1 / 40
第1話
「佐川ぁ。家みつかったか?」
「まだです」
大学の学生食堂は閑散としている時間があまりない。もちろん昼が書き入れ時ではあるけれど、部活や実験や寝坊やサボりと、多様な行動パターンを持つ学生たちのおかげで朝も夕方もそれなりに混雑している。
佐川はそんな騒がしい学食で、細い金属フレームの眼鏡を曇らせながら、うどん定食を食べていた。
うどん定食ですよ。うどんという、小麦粉から作られた腹持ちのいい炭水化物をおかずに、世界に誇る美味しい炭水化物である日本の白米を食べるわけです。副菜は揚げ物。今日はチキンカツですよ。炭水化物on炭水化物and動物性たんぱく質。いくつかの学校を抱える法人グループの本部は関西なので、関東に所在するこの大学のメニューもたまに関西風だ。
佐川は曇ったレンズ越しに、正面に座る先輩を見た。
「一応、不動産屋も学生課もチェックはしてるんですが」
「今はゼミ室で寝泊りしてるって?」
「はい。四回生の実験の手伝いをする代わりに、寝床確保してます」
関西風のだしはうまい。佐川も最近、それがわかるようになってきた。最初見たときは色の薄さに驚いて、味も確かめずに醤油を投入したものだけれど、同じ学部の関西出身者に殴られた。しばくぞボケ!という罵声とともに。しばいてから言うな!と取っ組み合いになったのも遠い昔の話だ。一浪して現在三回生の二十二歳は、少しずつ大人になってます。
「そろそろキツイだろ」
「キツイです。この間なんか、夜中に暖房切られて凍死するところでした」
宿無しになったのは、一月ほど前の話だ。
佐川は実家を離れて大学の近くで一人暮らしをしていた。「狭いながらも楽しい我が家」を地で行き、身体を鍛えること以外無趣味な男は、筋肉を映す大きな鏡と、筋肉を鍛える大きなバーベルと、筋肉を休める大きなベッドをこよなく愛していた。
そんな佐川が、ある日バイト先から戻って来て目にしたのは、変わり果てた我が家だった。
五階建てのそのアパートは、そこに住む学生のふざけたイタズラが原因で、消火活動によって見るも無残に大破されていた。破れた窓から大量に注水され、アパートは初めてその身体の内側まで濡らされたのだ。
火を出したのなら仕方がないと思える。しかし実際は、冗談半分で火事だと通報し、面白半分で発煙筒を焚くという、悪質かつ救いようのない酔っ払いのイタズラだった。
身体を張って誇りを持って仕事に当たった消防隊の皆様、心配し恐怖した近隣住民の皆様、長年学生たちを見守り続けた大家さん、そして佐川をはじめとしたそのアパートの住人たちの、怒りを通り越した自失は、酔っ払いたちの土下座を誘った。
そんなこんなで、佐川には現在、住む場所がない。日当たりの悪さを嘆いていた部屋だったけれど、おかげで被害はまだマシだった。それでも入学当時奮発した大きなベッドは、突然の執拗な|浸水《陵辱》に打ちひしがれて、こんな身体じゃもう君と一緒に寝られないよ……と、その役目を放棄した。佐川は去っていくベッドを見送るしかなかった。
バーベルだけは|水浸し《汁まみれ》になりながらもけなげに操を守っていたけれど、元々繊細なところのあった大きな鏡は、穢されるくらいならと割れてしまっていた。
佐川は唯一残ったバーベルとともに、現在放浪している最中だ。
「金、ないんで、前より高い家賃は出せなくて」
「普通そうだよな。で?その酔っ払いはちゃんと色々弁償してくれるのか?」
「さすがにそいつらの親が、泣きながら大家さんたちに頭下げに来たらしいです。店子にも、弁償って言うか、賠償って言うか……でも、本当にわずかだったので」
アパートそのものへの賠償責任等々の額を考えれば大金は期待できないとは思ったけれど、佐川の手に載ったのは十万円だ。
学生の身には大金でも、失った愛しい相棒たちを取り戻すことなどできない。金なんかでこの傷は癒せない。佐川は大切なものを力づくで奪われたのだ。
そういうわけで、一晩で飲み代に使った。可愛いお姉さんに、ほっぺたと太ももと股間を撫でられて、天国を見た。場末のスナック最高。
「贅沢言ってるつもりはないんですが、なかなか条件に合う部屋はないんですよね」
うどんのだしを一滴残らず飲み干して、佐川は箸を置いて手を合わせた。眼鏡の曇りをハンカチで拭いて掛け直す。
正面に座っている手越は、水泳部の先輩だ。ちなみに佐川はマネージャーなので泳がない。入学式の日に勧誘されて、いいトレーニングになりそうだと入部したけれど、佐川のように赤身だけだと水に浮かないと、身をもって体験した一年生の春。重たい身体で楽しく泳ぐスキルはなかった。
「俺も、お前が心配でさ」
学部三回生である佐川も大学院一年の手越も、当然部活動は引退済みだ。二人とも進学するので就職活動をする同回生に比べれば、時間の融通はきく。しかし手越も暇ではないはずだし、そもそも、そんなに佐川を気に掛けてくれるほど親しい間柄ではなかった。
佐川はあまり口数が多くない上に、表情に乏しい方なので、先輩に可愛がられる男ではないからだ。学校とバイト先の往復と、たまに数人の友達と飲む以外、何の刺激も潤いもない生活を送る平凡な大学生なのだ。ちなみにバイトは引越し屋さんだ。理由は言わずもがなである。
「ありがとうございます。もしいい物件があったら紹介してください」
愛想のいい方ではないけれど、心配してくれる優しい先輩に、笑顔でお礼を言うくらいの常識はある。佐川は手越に頭を下げて、食器の載ったトレーを手に立ち上がろうとした。
「えーっと。お前、ちょっとやそっとのことじゃビビんないよな」
「ですかね?」
ある日の朝練で、着替えてプールサイドに出ると、先に来ていた部員たちが大騒ぎをしていた。
プールの底の排水溝に黒くて長い髪がユラユラと揺らめいていたのだ。
人が溺れて沈んでいるのだと、みんなが恐怖に絶叫している中、佐川はそれを一瞥しただけで、いつも通りキック板を濡らして、その日のメニュを貼り付けて、ストップウォッチを首から下げて、練習の準備をしていた。
しかし騒ぎは収まらず、女子部員が泣き出したあたりで仕方なく、沈む赤身を活かして、水に揺らめくそのオゾマシイ髪の毛の塊を底から回収したのは佐川だ。貞子的なものの正体は、誰が入れたのか超ロングヘアのフルウィッグだった。それ以来、佐川は一目置かれている。すごい赤身がいたものだ、と。回収のために、素っ裸でプールに沈んだことも遠因だろう。
佐川の父親が極度のイタズラ好きだったがために、佐川はたいていの驚きを、どうせ誰かの仕業だと解釈する癖がついている。そんな佐川がイタズラのとばっちりで宿無しになったのも、ある意味運命なのかもしれない。
「俺のさ、先輩が、ルームメイト探してるんだけど」
「はあ」
「大学からはちょっと離れるけど、駅のすぐ近くのマンション」
手越が口にした駅は、地下鉄とJRが乗り入れるこの辺りでは一番大きな駅だ。大学から離れるとは言え、自転車で通える距離で、貧乏学生が住めるエリアではない。
便利だろうな、と佐川は考えた。だけど、物価も上がるし家賃も上がるのでは、結局生活が苦しくなって購入できるプロテインの質を落としかねない。それは避けねばならない。
「俺、あんまり社交的じゃないんで、相部屋はちょっと。すみません」
「相部屋って……ルームシェアな。でも、相手は社会人だから基本、朝と夜しかいないし、家賃はタダだぞ」
「なんで?」
「……」
「……」
佐川の二十二年間で培われたイタズラセンサーが警報を鳴らす。冗談じゃない。そんなうまい話には乗らない。家に戻ってまで誰かのイタズラにつき合わされるのはごめんだ。
先輩相手にケンモホロロというわけにはいかないので、佐川は当たり障りなく言葉をつなげて、首を傾げた。
「そういう出来すぎた話、ちょっと警戒しちゃいますね」
「……よし。じゃあまあ、一回、飯食いにいこうぜ、その人と三人で」
「はあ……」
「肉な」
「あざっす!」
佐川は細い金属フレームのブリッジを中指で押し上げて、時間を確認して今度こそ立ち上がった。手越は何故かホッとしたような顔をしている。佐川にとって手越がそうであるように、その社会人は彼の先輩なのだから気を使うのだろう。
「いつですか?俺、結構バイト詰めてて。実験の手伝いもあるので」
「ああ……明後日は?」
「大丈夫です。夜ですよね?」
「ああ。八時くらいだと思っといて」
「はい」
八時なら大丈夫だろう。佐川は姿勢を正して踵を合わせ、きちんと一礼をして食堂を後にした。
ともだちにシェアしよう!