわけにはいかない グリフは大汗をかきながら それでもディラの手が触れる前にもう一つの茶杯を掻っ攫い 死ぬ思いで飲み干した 苦味で舌が痺れる うん、死ねるな 短い人生だったなぁ 「グリフ!」 「お、俺は、死ぬのか……」 「まさか。驚かせただけだ」 ディラの返事に応えるように オキノが喉をかきむしるグリフに大量の水を差し出す ガバガバとそれを飲み込んで ようやく口の中の痺れが取れた それでも味覚全部を奪うほどの苦味は消えない 「ディラ……」 「一口でも大変なのに、グリフは平気なのか」 「平気なわけない……苦い……苦しい……」 「……少し懲らしめたかった。すまぬ」 「いや……そう、俺が悪い。すまなかった」 ディラの……後宮の出の真髄を見た気がした 揺らめく湯気に炙られるように銀が変色した時は 完全に毒物だと思った ……違うよね? あの揺らめき立つ様な凄味は迫真の演技だよね? 「本当に人の命を奪うような所業は、後宮には相応しくない」 「だな……」 「もっと人の役に立つことを学んできたのだ」 「ああ……」 「……この茶葉は、私が唯一知っているハッタリだ。使ったことを反省している」 「いや、ディラは、悪くない」 あ~喉がイガイガする 無毒なんだろうけれど無害ではない しばらくはまともに食事が味わえそうにない 何を食べてもこの味には勝てないだろう なんだか腹も痛いような気がする それでもグリフは 自分が一瞬でもアルム将軍に絆されそうになり 実際口づけまでされて組み敷かれたことを思えば ディラの怒りは正当だと感じる 詫びこそすれ、責めるなんてとんでもない話だ もちろん本音で言えば手加減が欲しかったところではあるが マディーラは本気で後悔しているのだろう 小さくなってしょんぼりしている 「……ディラ、顔を上げて。俺が悪かった。油断した」 「……グリフが一息に飲んだのを見て後悔した。だから私も飲もうと思ったのに」 「ディラに毒なんて飲ませられないよ。ああ、毒じゃなかったんだけど、毒かと思ったから」 「毒だと思ったのに飲むのか」 「夢中だったから」 「……本当にすまない、グリフ。あとで口直しを用意する。それを飲めばすぐに元に」 「ああ……」 マディーラはテーブルをぐるりと回ってグリフの傍に跪いた もちろんグリフはそれを許さず自分の膝へ抱え上げる 口直しならディラのアレのほうがいいのだけれど 「すまん。ディラと睦みあっていたまま、頭が切り替わっていなくてボケッとしてた。鉄拳制裁も甘んじて受けよう」 「いや……気が動転したとはいえ、愛しい人を謀った私の方が悪い。それに」 「ん?」 「グリフは頑丈だから、私が少々打擲したところで、きっと痛くもないだろう」 「そうかなぁ」 結構痛がりなんだけど ディラは眉を下げて情けないような顔を見せ グリフの頭を優しく撫でている 口づけを、と思ったけれど この凄まじい状態の口でディラに接吻は迫れない 怒ってないよ ごめんね、ディラ そういう気持ちを込めて彼の頬に軽く唇を当てる 「マディーラ様」 「ああ、ありがとう」 オキノが差し出した小さな薬呑みには とろみのある淡い白の液体が満たされている ディラはそれを受け取るとグリフに差し出した 「飲んでくれ、グリフ。苦味も痺れも治まる」 「飲ませてくれないか」 「うむ。では、……あーんして?」 「あーん」 大きく開けたグリフの口に呑み口を差し入れて ディラは慎重に薬呑みを傾け液体を流し込む ほとんどなんの味もしないそれはグリフの口の中に広がり 不思議な清涼感とともに苦味と痺れを消していった 僅かに後味のようなものを残して その液体を飲み込んだ感覚もないのに口の中はほぼ正常に戻っている 「グリフ……いかがか」 「治った」 「よかった……もう二度と、こんな真似はしない。許して欲しい」 「もういいよ、ディラ。俺が悪かったから」 「グリフ……グリフはどうしてそのように優しいのか」 「理由を聞きたいか?」 「うむ」 「愛しているからだ」 ディラはその答えに薄く頬を染めて 次の瞬間には嬉しそうに微笑んだ その笑顔が見たいからだよ グリフは膝の上のディラをしっかり抱え直して 甘い口づけを 「お食事のご用意が整いましてございます」 恭しく頭を下げて従者が呼びに来た それを聞いた二人のお腹が一斉に鳴る 「……では、頂こうか」 「うむ!」 二人は顔を見合わせて頷きあい 手を繋いで食堂へ向かった

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