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第9話

 こんなにバリエーションがあるのか、と佐川は感心させられる。使う小道具も、体勢も、佐川のような一般男性のやり方とはやはり一線を画すらしく、何度付き合っても慣れるということがない。毎回同じだとしても慣れるとも思えないけれど。  今日の神坂はソファに座らず、床にしゃがみ込んでいる。広いリビングには床暖房が設置されていることもあって、ラグは敷かれていない。フローリングむき出しのところに、吸盤らしきものがついたオモチャを床に突き立てて固定し、そこに腰を落としている。  趣味に耽る神坂は、相変わらず普段からは想像もできないほどかわいい声を出す。両手はシックな紫のスカートの裾を広げるように持ち上げて、おかげさまで下半身は丸見えだ。もし隠れていたなら服を汚すだろうから、合理的……なのかもしれない。 「ん、あ、あぁ……!」  ぎゅうっと裾を握り締めた手を、感極まったように口元に持っていく。小さな口から、甘い声が零れ落ちて、その隙間にハフハフと吐息が漏れる。床に視線を落として、両膝を立てている様子は、よくできたアダルトビデオのようだ。股間で男性器がフラフラしている事を除けば、売れるかもしれない。  佐川はソファに座って、神坂を見ていた。位置的に、見おろす形になる。神坂はかわいい声をあげながら、艶かしいとさえ思える腰つきでオモチャを出し入れしている。  女が男に乗っかって、巧みに腰を振るというのは、佐川も好んで観るシチュエーションだ。今の神坂の動きはまさしくそれだ。 「は・く……!は・く……!んく……!」  ガクガクと震えながら、神坂は床に膝をついた。イったようだ。佐川にとって、イクというのは射精とイコールだけれど、神坂の場合は違うらしい。潮を吹いてイクこともある。これは女……主にアダルトビデオというファンタジーな世界の現象だけれど、それと近いようだ。何も出さずにイクこともあるようだけれど、さすがによくわからない。今回は、普通に潮を零した。床にポタポタと液体が落ちる音がする。  これも神坂の趣味を通して知ったことだけれど、性器に刺激を与えなくても、性的な達成感を得られようだ。現に神坂はほとんどチンコを触らない。そしてそうやって達すると、精液を出さない事が多くて、そうなると結構立て続けにイケるようだ。  神坂はスカートの裾を噛み、両手も床について自分の身体を支えて、さらに尻を振って自分を追い詰めている。チラリと見える白い歯を食いしばって、思うように出せない喘ぎ声が鼻から抜けて、甘いため息になって吐き出される。後ろでひとつに結ばれた髪が乱れて、短い髪が頬にかかって揺れている。  なんとなく、猿轡を連想させて、佐川はちょっと動揺した。んーんーと苦しげに呻く神坂は、佐川の動揺をよそに、ぎゅうっと目を瞑って、またしても達したようだ。  ヒクン、ヒクンと痙攣を繰り返して、俯いたまま荒い呼吸を繰り返している。ゆっくりと開けた口から、スカートがはらりと落ちて、彼の下半身を隠す。幕が降りたように、彼の自慰も終わる。 「は……」  佐川は、神坂の自慰の後は水を持ってきたり、ティッシュやタオルを渡したりする。終わったらしいので、いつも通り佐川は無言で立ち上がり、冷蔵庫へ向かおうとした。 「トラ、いい」 「……はい」 「もう、いい。寝ろ」 「はい」  神坂はさっさと自分の後始末にかかっている。こうなると、自慰の最中の様子は幻かと思える。乱れた髪に手をやって、オモチャを体内から抜き去り、気だるげで緩慢な動きで息をついている。佐川の様子は気にもしていないようだ。  佐川は、拒絶されたような気分だった。神坂が佐川を見ないからかもしれない。 「……おやすみなさい」 「うん。おやすみ」 「あの」 「なんだ」 「……いえ」  見とけと言われる限り、佐川は黙って見とくしかない。終わりだと言われれば、彼に付き合う必要はない。  何故、彼は最中に自分を見ないのか。それはきっと、彼にとって佐川は自慰の道具の一つで、発達した筋肉を持った眼鏡の男でさえあれば誰でもいい、そこにおとなしく座っていればいいだけの存在だからだろう。  それを承知でこの話に乗ったのに、むしろ距離を取りたいと考えていたのに、佐川は最近それが受け入れがたく感じていた。だけど、そう神坂に伝えることはできない。  釈然としないまま、佐川は自分に与えられた部屋に引き取り、暗闇の中で深いため息をついた。  一時限目の講義を終えて、食堂でバイトのために腹ごしらえをしていたら、声をかけられた。同じ学部の、よく話をする友達数人と、彼らの後ろに見たことのある女の子たち。 「佐川ー探したーメール見ろよー」 「悪い。飯食ってた」  謝る佐川の周りを囲むように、彼らはガヤガヤと席に座る。先日の展示品の女の子たちだ。自分のテリトリである学内で見ると、なんだか違う人のように感じる。佐川はそう思いながら食事を終えた。 「どうしたの?みんなでどこか遊びに行くの?」 「おー。お前も来ない?」 「ごめん、バイト」 「そっかぁ」  学友は自分の隣に座るナントカちゃんに、「ね、バイトだって」と話している。彼女の顔はあまり記憶になかったけれど、突き出した立派な胸部には見覚えがあった。巨乳ちゃんは拗ねたような顔で佐川を見る。 「佐川君、超バイトしてる感じなんだ?」 「そうだね。ごめんね」 「ちぇー。せっかくここまで来たのに、つまんなーい」  なんて思わせぶりなんだろう。まるで佐川に会いたくて来た様な口ぶりだ。だけど、事前に連絡をもらったのは佐川の友人なのだから、彼女の気安い態度は万人対象なんだろう。いや、男相手だけかな?  バイトまで、まだ少し時間がある。佐川はそのまま雑談を始めた彼らと一緒にいることにした。友人たちはそれぞれに意中の女の子を決めているようだ。佐川の周りに三組の男女。疎外感は不思議とない。  やがてありがちだけれど、話題は共通の知人、すなわちここにはいないけれどこの間の展示会にいた女の子の話になった。三人の女の子がいっせいに声が高くする。 「カオリでしょ?あの子新しいバイト、始めたからー」 「あーだよねー、だし、夜遊ぶのは無理って感じー」 「へぇ?何のバイト?」 「えー」  意味深な目配せと、優しくはない口元の笑み。佐川は潮時かと思って、腕時計を確認した。それを察したらしい彼女たちは、佐川の気を引くように、ペラペラと喋り始める。 「ってゆーか、キャバ嬢だよ」 「うわー。そんな感じに見えなかったけどなぁ」 「はは。男子って、見る目ないよねーだからカオリ、結構とっかえひっかえで」 「そうそう。見た目ちょっと、地味じゃない?でも二股とか平気だし」 「貢いでもらったりしてたけど、結局お金欲しくてキャバ嬢。ウケるよね」  男性陣は若干引きつつも、キャバ嬢へと転身を遂げたカオリの情報を面白そうに聞きだしている。  そもそも佐川の通う大学に、女子学生は少ない。一学科に数人という程度だ。やはり難度の高い理系大学になればなるほど、未だに女性進出は捗捗しくない。学校側も在校生も、門戸を目いっぱい広げて、手招きして待っているのだけれど。  だから、学友たちは女の子の知りあいも少ないし、ましてや現役キャバ嬢など芸能人のような存在だ。遠慮もへったくれもなく下世話で下品な詮索もする。女の子たちは面白ければ何でもいいらしい。 「キャバ嬢って儲かるの?ま、普通のバイトよりはいいだろうけど。夜中働いたら学校とか行けなくない?」 「だから来ないよ」 「え。卒業できるの?」 「だって先生も男だし?」 「だよねー。コスプレ?なんか、そういう変わったキャバクラらしくて、普通より時給がいいらしいよ」 「女って……すごいね」  顔を引きつらせながら、学友の一人は何とか無難な言葉を口にした。佐川は帰るきっかけをなくして、聞くともなく彼らの話を聞いていた。そして、頭に浮かんだのは神坂のことだ。  コスプレ?あの、アニメのキャラクタや制服を着る職業の人たちの格好をするやつだよな?……女装はその範疇に入るのだろうか? 「男がそういうところでお金使うから、カオリみたいなのが儲かるんじゃん」 「そうだよ。すごいいいマンションに引っ越したらしいよ?」 「そうそう。それに、男だって、今オネエとか流行ってるし、やろうと思えばできるんじゃない?」 「えー無理無理!俺、ホモとかオネエとか、無理だもん。テレビに出ててもチャンネル即行変えるし!」 「俺も無理~」 「俺、帰る」 「え?佐川?もうバイト?」 「やだー、佐川君、ほんとにバイト行くの?」  佐川は自分の荷物を担ぐと、彼らの声を無視して食堂を出た。自分の頭に浮かんだ考えが、馬鹿馬鹿しすぎて笑えない。  そんな事があるはずがない。あんなに潔癖そうで、プライドが高そうで、意外なほど公私をきちんと分けるらしい神坂に限って、自分の趣味を見ず知らずの人間に……そこまで考えて佐川は立ち止まった。  潔癖そう?プライドが高そう?公私を分けるらしい?  そんなものは全部佐川の想像だ。自分は神坂の引く線の向こうを知らない。それどころか、名前さえ知らない。  あの金払いのよさはどこからくるんだ?本当に会社からの給与が高いのか?本当に毎日あんなに遅くまで会社で仕事をしているのか?時々休みの日に出かけるのは、本当に休日出勤なのか?彼が不特定の人間と、女の子の格好のまま交流したいと考えていないと何故わかるんだ?  何も、知らないのに。  神坂は初対面の佐川を自分の家に引き込むことを、躊躇わなかった。いとも簡単に自分の秘密の趣味を暴露した。彼は佐川が思うほど、自分の性癖を隠してないのじゃないか?手越だって知っているのだ。そしてきっと手越は、神坂のフルネームを言えるだろう。  佐川は、今さらながらに自分があの家にいる意義を思い知る。喋らない自慰の道具。それが神坂が佐川に望むことだ。 「やめよう」  考えるな。考え出せば居場所はなくなる。ただひたすらに、言われた事をしていればいい。家賃も光熱費も食費も要らない生活を守れるのなら、素性を明かさない男の趣味に付き合うくらい何でもない。余計な詮索は、誰も望んでいない。  佐川は何度も自分に言い聞かせ、小さく頷き、ようやく自転車置き場に向かう。  この自転車に乗って、バイトへ行こう。多分今日は、神坂の方が帰宅は早いだろう。冷蔵庫には言われた通り食べるものがたくさん入れてある。彼は佐川を待たずに食事をして、自分の気が向いた時に風呂へ入り、佐川が帰ろうが帰るまいが、眠くなれば寝る。佐川はその部屋の中さえ見たことがない。でもだけど、それが何だと言うのだろう。 「黙って見とけ、ですよね」  それが、佐川にとって絶対の言いつけだ。死守という言葉が似合う、不可侵の線なのだ。  死んでもそれを守り切り、彼のそばにいたい。こんなにいい生活はないのだから。

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