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第40話
正月気分も抜けた一月末。佐川は仕事を終えると、愛車を漕いで、白い息を吐きながら夜遅くに家に帰った。
鍵を開けて部屋のドアを開けると電気がついていた。つけっぱなしで行ったはずもない。驚いて飛び込むと、玄関には見慣れた靴がきちんと揃えてある。ごくごく短い廊下の向こうの部屋に、神坂が膝を抱えて座っているのが見えた。
「史織くん!?」
佐川は慌てて鍵を閉めながら靴を脱ぎ、手にしていたバッグも放り出して神坂のそばに膝をついた。神坂はコートも着たままで暖房もつけずに、佐川を待っていた。
「あ……おかえり。……ごめん。急に来て、連絡もなしに」
「そんなのいいです。どうしたんですか?何があったんです?」
「えっと……飛行機だったから、携帯切ってて」
「ううん、史織くん。それはいいです。この部屋に史織くんは、いつ来てもいいんです。連絡ないのは、いいから」
「うん。ありがと」
「寒いでしょう?大丈夫ですか……何時に来ました?」
佐川は神坂を抱き寄せ、部屋の暖房のスイッチを入れた。神坂は、じっと佐川の顔を見つめている。神坂がこんな風に突然、何の前触れもなく家にいたのは初めてだ。
佐川が就職してもうすぐ丸三年になる。今から行くとか、そういうことはお互い、何度かあった。だけどそういうときでも、神坂は必ず「いいか?」と佐川に了解を求めていた。佐川が否と答えたことは一度もない。だからこそ、この状況は尋常じゃない。
佐川は神坂の手をそっと握った。
「トラ……」
今日は金曜日だ。神坂が来るのはたいてい金曜日の夜で、土日を一緒に過ごして日曜日の晩に帰るのがほとんどだ。だけど今日は月末で、いつもなら神坂の仕事が終わるのはもっと遅いはずだ。最終の移動手段に乗れるとは思えない。もし乗れたとしても、だったらまだ、この部屋には着いていないはずだ。佐川も今日はいつもより帰りが遅くなった。会社に行ってないのだろうか?しかし神坂はスーツを着ている。
頭をめぐる疑問を、佐川はとりあえず放り出し、神坂にキスをした。唇はあたたかくて柔らかいけれど、手のひらを当てた頬は冷たい。髪もひんやりとしている。佐川は膝で神坂に近寄り、神坂が背もたれにしているベッドに押さえつけるようにして何度もキスをした。神坂が、佐川のネクタイを引っ張り、コートの襟を掴み、身体を離そうとしないのが、妙に心配になる。
「史織くん」
「うん……ごめん。話があって、電話すれば済んだんだけど、なんか、気が付いたら空港で」
「話、ですか」
「うん」
神坂が、佐川のごっつい身体に腕を回し、肩に頬を押し付けるようにして抱き付く。佐川もそんな神坂をしっかりと抱き、よいしょと持ち上げてベッドに座らせた。
「何の話です?」
「……僕、四月から、大阪」
「…………え?」
「転勤、こっちに。それで、内示があって、でも内示だけど決定事項で」
「ちょっと待って!?」
佐川は思わず神坂の両肩を掴んで引き離し、顔をのぞき込んだ。神坂は少し目を泳がせて、同じセリフを繰り返す。次の春から、本社に転勤なのだと。佐川は一気に高ぶる感情に、手が震えた。
「……また一緒に、住むか?その……僕と」
「当たり前でしょ!?」
「……うん」
「あぁ……!もう、どうしよ!?嬉しすぎて、俺、泣けて……」
「馬鹿」
「馬鹿でいいですっ」
こんなにすごいニュースがあるだろうか?佐川の務める企業は、神戸にしか研究所を持っていない。だから、遠距離恋愛を解消するには神坂の転勤か、どちらかの転職しか道はなかった。
お互い一度もその話をしたことはない。佐川は、神坂に転勤して欲しいなどと、思いはしても言うべきじゃないとわかっていた。神坂も会社に異動願を出したことはない。
神坂は今の職場に満足していたし、やりがいもあった。恋愛などという至極個人的な事情で、仕事を変わるというのがなんだか違和感があったのだ。
親の介護や結婚や出産や、そういう事情で職場を選ぶことは理解できるけれど、たかが恋愛だ。しかも、相手は男で年下で、離れてからも一度たりとも、また一緒に暮らせたらなどとは言わない。
自分が勝手に動くのは違うような気がしていた。それでもずっと、さみしくて、いつかまた、そう思いながら過ごしてきたのは事実だった。
今日は朝から会議に出ていて、その後で室長に呼び出されて内示を受けた。誰の目にも明らかな栄転だ。今までしてきた研究とは違うチームに配属されるけれど、所長はいい経験になりますよと笑っていた。いい給料をもらえるし、本社は建て替えたばかりで綺麗です、とも。
神坂は頭を深く下げて、礼を言うしかできなかった。所長が自分のために動いてくれたのだということは言われなくてもわかった。もちろん、遠距離恋愛をしているなど知る由もないだろうけれど、本社が人材を欲しがったときに、神坂を推してくれたのだ。年次から見れば、異例ともいえる抜擢。神坂は自分の華麗な昇進ぶりよりも、大阪への異動に驚いていた。
運命なのかな。
そんなくだらないことが頭をよぎる。見えない力が働いて、また佐川のそばにいられる。離れている間に、幾度となく別れることを考えた。辛くて苦しくて、佐川もこんな思いをしているのだろうかと思ったら、手を放すべきなんじゃないかと何度も悩んだ。一人で涙もたくさん零した。
そのたびに、何も言わないのに、佐川は察したように電話をくれたり、突然帰ってきたりした。太い腕で分厚い胸板に神坂を抱き込み、何度も言い聞かせるように、俺だけの史織くんでいてくださいねと囁いた。
運命なんだ。
そう考えたら、仕事を定時で終わらせて空港にいた。こんなに強烈に、佐川に逢いたいと思ったことはない。佐川の気配の残る部屋で彼の帰宅を待ちながら、それでもまだ実感がわかなくてぼんやりしていた。
だけど、佐川の顔を見た途端、抱きしめられて、体温を感じたら、離れたくないとこころの底から思った。神様、ありがとうとさえ、思った。
「待ちきれない……マジで。はぁ……どうしよう」
「うん、僕も」
「ね……ずっと、無理かなって思ってたから我慢できましたけど、あとちょっとが待てないですね」
「部屋、探さないとな」
「はい。あー……やばい……本当に、嬉しい……」
「トラ、ごめんな」
「なにが?急に来たことなら、いいんですよ」
「じゃなくて。…………待たせて」
神坂がこだわりなど持たずに、さっさと大阪への異動願を出していれば、もっと早くに一緒に暮らせていたかもしれない。今こうして、変化の決定を受けてみれば、どれほどそれを待ちわびていたかがよくわかる。どれほど佐川が辛抱してくれていたかも、身に染みる。
佐川は優しい無表情で、神坂の髪を撫でた。
「待った甲斐がありましたね。いつ捨てられるんだろうって、緊張してた時もありましたし」
「は?そんなこと、言わなかっただろう」
「言いませんよ。意地ですね、言ったら史織くんが困るのはわかってましたから」
「うん……うん」
「俺が史織くんのとこに帰ったら……史織くん、嬉しそうに笑うんですよね。それ見たら、もっとしっかりして、別れたいなんて言われないようにしないとって、ムキになってました」
「嬉しいんだもん」
「はい。その分、帰るときがね?……ね」
「うん……」
「よかったぁ……ほんっと、嬉しい……」
神坂を残してこの部屋に戻るときが、佐川は一番つらかった。何でもない風を装う神坂の目が揺れて、自分を見る。それだけで胸が締め付けられる思いだった。神坂の気持ちに気付かないふりをして、佐川も何でもない風を装い、またねと言うだけ。
引き止められたら、絶対に帰れない。それを知っている神坂も、死んでも引き止めることはない。二人のやせ我慢が、この三年間、どうにかこの関係を護ってきたのだ。
「史織くん……ずっと、ずっと、俺さみしかったです」
「うん」
「ようやく、言えた。もうすぐ、さみしくなくなりますね」
「ああ。もうすぐだ」
佐川は小さな音を立てて、何度も神坂にキスをする。少し温まり始めた部屋で、照れくさそうに笑い合いながら、二人してようやくコートを脱ぐ。ネクタイを緩めて、居心地のいい場所を探して身じろぎをし、神坂は佐川の腕の中にすっぽりと納まった。
「はい、これ」
「なに」
「俺の給与明細です」
「……うん」
昨日までなら、別に興味ないと一蹴しただろう。しかし神坂は、おとなしく佐川の差し出したスマートフォンの画面を覗いた。直近三ヶ月の振込明細が表示されていて、神坂が予想していたのよりも、少し多かった。賞与もまとまった額をもらっている。神坂は顔を上げて、佐川のほうに微笑みかける。
「いっちょ前に稼いでんのな」
「はい。俺ももう、大人ですから」
「うん。頑張ってるじゃん」
「だから、家賃は折半です」
「…………わかった」
神坂は、佐川がすごく成長したんだなと感慨深かった。もう自分が生活の面倒をみる必要はなくて、小遣いの心配をする必要もなくて、対等に一緒にいられるのだ。それは、佐川が長年望んでいたことだった。
「ふふ……どこに住もっか」
「史織くんの会社は、大阪のどこですか?」
「市内」
「電車で行くんですよね?じゃあ、大阪市内に住みます?」
「お前が自転車で通勤できる圏内の、駅に近いトコでいい」
「はぁ」
「こっちの方が、家賃ちょっと抑え目かなって思うし。この辺から大阪市内まで電車だとすぐだし」
「えっと、路線図があったはず……」
「出せ出せ」
まだ内示が出ただけで、決定ではあっても具体的な異動のスケジュールはわからない。だけど、二人とも、さっさと引っ越すつもりでいた。言葉に出さなくてもそれは一致した意見で、佐川だけが先に住むことになるだろうけれど、今すぐにでも。佐川は情報誌に付いていた、近畿一円の路線図を引っ張り出して、小さなテーブルに広げる。
「JRと私鉄、どっちがいいですか?」
「僕の会社の最寄り駅は、JRと地下鉄なんだ。えっとね、ここ」
「ああ、じゃあ、ここかここ?この辺までなら、俺、チャリ通できます」
「んー……かなぁ?もう一個、こっちに寄ってもいいけど」
「明日、駅の周りの下見に行きましょう」
「うん」
「時間があれば不動産屋も行きましょう」
「うん」
「どんな部屋がいいですか?」
「かわいくて、壁が厚い部屋」
「俺もそんな部屋がいいです」
その晩は、ただひたすらお互いを抱きしめあっていた。身体を繋げずに、好きだと言いながら身体を撫でる。後たった数か月で、また一緒に暮らせる。この数年の鬱積していたものが、晴れていくような晩だった。
その後、神坂は正式な辞令を受けて、大阪本社への転勤となった。送別会は残業の少ない水曜日に行われ、長年いたチームからは、涙とともにお祝いの言葉を貰い、普段ほとんど泣かない神坂もさすがに号泣した。
それを勝手に撮影していたコバヤシが、今日職場で、昨日の史織さん動画ー!とか騒ぎながらみんなに見せていた。佐川が聞いたら勘違いしてブチ切れるようなセリフだ。
その動画を、せっかくだからと神坂のスマートフォンに転送して寄越す。あまりの泣きっぷりが我ながらおかしくて、神坂も面白がってそれを佐川に転送すると、夜に電話がかかってきて、俺の前でもこんなに泣かないのにと佐川は非常に不機嫌だった。
「ってゆうか、僕、お前の前で泣いたことないだろ」
「…………」
「おーい。トラ君は、誰と間違えてるのかなぁ?」
「…………」
「もしもーし。聞いてんのか、こら」
「ああ、そうですね。間違えました。なんか、俺にぎゅーって抱きついて、もうだめーっとか、もうやだーってしょっちゅう泣く、超かわいい人がいるんですよね。その人と間違えたっぽいです。すみません」
「てめ……っ!!」
「おかしいな。なんで間違えたのかな。史織くんはそんなことしませんもんね?」
「エロトラの大馬鹿!そういう恥ずかしいこと言うな!!」
「はーい」
神坂の異動が決まって以降、佐川の機嫌は上々だ。三月最後の週末である今週の土日に、神坂の引っ越しを手伝いに佐川は帰ってくる予定だ。神坂は今日で東京支社での業務を終え、明日の金曜日は有休をもらって、日曜日に神戸へ引っ越す。数年前まで毎日のように引っ越し作業をしていた佐川がいれば、あっという間にパッキングも終わるだろう。そう思って、神坂はまだ段ボール箱さえ組み立てていない。佐川が見たら呆れるだろうか?ちょっとだけ、困らせたい。一応明日、少し梱包するつもりではいるけれど。
佐川はすでに、神坂と二人で住む予定の、広くて壁紙のかわいい、壁の分厚い部屋に住んでいる。二人で決めた部屋は、この部屋よりも居心地がよくなりそうだ。
「トラ、明後日、何時だ?」
「迎えに来てくれるんですか?」
「おう。もう、これで最後だから、空港まで行こうかな」
「そうですね。でも、すみません」
「ん?」
その時、玄関で物音がした。神坂がびっくりして固まっていると、のっそりと佐川の巨体がリビングに現れた。は!?
「残念。史織くんに出迎えてもらう最後の機会を逃しましたね」
「な……な……」
「俺ももう、三年目ですから。最終の新幹線に乗れる時間に、仕事を片付けたりできるんです」
「や……そうじゃないだろ!?一日間違ってんぞ!?今日は」
「三年目にもなると、有給も取れるんです」
「…………」
「何なら、泣いて喜んでもらってもいいんですが」
「馬鹿じゃねぇ!?」
「すみません。えっと、ただいまです」
無表情に眼鏡のブリッジを押し上げて、佐川が神坂を見る。神坂は返事もせずに、佐川に突進した。ただひたすら、こんないい男はいないと思った。
その日の晩は、ほとんど会話らしい会話もなくベッドに直行した。翌朝、目が覚めてから、佐川は神坂の部屋を見回し、洋服一枚梱包されていないのを見て、盛大なため息をつく。
「史織くん……明後日には、引越し屋のトラックが来るんですよ?」
「だって、今日一人でするつもりだったのにトラが帰ってくるし、そんなに言うほど荷物もないし、どこから手を付けていいかわからなかったし、家具とかはやってくれるっていうし、最悪入れっぱなしでも」
「俺、史織くんの収納部屋に、ほとんど入ったことないですけど、タンスじゃないでしょ?ウォークインクローゼットでしょ?部屋ごとは運べませんよ」
「うー」
「世話の焼ける人だな……」
「今、僕の悪口言ったの?」
「いえ。のろけただけです」
「……あっそ」
腕の見せ所だぜ、と佐川は思った。かくしてとっとと起床し、神坂が見惚れるほど手際よく、段ボールを立てては荷物を詰めていく。引越しは佐川が長年バイトしていた業者に頼んだので、普通は借りられないような業者用の梱包ケースなんかも届いていて、それらの使い方を熟知している佐川の手にかかれば、家じゅうの荷物なんてあっという間……
「……なわけないでしょっ!?史織くん、やっぱり荷物多いですよっ」
「えーだってー」
「捨てるものはまとめました?」
「あ、うん。もう捨てたの。この間テレビにさ、誰でも片づけられるようになりますって力説する女の人が出てて、その人の言うとおりにトキメキを基準にな」
「トキメキ基準?さっぱりわかりません。要るか要らないかでしょう」
「だからさー。要ると思い込んでるものでも、トキメカナイなら捨てるべきで、実用性がなくてもトキメクなら置いておくって話だろ」
「はい。わかりました。それで、どのくらい捨てたんですか?」
「段ボール箱に、六……七箱くらい?あとゴミ袋でー」
「多くない!!?ってか、そんだけ捨ててまだこんなにあるの!?」
「トキメキって、大事だよな~」
神坂は佐川の知らないトキメキ何とかというアニメの主題歌を歌いながら、夏物の衣類をハンガーにかけて、ボックスに収納していっている。衣類に関しては、佐川は不調法の極みにあるので、全部神坂に梱包してもらうつもりだ。別に神坂は片付けができないわけではない。独身男性にしてはものすごく荷物が、特に服飾品が多いだけだ。佐川にすれば、見事な収納術だと思うほど、出しても出しても衣類や本が尽きない。
佐川の使っていた部屋も、少ないけれど荷物が残っていて、ベッドのリネンやカーテンを取り外して段ボールに詰める。
お昼ご飯は外で食べて、午後以降も黙々と作業を続け、そしてようやく、夜中にだいたいの梱包作業が終了した。
「すごーい!トラ、すごい!全部できた!すごーい!」
「はい。できましたね」
「うん!よかったー。明日は掃除して、ちょっとゆっくりできるな」
「はい」
神坂も自分に割り当てられた仕事をきちんと終わらせていた。宅配ピザを頼んで、殺風景になってしまったリビングで、遅すぎる夕飯を一緒に食べる。
家具は業者がパッキングして運んでくれるので、ソファとローテーブルはそのままだ。神坂の愛用のクッションは、佐川の手でカーテン類と一緒に梱包済で、"リビング"と箱に走り書きされている。
新しい部屋の間取りも、今とそれほど変わらないので、手放さないといけない家具はない。家賃は折半だという話で進んでいたけれど、神坂の荷物の多さに、当初の「二人の部屋が一つと、それぞれの部屋が一つずつね!計画」は早々に頓挫し、結局神坂は二部屋を使うことになった。なので、家賃も微妙に神坂負担を大きくしてある。とはいえ、端数程度だけれど。
段ボール箱のほとんどはきっちりと中身が詰められ、何が入っているのか書かれている。佐川はふと、リビングの片隅に、何も書かれていない段ボール箱があるのに気付いた。
「史織くん、あれはなんですか?」
「…………僕のトキメキ」
「トキメキ」
「そう。超大事だから、ちゃんと業者さんに自分で渡すの」
「はぁ」
佐川は油まみれの指を拭いながら、中身を想像した。まだ封はされていない。箱をじっと見つめる佐川に、神坂は不機嫌そうに低い声で、見るなと言った。
「僕のトキメキなの。見なくていい」
「…………自慰グッズでしょ?」
「なんでわかったの!?」
「そりゃわかるでしょ……」
いいけどね、別に、今さらだし?自慰に始まって自慰に終わる感が、たまらない充実感をそそる……訳ないけど。
神坂は小さな口をティッシュで拭いて、ビールをぐいぐい煽っている。ああ、かわいい。佐川にとって神坂は、すでに何をしたって結局かわいい人なのだ。
佐川は思わず、神坂の肩を抱いて、好きです、と耳元で囁いた。神坂は嬉しそうに微笑み、僕もだぞと言った。
日曜日の朝早く、引越し業者がやってきた。佐川がずいぶんお世話になった人だという。内藤も一緒にいたけれど、生来の性格ゆえか気まずいのか、ほとんど佐川たちの顔も見ずに作業を始めている。
「佐川ー久しぶりだなー」
「はい。ご無沙汰してます。今日はすみません」
「かまわねぇよ。その代わり、たっぷり働いてもらうぞ」
「はい」
料金を少し安くしてもらって、さらに本来は当日にしか貸してもらえない収納ボックスも事前に借りて、そんな融通をしてもらえた分、今日は佐川も完全にスタッフと化す。ツナギを着て軍手をはめて、頭にタオルを巻いて準備万端だ。神坂はそんな佐川がかっこよすぎて、朝からずっとチラチラ盗み見ていた。
「ま、この現場は楽だよ。お前がちゃんと梱包してて、運ぶ順番も指示くれるんだろ?」
「はい。よろしくお願いします」
「はいよ。で、家主さん?」
「あ、はい。おはようございます。色々計らっていただいてありがとうございます」
「いえいえ……」
尾野は目を細めて、神坂を見る。神坂はここでの作業を全部佐川に任せて、先に新居へ移動するので、普通の私服だ。その整った顔立ちゆえに、よく人の目を惹く男ではあるけれど、尾野は黙り込んで、自分のひげを触りながら、ずいぶん長いこと神坂を見ていた。
「尾野さん?」
「……おー……じゃ、始めるかー」
「はい」
「あ、あの、これなんですけど」
神坂は、小さめの段ボール箱を抱えて、尾野に差し出した。封をされた例のトキメキボックスだ。佐川はその様子をすぐ傍でじっと見ていたけれど、他の作業員から呼ばれて渋々離れていく。
神坂は何事かを尾野に伝えて、その箱を手渡している。荷物を積んだトラックには佐川も乗るのだから、自分に託せばいいのに、と佐川は不満だった。
「じゃあ、すみません。よろしくおねがいいたします」
「了解でーす」
神坂はバッグを携えて、少し大きめの声でスタッフを見回し、軽く頭を下げた。最後に佐川を見て、よろしく、と低い声で短く告げて、さらさらした髪を翻して出て行った。
「佐川よ」
「はい」
「何の知り合いだ?」
「元々、大学の先輩っす」
「へぇー」
それ以上突っ込まれると色々と困るので、佐川はさっさと作業に戻る。大きめとはいえマンションの一室だ。完璧に梱包された荷物と家具を運び出すのに、そう時間はかからず、佐川たちは早々とトラックで関西へ出発する。
途中で昼休憩をとっても、佐川たちのトラックは予定よりも早く新居へ到着した。着いた途端、佐川の段取りでどんどん荷物が運び込まれる。
最初に神坂の衣類の入ったハンガーボックスが彼の部屋に運び込まれて、それらと篭城するかのように、神坂は収納部屋に閉じこもる。その間に他の荷物や家具がテキパキと新しい場所に据えられていき、段ボール箱以外の借り物の収納ケースから開けられていく。
神坂が何とかハンガーボックスを空にした頃、外界での作業もほぼ終了した。がらんとした部屋しか知らない神坂は、浦島太郎の気分というものを初めて味わうことができた。
「ありがとうございました」
「おう。元気でな」
「はい。尾野さんも……内藤さんも」
「はいよ」
「帰り道、気をつけてくださいね」
「はいはい。ありがとう」
内藤はさりげなく神坂に近寄り、小声で何か言っていた。佐川にそれは聞こえなかったけれど、神坂は微笑み、コクコクと何度も頷いていた。だからきっと、いい言葉だったのだろう。
無駄のない、怒涛のような引越し作業は、作業員たちの撤収とともにひと段落した。
「はぁ……僕の荷物多いな……」
「あんまり無理しなくていいですよ。ゆっくり追々、片付ければ」
「うん。ありがと。トラは疲れただろう?休憩したら?」
「久々でしたからねー現場。すでにあちこち痛いです」
「えーそうなの?筋肉ムキムキなのに?」
「鍛え足りてない箇所がわかって、便利ですね」
佐川は軍手を尻ポケットに突っ込み、頭から外したタオルを首に掛ける。髪に変な跡がついていて、ちょっぴり間抜けだ。神坂は手を伸ばして、その髪を撫でてやる。
「ありがと……荷物、上手くさばいてくれて。服とか、見られなくて助かった」
「いえ。実は俺、引越し得意なので」
「ふふ……そうなんだ?」
「はい」
「今日のトラ、全体的に、かっこいいな」
「……よし」
「よしって何だ?」
「かっこいいって言われたかったので、言ってもらえたぜ!の、よし、です」
「そうなの?狙ってた?言っちゃったなー」
おなかが空いたから、ひとまず食事に行こうという話になる。本当は、最初の夜なのだから、少しいいところへ食べに行きたいのだけれど、如何せん家の中がしっちゃかめっちゃかだし、二人とも疲れていた。
物は試しと、マンションから一番近くにある、焼肉のチェーン店に入る。こんなものかーと言い合いながら、悪くないなと腹いっぱいになるまで肉をがっつく。アルコールもほどほどにさっさと家に戻り、神坂は自分の部屋を、佐川は共有スペースを着々と片付けていく。
リビングもキッチンもバスルームも、それほど手間がかかるわけではない。置く物も、置き場所も決まっているからだ。佐川は早々に、神坂の手伝いを始める。
「はあ……いつになったら、二人のベッドルームとかが設けられるんですか……」
新しい部屋で神坂の荷物の開梱を手伝いながら、佐川は悲しそうに呟いた。奮発して大きなベッドを買い、今それぞれが寝ているベッドを処分しようというところまで決まっていたのに、どうシミュレートしても、神坂の荷物は一部屋では収まらなかった。ちなみに、収納部屋は別カウントなので、結局神坂は実質三部屋を使うのだ。
当の神坂は、新しい収納部屋を出たり入ったりしながら、楽しそうにひらひらした洋服を片付けている。肉体労働の多い今日、さすがにスカートは穿いていないけれど、髪を一つにくくって、いつの間にかリボンが巻いてある。佐川はその髪の束が、ピコピコ揺れるのを見ては、にやつく。
大分収まりはついたけれど、まだいくつか中身の入った段ボール箱が残っている。
「だから言ったじゃん。4LDKにすればって。それか、DがなくてKが簡易になっても、四部屋ある方がいいじゃんって」
「家賃見ましたよね!?高すぎだったでしょ!?第一、部屋が四つもあるのに、簡易キッチンなんてそんなバランスの悪い物件なかったし!」
「お前だって稼いでんだから、別にいいだろ!」
「俺の稼ぎは、家賃に使うためのじゃないんですっ」
「高濃度酸素カプセルだろ?学生の時から金貯めてるんだから、もういい加減、買えるんじゃないの?」
「はい。それは発注しました」
「は!?聞いてない!あんな大きい物、どこに置くつもり!?」
「俺の部屋です。って、それを史織くんが言いますか……」
「お前、あれ、何百万もするって言ってたじゃん!」
「消費税上がるんで」
「あ、なるほどねー……って、それで誤魔化されると思った!?」
「ゴールデンウィーク、空けといてください」
「え?」
「旅行が当たりました」
佐川が眼鏡のブリッジを押し上げて、神坂を見る。神坂は何を言われたのかよくわからなくて、お気に入りのスカーフを握りしめて、じっと佐川を見つめ返した。
「誰と一緒に行ってもいいですが、一つの部屋に泊まる券です」
「……お前」
「誰と行きますか?史織くんは当たりなので、持ち物はパンツだけでいいですよ」
「嘘……本当に?」
「はい。行き先、どこでしょう?」
「どこでも、いい……」
神坂は、スカーフで顔を覆い、俯いた。こういう予期しないサプライズは慣れていない。佐川が自分との旅行を段取りしてくれていたなんて、嬉しくて、どうしていいかわからない。例えそれが、在来線で行けるような近所でも、何の見どころもない保養所でも構わない。佐川は、神坂のドレッサーの中身の入った段ボール箱を横に避けて、彼を引き寄せて抱きしめた。
「どこでも?俺、結構頑張ったんですよ?」
「うれ、し……いい……トラと行けるなら、どこでも、いい」
「よかった。楽しみにしててくださいね。後でカレンダーに書かないとね」
「うん……うん……!」
神坂の寝室に変貌しつつある部屋で、一応一瞬躊躇って、でもあまり自制せずに深く唇を合わせる。神坂を床に押し倒し、佐川は眼鏡をベッドに放り上げて、彼を抱く。積みあがっている段ボール箱に手足が当たって、一部は音を立てて転がったけれどお構いなしだ。神坂は佐川にしがみつき、遠慮なく何度も、好きだと声に出した。
あっという間に盛り上がり、床では神坂が痛いだろうとベッドに場所を移して、最初の夜にふさわしく、甘くて濃密な時間を過ごした。
「嬉しい……すっごい楽しみ」
「はい。俺もです」
「でも僕、最初に行くデートは決めてるんだ」
「え?どこ?」
「桜の通り抜けだ」
「了解です」
三年前の春、一緒に桜を見る前に佐川は離れてしまった。それ以来、二人で桜を見に出かけることはなかった。神坂はよく、大阪で行われる桜見物の行事の話をしていた。一度も行ったことがないけれど、ソメイヨシノとは違った味わいのある桜が存分に見られるのだと。
佐川は神坂を包み、抱き合った余韻の残る色っぽい声で、あとで日程を調べましょうと囁いた。時刻はすでに日付を超えている。明日は佐川も神坂も出勤だ。一緒にシャワーを浴びて、一緒に寝ようという話になって、佐川は神坂にシャツを被せてベッドを降りる。
あらかた片付いたはずの部屋の床に、暴れて倒してしまったいくつかの段ボール箱から、中身がこぼれてしまっている。
「ああ……すみません。壊れ物はなかったですか?」
「うん、その辺は……って、あ!ストップ!」
「え?」
佐川が箱を立て直し、中身を拾い上げようとするのを、神坂が慌てて制止する。それは遅きに失して、佐川は図らずも神坂のトキメキボックスの中を見てしまったと気付く。
「……」
「も、いいし!僕がするから、トラは風呂に」
「トキメキ、ですか」
「いいってば!あーうるさい!!うううっさい!!」
神坂は真っ赤になって、佐川の手から古いカレンダーを奪う。流れるように滑り出ている真っ白なネグリジェも、細いリボンも、タオル地のハンカチも、小さな櫛も、何もかもに見覚えがある。神坂は大慌ててで、それらを箱に戻そうとするけれど、雑に扱えなくてちっとも片付かない。髪を振り乱して、神坂は覗き込もうとする佐川の巨体を足蹴にして、薄い背中でトキメキを隠そうとする。
「どっか行け!バカトラ!」
「うーん、なかなかの罵詈雑言ですね」
「お前が急に襲い掛かってくるからじゃんか!」
「そうですね。あまりにも、史織くんにトキメイテしまって」
「ううっ」
「なんで史織くんはそんなにかわいいんですかね」
「ばっ……バーカバーカ!ほら、よく見ろ!超お気に入りのディルドも入ってるんだっ!ほ、他のは、カモフラージュだ!」
「なんだ……ただのカモフラージュかぁ……」
神坂は極太のディルドを両手に一本ずつ鷲掴みにして、高らかに頭上に突き上げて踊って見せる。しかし、佐川の表情が曇ったのを目の当たりにして、いやっ、別にっ、なんて言うかっ、としどろもどろになってしまう。
「風呂……入ってきまーす……」
「は!?お前、先に入る気!?」
「家賃折半なんで、風呂の順番も対等です。はぁ……カモフラージュかぁ……」
「そうじゃない!い、一緒に入らないのかって!」
「でも、カモフラージュだし……」
「バカじゃないの!?そんなわけないし!!」
「えー……もういいです……」
「バカバカ!基のバカ!僕のトキメキは、お前のものなの!当たり前だろうが!」
「はい。俺のトキメキも、史織くんのものです」
「本当か!?」
「本当ですよ!」
佐川は珍しく声を上げて笑い、まだディルドを両手に握りしめている神坂をがばっと抱き、そのまま持ち上げてクルクルと回る。神坂は悲鳴を上げて、佐川の首にしがみついた。
「怖……怖いだろ!あぶねぇし!」
「あー、無事にこの部屋に運び込めてよかった」
「僕は荷物じゃない!」
「俺のトキメキボックスは、結構大きくないとだめですね」
「だから、僕は荷物じゃ」
「大好きです」
「知ってるし!もう降ろせ、バカトラ!」
「はーい」
そっと神坂を床に降ろし、佐川はそれでも彼を抱きしめたまま、髪にキスをしてため息を吐く。神坂はディルドで手がふさがっているので、ぐーのままで佐川の腰に手を回す。この期に及んでディルドを放り出さない神坂に、佐川は笑いがこみあげてくる。
「あー飽きない」
「え?なに?」
「ん?お風呂に入りましょう、一緒に」
「おう。風呂、前の部屋より広いよな」
「そうですね。湯船も幅があっていいですよね」
「うん」
佐川は神坂のおでこに軽くキスをして、ディルドを回収して箱に直し、手を繋いだ。神坂も佐川を見上げて、強く手を握り返して嬉しそうに微笑む。佐川は身体を屈めて、トキメキボックスの中から、真っ白なシルクのネグリジェを丁寧に取り出す。
「史織くん、今日はこれを着てくれませんか」
「…………しょうがねぇな」
「はい」
神坂の頬が、薄く染まるのが愛おしい。佐川はもう一度、大好きです、と言い、神坂をお姫様抱っこしてバスルームへ向かった。
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