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第3話
「……」
「ご不満でもおありですかね、釣られた魚くん。まな板の鯉くん」
「トラになりたいんです」
「トラフグくん、三部屋あるから、お前に一部屋、丸々やるぞ?」
「うあああっ!?」
3LDKという広さは、その文字列から想像もできないほど快適そうだった。神坂は一部屋を仕事部屋に、もう一部屋を寝室にしているという。LもDも、きっちりLとDだった。広いリビングにはふかふかのソファと大きなテレビ、広いダイニングには天上から小さなシャンデリアが下がっていて、重厚なテーブルを照らしている。Kに興味はなかったけれど、綺麗で使いやすそうなキッチンだ。
そして、与えてやると言われた部屋には、大きなベッドと大きな鏡が置いてあった。
「ベッドでかい!鏡でかいっ!!」
「あーうるせぇ」
「このベッドと鏡の使用権も込み込みですか!?」
「別途請求だ。それらを使いたければ、料理もさせる」
「できません。やりたくてもできません。他のことなら何でもします!」
「洗濯」
「了解」
「よし」
「やったー!!」
佐川は歓声を上げて、大きなベッドにダイブした。さがわはじめ、二十二歳、自分の欲求に忠実な男子です。
「うわー眼鏡が曲がるーでも気持ちいいー」
「馬鹿、てめ、眼鏡壊したら値打ちが下がる!」
大きなベッドという新しい相棒との遠慮のないスキンシップで、佐川の眼鏡が被害を受けそうになったらしい。神坂は慌てて佐川の頭を殴って、過剰な喜びの舞を停めさせた。
「……なんで眼鏡がいいんですか?」
「僕の趣味に口を出すなら、この話はナシでいい」
佐川が断ろうとしても聞かなかったくせに、神坂は冷たいとさえ思えるほどあっさりと、取引を撤回しようとした。それだけその趣味を、とやかく言われるのが嫌らしい。
ただひたすらに、腹の中で何を考えていてもかまわないから、自分の女装と公開自慰を見てろと、それだけを強く要求してくる。
しかも、眼鏡を掛けていて無表情で冷静で細マッチョなら、佐川でなくてもいいのだ。
佐川が気が乗らず、イマイチ踏み切れない理由はそこかもしれない。
「……神坂さん」
「なんだよ」
「俺は、細マッチョではありません。訂正してください。いいですか、細マッチョというのは」
「僕がお前の体型でいいって言ってるんだから、それが細マッチョだろうがガリマッチョだろうがどうでもいいだろ!?つーか、そこかよ!」
「訂正してください!俺は細マッチョじゃない!腰も胸板も、平均の一・五倍はある!」
「だから何!?何なの!?それってエライの!?馬鹿じゃねぇ!?」
佐川は普段あまり感情を表に出さない。それは感情的になることが少ないからだ。そんな佐川でも、筋肉関係には熱が入る。
日々精進努力を重ねて得た肉体を、間違った認識で評価されたくはない。ましてや細マッチョもガリマッチョも、佐川としては歯牙にもかけないひ弱野郎の代名詞なのだ。何しろ目指すはトラなのだから。スレンダーなチーターは願い下げなのだ。ヒョウは結構好きだけど、それでもなりたいわけではない。
「トラフグよ」
「佐川です。佐川基です。神坂さんは、下の名前なんていうんですか?」
「マリ」
「……」
「家では僕をマリちゃんと呼べ。いいな、フグ」
なかなかトラが定着しないようだ。いや待て。定着させるべきはトラではない。佐川が定住すべきもここではない。そのはずなのに。
「荷物はバーベルしかないって聞いてるぞ」
「それ以外も、多少は」
「もう夜も遅い。お前は今日からここに住んでいい。明日学校から、荷物を引き上げて来い」
「はい」
「風呂とトイレは僕優先。出勤は七時で、帰宅は大体九時か十時。それ以上遅くなる時は連絡するから、連絡先を言え」
「はい」
細腰に手を当てて尻のポケットから携帯電話を取り出し、神坂は片眉を上げることで佐川に促す。佐川は求められるままに自分の電話番号とメールアドレスを伝えた。
ベッドにぺたりと座り込んで、傍に立つ神坂を見ると、顔だけではなく身体つきも男性っぽいとは言い難いのがよくわかる。厚みは佐川の半分ほどだし、筋肉量だけで言えば四分の一ほどじゃないだろうか。背は低くはないけれど、顔と頭が小さいくて肩もか細いので、華奢な印象が強い。俯いて携帯電話を操作する彼の睫は、本当に長い。
「神坂さんは」
「……」
「マリちゃんは、運動しないんですか」
「ムキムキの腹筋とかふくらはぎで、可愛い服は着たくない」
「いつから女装癖があるんですか」
「子どもの時から」
「公開自慰も?」
「それは最近」
「えーっと。俺、そういう文化に詳しくないんですけど、女の子になりたいんですか?」
「……」
「もしかして彼氏とかいるんですか?つーか、好きになるのって男?それとも女とレ」
「トラ吉」
神坂は綺麗な顔を携帯電話から上げて、佐川をまっすぐに見つめた。デリカシがなさ過ぎただろうかと冷や汗をかいても後の祭りだ。気まずいような気持ちで、佐川は神坂をみつめ返す。
神坂は至近距離であるにも拘らず、空気が鳴るほどの結構な勢いで、佐川に何かを投げつけた。それでも難なく手のひらに受け止めたのは、金属片。複雑な形をしたこの家の鍵だった。
「いい子だから、おとなしく言われたことだけやれ」
「……はい」
静かに、佐川の部屋から神坂が出て行った。
独りになって、佐川は無性に申し訳ないような気がしてきた。人の性癖はそれぞれだ。最近じゃ、精神と身体の性が一致しないことで苦しむ人の話題をよく耳にする。仮にそういう病でなかったとしても、一人で筋肉と話をする佐川と、自分の家で女装する神坂に、どれほどの違いがあるというのだろう。
佐川は謝りたいと思って、煩悶し、なんて言えばいいのだろうかと小一時間悩んだ。社交性に乏しい性格は、こういうときに損だと思う。
「余計なことを言って、すみませんでした」
親しき仲にも礼儀ありという。ましてや今日初めて会った歳上の人に、この上なく個人的な部分に踏み込んで質問した。反省するべきだし、謝るべきだ。
結局シンプルが一番だろう。佐川は口の中で何度かそのセリフを繰り返し、寝心地抜群のベッドから降りた。
気合を入れるために、大きな鏡にギュウッと筋肉を盛り上がらせた自分の姿を映す。あとできっちり今日の分のトレーニングをしなければ。
意を決してドアを開けると、ちょうど神坂が通りかかったところだった。
佐川は開けたドアに額を強く打ち付けて、危うく|眼鏡《飯の種》を壊すところだった。神坂がヒラヒラの裾の長いネグリジェを着て、頭にふわふわしたヘアバンドを巻いていたからだ。
「風呂、空いたぞ」
「……はい」
「見るのはいいけど、触るなよ」
「触りません」
「風呂、たまには覗け」
「……努力します」
神坂はひとつ頷いただけで、廊下の先にある自室へ向かおうと再び歩き出した。佐川は慌てて彼を呼び止める。仰向け気味に振り返る神坂は、角度に寄っては本当に女の子のように映った。
「あの、すみませんでした。ズケズケと、余計な事を聞いて」
「……」
「あの……俺あんまり、社交的じゃなくて、空気読めなくて」
「……」
「失礼なことがあったら、容赦なく怒ってもらっていいんで」
「トラ吉よ」
「はい」
神坂はようやく身体ごと佐川の方を向いた。腕を組んで、ツカツカと廊下を引き返してくる。足元は、歩きにくそうだと心配になるほどモコモコした、薄いピンクのスリッパだ。なので正確には、ツカツカではなくポフポフだ。佐川は鉄拳制裁を覚悟して、腹に力を入れた。
「僕と一緒に住むのなら、余計なことを詮索するな」
「……はい」
「でも、必要以上に気を使わなくていい。お前は馬鹿じゃない。ちゃんと僕の機嫌をとれるだろう」
「……はい」
「朝は言ったとおり、お前が寝ている間に出勤する。リビングにカードを置いておくから、冷蔵庫を充実させておいてくれ。料理はしないから、食材は要らない。飲料と、加工食品……適当に。僕の好き嫌いは考えなくていい」
「はい」
「食事は、僕の帰りを待たなくていい。先に風呂を使ってもいい。ただし、僕が遅くなると連絡しない限りは起きてろ」
「はい。……バイトとか学校のことで、俺の方が遅くなるときもあると思うんですが」
「僕が、お前の都合に合わせて行動すると思うか?」
「……いいえ」
「遅くなるなら連絡しろ」
「はい」
「僕の部屋は掃除しなくていいから、入るな」
「はい」
「おやすみ」
唐突に会話は終了し、神坂はひらりとネグリジェの裾を翻して、ポフポフと音を立てながら、今度こそ自室へ入ってしまった。
佐川は神坂の性格を掴みあぐねていた。突拍子もないことを言うくせに、佐川の無知ゆえの失礼を咎めることはない。一方的な取引だけど、要求は明快で後腐れがない。彼の引く、見えない線さえ侵さなければ、神坂はもしかしたら、とても付き合いやすい人なのかもしれない。
佐川はドアを閉じて、条件付で自分が得た寝場所を見渡した。大きな窓から眺められるのは、市街地のネオンの瞬き。寛げるベッドと、大きな鏡。それらを置いても余裕のある床面積。
女装は何とか慣れそうだと思った。幸いにも神坂は美形で細い。女物の服を着ていても、吐きそうに醜悪ということはないだろう。むしろ、さっきのネグリジェはよく似合っていた。学校で見かける、着飾り塗りたくり奇抜な服を着た女子たちより、よっぽど綺麗で清楚でさえある。スカートやリボンを身につけた神坂を目にしても、受け入れられる気がした。
買い出しをするのもそれほどの苦労ではない。何せ駅前という好立地だ。スーパーもデパ地下もある。食材を買うわけではないのだから、毎日買い物する必要もない。掃除や洗濯や片づけだって、元々綺麗好きなほうだから義務感さえない。
そんな風に整理すると、あの、公開自慰という正体不明の話さえ、実はそれほど大したことではないのじゃないかと思えてきた。
佐川だって、自己処理はする。小さな携帯画面でエロ動画を再生して、食い入るように見つめながら処理する。どちらかと言えば頻繁だ。
多分神坂は、エロ動画の代わりに、無表情で眼鏡の、冷静な細マッチョを見て、見られるのを意識して、同じように処理するのだろう。視界に入れるものが違うだけで、結局チンコ擦るだけだ。それを見るぐらい、どうということはない。
佐川はそう結論付けると、なんだか急に気が軽くなって、張り切って自分に課したトレーニングを始めた。
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