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第4話
佐川が神坂の家に住むようになったのは水曜日の夜だった。翌日の木曜日の帰りには、ゼミ室の一角を占領していたバーベルとその他の荷物を持って帰った。その日はバイトがなかったので、家の中を色々と見て回り、掃除道具の在り処を確かめ、冷蔵庫の中身を把握した。
その後、佐川は与えられたカードを持って近所のスーパーへ買い物へ行った。肉売り場に直行し、パックに入っていない状態で計り売りされている高級肉を視姦していたけれど、冷静に考えれば焼いて食べるしか手立てがない。もったいないだろう。晩御飯は一人だし。
なので結局、夕飯として出来合いのお惣菜を買った。遅くなるという連絡はまだないので、神坂の分も買い、ビールや水やお茶を買い、明日の朝食べるパンも買った。バターは高そうなのが冷蔵庫にあったので必要ない。
大量の食品は非常に重かったけれど、マンションは近いしいいトレーニングだ。
早々に帰宅して、言われた通り冷蔵庫のストックアップを完了し、そのまま自分に与えられた部屋と廊下をモップで拭き、リビングとダイニングとキッチンには掃除機を掛けた。掃除機は、小さなダンベルと一緒に手に持って、上げ下げしながら部屋をうろつく。僅かなことではあるけれど、筋肉を動かしながらだと大抵のことは苦にならない。
寒い冬間近とはいえ、暖房のよく効いた家の中で家事をすれば汗をかく。佐川は風呂掃除ついでにシャワーを浴びて、買って来たお惣菜でビールを飲んで夕食とした。
筋肉を鍛えて増やすことに熱心ではあるけれど、食事制限などには無縁な生活を送っている。トラは好きなものを食べているからだ。ビールは飲んでいないと思うけれど。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
リビングで、芸人がトラと闘うバラエティ番組を見ていたら、神坂が帰ってきた。時間は九時三十分。予告どおりの行動パターンだ。
音を聞きつけて玄関に出迎えに行った佐川を、神坂は怪訝な表情で見た。
「起きてろって言ったのは、僕を出迎えろって意味じゃない」
「ああ。たまたまです」
「あっそ」
「飯、一応ありますけど食いますか」
「作ったの?」
「や、お惣菜。でも、悪くなかったです」
「……自分でするからいい」
「はい」
服装の良し悪しは、佐川にはわからない。とっても高いスーツがあるのは知っているけれど、それがどんなものなのか、どこへ行けば買えるのか、どうして高いのかなどわかるはずもない。だけど、神坂の着ている物が上等そうだということは知れた。鞄も綺麗だ。革がピカピカしている。ありがちなナイロンのショルダーバッグに申し訳程度の合皮の取っ手、なんて代物とは程遠い。モノもいいのだろうけれど、きちんと手入れされている。
神坂はその鞄を玄関先に置くと、佐川に背中を向けるように座り込んで、丁寧に靴紐を解いて靴を脱いだ。その靴もピカピカだ。
佐川は無言でその鞄を持ち上げた。ずっしり来るけれど、持ち手の感触は柔らかい。
「おい?」
「運んどきます」
「……」
居候なわけだ、佐川は。だから小さなことでも、差し出がましくない程度には率先して片付けようと考えた。社会に出て働く事のストレスや疲れはまだわからないけれど、重い鞄を提げて帰ってきて、僅かな距離でも運んだほうが神坂は楽だろうと思った。
リビングのソファにその鞄を載せたところで、神坂が入ってくる。
「よくわからない奴だな。僕の機嫌をとってるの?媚びてるの?欲しい肉でもあるの?」
「あ、肉。家で食べてもきっと味気ないんで、買いませんでした」
「勝手にしろ」
ネクタイを緩めながら、神坂はキッチンへ向かった。今度は佐川がその後を追う。案の定、真っ先に冷蔵庫の中身をチェックされている。
「これ何?」
「どれっすか?ああ。それがマリちゃんの分の夕飯です」
「あっそ」
「温めましょうか。ビールも一応買ってきて。キリン派っぽかったんで、キリンで。すみません、自分のも買っちゃいました」
「好きにしていいって言っただろう。ビールぐらい樽で買え」
「売ってんすか!?樽が売ってんすか!?」
「知らない。なんで樽に反応してんの?」
「樽、重くていいなぁと思って。欲しいなぁ」
冷凍庫は空に近かったので、冷凍食品の必要性が察せず補充していない。一応ロックアイスだけは買っておいた。戸棚にウィスキーと焼酎のボトルがあったからだ。そう話すと、神坂は冷凍食品はあれば食べるし、なければないでいいと言う。
「こんなに一度に、重くなかった?」
「トレーニングのウォーミングアップには丁度いいです」
「……僕、トマトジュース飲むから、今度買っといて」
「了解です。塩ありですか?」
「無塩」
「はい。他には?」
「あれば言う」
「はい」
高校生の頃、母親や姉と妹にうまく言いくるめられて、よく買い物に付き合わされていた。荷物持ちだ。その経験がこういう風に役立つとは、人生何があるかわからないものだ。
佐川はお惣菜のパックを取り出して、冷蔵庫を閉めた。神坂は何も言わずに、自分で出したビールをその場で開けている。
「皿とか、結構ありますよね。誰か来たりするんですか?」
「貰い物がほとんどだ。誰も来ない。お前も、人は連れてくるな」
「はい。そこまでご迷惑は掛けません」
「もし樽を見かけても、その場で遊ばせてもらえ。持って帰るな」
「……」
「返事は」
「……はぁい」
佐川はパックの中身を皿に移して、電子レンジに放り込む。最近さらに目が悪くなってきたのか、眼鏡をしていても字を読もうとすると、きゅっと眉間に皺が寄って目を眇めてしまう。ブリッジを押し上げて、「あたため」の文字を確認してから押す。
「トラ吉」
「はい」
「自分でする。お前、風呂は?」
「お先に頂きました」
「じゃあもういい。テレビ見たきゃ見てろ。僕は」
「マリちゃん」
「何?」
「俺も、ビールもう一本飲もうと思って」
「……好きにすれば」
初めての自宅での晩餐は、無言の時間となった。神坂の心中はわからないけれど、佐川は元々無口なほうなので、静かなのも気にならなかった。
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