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第2話

「佐川。こちら、うちの大学のOBの神坂さん。神坂さん、これが佐川です」 「はじめまして、佐川です」 「はじめまして」  「これが佐川です」が、「これが生贄です」とか「これが貢物です」に聞こえたらどうしようかと思ったけれど、紹介された神坂という男は、至って普通の無害そうな人だった。しかも連れて行ってくれたのは、個室になってて煙があんまり出ない焼肉屋さん。いい人に違いない。  佐川は挨拶もそこそこに、いつもと桁が違うメニュを舐めるように眺めている。  神坂はじっと佐川を観察していた。 「佐川くん」 「はい」 「僕とルームシェアする話、納得してないって?」 「……はい。お家賃もタダで、神坂さんも仕事が忙しくてあまり家にはいなくて……って、そんなオイシイ話、アヤしくて」 「素直だな」 「すみません」  神坂は軽くネクタイを緩めて笑った。笑うと非常にかわいらしい。そもそもの作りが美形だ。佐川の拳とそう変わらないほど小さい顔。白い肌は毛穴も髭も見当たらないし、さらさらした髪は普通のサラリーマンでは許されないような、肩につきそうな長さだ。聞けば研究職だから、服務関係は細かくないらしい。大きな黒目がちの目に長いまつげ。女の子のようだとは思わないけれど、女性的な要素は多い顔。 「神坂さんは、手越さんの、何の先輩ですか?」 「ゼミの先輩」 「そうですか」  大学の体育会というのは結構厄介で、OBの顔と名前は覚えておかないと怒られる。  水泳部の年に一度のOB会では、新入生を試すかのように、俺は何代で専門は何で自己ベストはどのくらいだか知っているかと問い詰められたりする。誰もが通る道だ。記憶力に自信のある佐川は難を逃れたけれど、同期は答えられなくて潰れるまで飲まされていた。  目の前にいるこの柔和な社会人は、そういう無体はしなさそうだ。 「今、宿無しなんだろ?」 「はい」 「家賃要らないよっていうのは、その代わりに掃除とか片づけを頼みたいから」 「そうですか」 「あと買い物かな。空っぽの冷蔵庫ってゾッとするだろう」 「はあ」 「後輩だったら、気兼ねも要らないし」  まともな話なのだろうか、もしかして。ものすごくラッキーでお得なプランなのかもしれない。第一、こんなに素敵な焼肉屋さんに連れて来てくれている時点で、瑣末な疑いを持つ方が失礼というものだ。  佐川はグラグラ揺れていた。節約できるものは節約したいし、浮いたお金は憧れのプライベートトレーナーを雇う資金に充てたい。 「手越さん」 「うん?」 「なんで俺に声を掛けてくれたんですか?」  宿無しの学生なんて多くないだろうけれど、こんないい話なら誰でも喜んで引っ越すはずだ。というか、手越本人がなんで乗っからない?直の後輩の方が、それこそ気兼ねは要らないだろうに。  言葉に詰まった手越の代わりに、神坂が綺麗な手を拭きながら、佐川の質問に答えた。 「僕のリクエストが、無表情で眼鏡の、冷静な細マッチョだったからね。手越じゃダメなんだ」 「……なんのリクエストですって?」 「掃除と買い物その他の雑事のほかに、頼みごとがあるんだ。だから寝る場所に困っている貧乏学生なら誰でもいいわけじゃない。ボランティアじゃないんだから」  神坂はまたしてもにっこり笑って、慣れた様子で肉を注文した。佐川がオーダを遠慮するようないい肉ばかりだ。この人も正しい意味で肉食系男子なのか。  涎が垂れそうになりながらメニュを閉じて、佐川は冷静に表情を変えず、眼鏡のブリッジを押し上げて神坂に聞いた。 「頼みごとって、何でしょうか」 「僕の趣味に付き合って欲しいんだ」 「ご趣味はなんでしょうか」 「じょそおとこおかいじい」  耳慣れない言葉に佐川がかすかに眉間の皺を寄せる。  じょそおとこおかいじい? 「序素男、岡井爺……?」 「岡井爺って誰?」 「俺がお聞きしてるんですが」 「家では女装してる。その格好で、誰かに見られながらオナニーするのが趣味なんだ」  "じょそおとこおかいじい"が、佐川の頭の中でようやく"女装と公開自慰"に漢字変換され、その瞬間に脳みそパーンなった。なるよな。パーンなるよな。  すらっと襖が開いて、和装のスタッフが肉を運んできてくれた。その眺めでようやく正気になる。 「……リクエストを出されたということは、そういうお相手込ってことですか?」 「お相手って?」 「エッチなご奉仕をしろってことですか?」 「は?まさか。僕に触る気?百年早いわエロガキが」 「は?」 「自慰だって言ってるだろう。お前は見てればいいんだよ。ムキムキ筋肉見せながら、無表情に冷静に眼鏡越しに僕を見とけ」  見とけですって。佐川は全力で断り文句を探した。  見とけですよ?変態的趣味持ちなくせに、偉そうに見とけとか。っかー!最近の社会人はこれだからダメなんだ。  第一俺は、男に触りたい症候群ではない!!お門違いもいいところだ!!他を当たりやがれ!! 「せっかくのいいお話でしたが、あいにくその試練に耐えられる自信がございません。つきましては」 「ここの払い、お前な」 「なんで!?」 「人の秘密を一方的に聞き出しておいて、都合がつかないのでってトンズラ、挙句にタダ飯だけはちゃっかり食うつもり?世の中舐めんな」 「ひどいです!俺、今日の肉、超楽しみにしてたのにっ!」 「知らない。うるさい。払えないなら黙って見とけ」 「また見とけって言った!肉っ!!」 「はん。僕と住むなら食費支給だ。このくらいの肉、いつでも冷蔵庫に入れてていいよ?何でも好きなもの買っていい」 「……!」 「毎日おいしいお肉食べてー、たまに掃除と買い物と片付け、で、僕の趣味に付き合う。それだって見てるだけで済むんだよ?いい話だと思うけどねぇ」 「……!……!!!」 「神坂さん、焼けました」 「ありがと」  さっきから存在感を消していた手越は、甲斐甲斐しく肉を焼き、神坂の皿へ入れている。その匂いは佐川の魂をムチ打ちになりそうなほど激しく揺さぶる。肉、ああ、お肉。もう何も考えられない。  佐川は意識を朦朧とさせながら、手越に空の皿を差し出した。手越は気の毒そうに首を横に振る。肉……肉を、俺にも……。  神坂は小憎らしいほどチャーミングな笑顔で、脂の滴る肉を頬張っている。俺の肉……なくなっちゃう……。 「あーおいしいー」 「一緒に住みます」 「食ってよし」 「あざあーっす!」  佐川は網に乗っていた肉を全部さらって一気に口に入れた。人生最期の至福の時……かもしれない。  佐川は後悔していた。いくら口にしたことがないほどの最高級のお肉を、これ見よがしに鼻先にぶら下げられたからといって、こんな非常識な話を請けるべきではない。  ベルトを弛めるほど満腹になるまで食べてから後悔したところで、もう遅いのだけれど。 「こんな見え見えの罠に嵌るなんて……!」 「失礼な。勝手に肉の匂いに屈したのはお前だ。いいじゃん、別にー大げさだな」 「よくないですよっ!?女装癖と猥褻物陳列罪ですよ!?わいちん!」 「略すな。そして自宅で|限定した相手《お前》に自慰行為を見せるのは、いわゆる猥褻物陳列罪には当たらない」 「知りませんでした」 「疑似餌でも何でも、口にしたお前の負けだ。安心しな?僕はどの魚を釣るかは慎重に選ぶし、釣り上げた後でも、ちゃーんと餌をやるから」 「餌って肉ですか」 「筋肉馬鹿って、ささみしか食わないんじゃないの?たんぱく質オタクでしょ」 「俺の目指す筋肉美はトラです。トラは部位を選びません」 「興味ない」  佐川は最後の足掻きとばかりに、間取りを見てから決めたいと言い放った。神坂は生意気言うなガキ!と一蹴したけれど、それでも焼肉屋さんを出てからタクシーで彼の自宅へ連れて行ってくれた。  手越には神坂からタクシー券が渡された。電車の動いている時間だ。手越はきっとそれを使わず、電車で意気揚々と帰るだろう。おいしかった夕飯と懸案が解決したことに浮かれながら。

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