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第39話
四月は慌しく過ぎていった。五月の始めには、佐川が帰ってきて一緒に過ごせて、ほんの少し落ち着いた気がした。
うっとおしい梅雨が過ぎ、暑い夏が来て、お盆を迎えるまでに、神坂は二回、佐川の部屋に出向いた。だからひと月に一度、逢っている計算だ。そう考えれば、まったく足りていないと思い知る。道理でさみしくてたまらないわけだ、と。
神坂としては、もっと頻繁に行きたいけれど、佐川の邪魔はしたくない。佐川は金の話をあまりしないけれど、神坂が行けばホテルへという流れになり出費も嵩む。社会人の初期費用は結構高額だ。通勤がスーツじゃなくてもいいとはいえ、大学へ行く様な格好というわけにもいかないし、今まで神坂に頼っていた部分も自分で面倒をみなければならない。
困ったら使っていいと、神坂は佐川に預けていたカードをそのまま持って行かせた。佐川は意地でも使わないと決めているけれど、神坂にしてみればそれを使ってでもしょっちゅう帰ってきて欲しかった。
差し出がましいのはわかっている。神坂だって、そこそこ給料がいいというだけで、底なしに金があるわけではない。だけど、金で二人の時間が買えるのならと考えてしまう。
初めての夏休みは、二人とも同じ日程だったので、のんびりと過ごし、一緒に暮らしていた頃のような空気に戻った頃、佐川は帰ってしまった。
リバウンドのように押し寄せてくる寂寥に、神坂は苦しみ続けて、逃げ出したくなった。それは佐川も同じで、電話とメールの頻度が四月の頃に戻る。そして翌月に神坂が逢いに行って、ほんの少しだけ満たされる。
月に一度くらいのペースで神坂が神戸へ行き、連休には佐川が帰ってくる。そんなことを繰り返して一年が経った。終わりの見えない遠距離恋愛に、二人は少し疲れていて、だから言い合うこともあった。
顔が見えないやりとりが、ひどく不毛に思える。自分の気持ちが、相手の事情が、ちっとも伝わっていかないような気になってくる。気持ちは変わっていないはずなのに、だんだんと一緒にいる時間も、以前と違う雰囲気になっていった。
「はぁ……」
「え。嘘。史織さん、どうしたんですか?」
「はぁ……」
「仕事立て込んでますもんね。大丈夫ですか?」
「はぁ……」
神坂は後輩三人と一緒に、社内食堂で昼食を食べていた。佐川と離れて暮らすようになってから体重が落ちた。というか、元に戻った。精神的に参ってしまって食事も喉を通らない……っていう日がなかったわけではないけれど、主に単なる摂取カロリーの減少だろう。佐川に合わせて食べていたから、少しふっくらしていた身体が、この一年で数年前の体型に戻っていた。
食べ終えて、空の食器の載ったトレーを横に押しやり、神坂は両頬杖をついてため息を漏らす。夕べも佐川と口げんかになった。切る間際には一応仲直りはしたけれど、最近佐川はイライラしてるようだ。
それが仕事のストレスによるものなのか、自分との関係に起因するものなのかはわからない。わからないから対処のしようがない。従って必然的に、知るか馬鹿という一言が出てしまう。火種はわずかでも燃え上がるのは一瞬だ。神坂は両手で、小さな顔全部を覆う。
「もー……やだー……」
「どうしたんですか?史織さん、飲みに行きます?」
「やだー……」
「失恋でもしたんすか?なんちゃってー」
「……かもー……」
「「「えーーー!!!???」」」
コバヤシとタカミネとハセガワが、声を揃えて驚いている。神坂はそんな後輩たちの仲睦まじい様子よりも、自分の情けなさが気になって、うるさいと突っ込む余裕もない。
「ちょ、史織さん、彼女おったん!?知ってた!?うわ、意外にショック!!」
「知りませんよっ。つーか、史織さんみたいにいい人、ふる女いるんすか!?」
「いや待て、俺の想像だと、ちょっと違うんだけど……失恋ってそんな馬鹿な」
仲のいい後輩たちが、こそこそと話しているのも、神坂の耳には入らない。神坂の頭の中は、佐川が今夜電話かメールをくれるだろうかということしかない。十一時を過ぎてもなければ、自分からしようか、それともそっとしておいたほうがいいのだろうかと、また重いため息を吐き出しながら考える。
そんな神坂の様子に、後輩たちは困ってしまい、自然と口数が減っていく。やがて周りの空気が沈み始めた頃、場違いなほどに楽しそうに、室長がやってきた。
「この席、いいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「室長、ご機嫌ですね。何かいいことあったんですか?」
「はい。ありましたね。とってもいいことが」
「さすが室長!!ぜひ、そのハッピーかラッキーをおすそ分けしてください今すぐにっ」
「はい?」
室長は日替わり定食のプレートにフォークを差し入れ、不思議そうな顔で部下たちを見回す。神坂は一応頬杖はやめているものの、相変わらず浮かない顔をしたままだ。若い三人は縋るように室長を見る。
「何かありましたか?」
「何かあったんですよね!?いいことが」
「ああ、まあ……そうですね」
室長は分厚いレンズの眼鏡をちょっと押し上げて、柔和な笑みで部下に頷く。
「実は、福引が当たりまして」
「ふくびき?」
「はい。自宅の近所の、商店街の」
「しょうてんがいのふくびき?」
「今時はあんまりありませんよね。あなたがたが住んでいる近くに、まず商店街がないでしょう」
神坂はほとんど話を聞いていないので無反応だけれど、他の三人は、頭にハテナが浮かんでいる。そして、ビンゴゲームグッズのようなものをカラカラ回して、色のついた玉を一つ出して、大当たりだと大きな鐘がなるあれだと思い至る。
「そうですね……商店街は、実家のほうにはありますが、福引……してるかな?」
「ああ、日本で一番長い商店街ですね」
「はい。室長、それで、何が当たったんです?」
「旅行です。正確には旅館一泊分のクーポン券ですね」
「え!すごい!一等ですか!?」
「いえ、二等でした。一等は電動自転車でした。妻はそっちがよかったと不貞腐れていました」
「いいなーーーー!!」
旅行という単語が出て、神坂はようやく意識を取り戻した。旅行。そうだ、旅行しよう。二人でどこかへ行けば、少しは気が晴れるかもしれない。行き帰りを一緒にするのは難しいけれど、例えば神戸で待ち合わせをして九州に行ってもいいし、もっと近場で、奈良や和歌山でもかまわない。神坂は自分の思いつきに一縷の望みを繋ぐ。
きゃぴきゃぴとはしゃいでいる後輩たちは、福引をしてみたい、今度社員旅行を計画しようなどと盛り上がっている。室長はそれをニコニコと眺めながら、日替わり定食を平らげていく。
「史織さん」
「あ、はい」
「元気がないですね。どうかしましたか。問題は報告されていませんが」
「問題はありません。遅れが目立っていた試験も、先日終わりましたし」
「そうですか。では、これでも食べて元気を出してください。特別です」
室長はニッコリ笑って、日替わり定食についていた小さなゼリーを神坂の手のひらに載せると、それでは、と言い残して去っていった。
神坂は上司の心遣いをありがたく思いつつ、そのりんご味のゼリーをペリペリと開ける。後輩たちが心配そうに自分のほうを窺っているのに気づいて、恥ずかしくなって小首を傾げた。
「一番年上なのに、僕だけゼリー貰っちゃった」
そう言って誤魔化すと、三人は笑顔になって、社員旅行に行きませんかと話を再開する。甘いゼリーを口に含みながら、神坂は佐川との旅行はどこがいいだろうかと考えていた。
「疲れたぁー……」
佐川は狭くて味気ない部屋に帰宅すると、ため息交じりの独り言とともに、どすんと床に腰を下ろす。仕事は楽しい。周りもいい人が多くて、とても世話になっている。無口で無表情だけど悪気はないらしいと理解してもらえてからは、佐川の愛想のなさに嫌な顔をする人も減った。ほんの少しだけ、任せてもらえる仕事が増えて、充実感を覚え始めていた。それなのに、神坂とはうまくいかない。
この四月に後輩は入ってこなかった。佐川に同期もいないし、人数を取ればいいという職場でもないので、募集は掛けるけれど採用に至らないことも多いらしい。だから、二年目に突入しても何も変わらない日々を送っている。
この間のゴールデンウィークに神坂のところへ帰ったのに、もうさみしくて仕方がない。そのさみしさを補いたくて、神坂に多くを求めてしまっているような気もする。彼は大人で余裕があって、佐川にしてみれば、どうしてそんなに冷静なのかと苛立ってしまう。社会人として、まだまだ未熟な自分が恥ずかしくもある。競ったって仕方がない相手なのに、見栄を張ってしまったりもする。今までそんなことはなかったのに。
逢えばきっと、うまくいく。佐川はそう考えて、もうそれしか考えられなくなっていた。
彼を呼ぶより、自分が帰った方がいい。佐川は次の週末の新幹線と飛行機をチェックしようと、だらしなく座った状態でスマートフォンを取り出した。気づかなかったけれど、神坂からメールが届いていた。
「……なに?え?」
【当選のお知らせ】
あなたは、旅行が当たりました。ペア宿泊券です。誰と行ってもいいですが、一つの部屋に泊まる券です。誰と行きますか?行き先は……
「なんだこれ……?」
一つの部屋に泊まる券ですって、……肩たたき券的な?手作り感満載なんですけど、何のアトラクションだ?
たどたどしいような文面のわけのわからなさに、佐川はとりあえず和んで、「当選万歳!一番大事な、大好きな人と行きます」と返信した。
そして、一番大事な、大好きな人に電話をかける。
「もしもし?何のなぞなぞですか」
「なぞなぞじゃねぇし。謎なんかないだろ」
「え、本当に何かで当たったんですか?」
「おう。室長がな」
「……それを譲ってもらったんですか?」
「まさか。嬉々として有給申請してた。仕事好きなくせに、奥さんのほうがもっと好きなんだな」
「えーっと?」
「べ、別に、嫌ならいいけど、最近旅行してなかったし!?なんか、たまたま、室長が」
「はぁ……」
佐川はふと力が抜けて笑ってしまう。神坂が色々と考えてくれたのだろうと、手に取るように伝わってきたからだ。きっと今、頬が赤いだろう。テレビ電話に切り替えてもいいかと聞いたら断られた。神坂のかわいい抵抗に、佐川の頬は弛みっぱなしだ。
「とにかくっ!行くのか行かないのかって聞いてんだ!」
「行きます。メール送ったでしょう?一番大事な、大好きな人と行くって」
「……うん」
「嬉しいです。俺の一番大事な、大好きな人も、旅行好きなんです」
「あっそ!言っとくけどこれ、当たりだから。お前、持ち物パンツだけでいいからな!」
「そうなんですか?」
「そうなの!パンツだけ持ってこい!」
「はい。勝負パンツ、持っていきます」
離れて暮らす中で、自立している、自活できている、神坂の世話になっていないと思えることだけが、唯一佐川には救いだった。だけど、たまにはいいだろう。給料に差があるのは事実だから、今回は神坂に甘えさせてもらおうと佐川は思った。佐川の懐事情を慮ってか、行き先は時間さえ掛ければ在来線でも行ける関西圏だ。
「金曜日の夜に、お前んとこ、行くから」
「はい」
「土日で、一泊」
「はい」
「うん」
「俺ね、史織くん」
「なに」
逢いに行こうと思っていたと、佐川は神坂に話す。逢いたくて仕方がないと。神坂は不機嫌そうな低い声で、あっそ、とだけ答える。彼は相変わらず、佐川に優しくてぶっきらぼうで、誰よりもかわいくて愛しい。
「昨日、すみませんでした」
「トラが悪いんじゃないだろ。最初に僕が」
「いえ、俺が悪かったです」
「……あっそ、じゃあ、何もかもトラが悪いってことで」
「はい。そういうことで」
翌々週の金曜日の夜に、神坂は佐川の部屋にやってきて、宣言どおり土日で小旅行へ行った。兵庫県内にはたくさんの温泉施設があって、今回は超有名で歴史の深い、一大観光地化している温泉街にした。温泉は冬に行きたいんだよね派の佐川も、久々の二人の旅行に上機嫌だった。
「冬だと、カニかな?」
「でしょうね。来たいですね」
「うん」
佐川は鼻歌で、かにかにたーらばがーにーかにかにずーわいがーにーと歌っている。神坂は行きかう観光客の女性が、かわいい浴衣姿で外湯を巡っているのを、無意識に目で追っていた。今日泊まる宿でも、浴衣の貸し出しをしてくれているようだけれど、さすがに女物の浴衣がいいとは言いにくい。|佐川《男性》と二人で泊まるのだから、性癖も丸わかりだ。変な目で見られるのは困るので、ここは我慢のしどころだろう。
「……浴衣ですか?」
「え!?……そんなに物欲しそうだった?ごめん……」
「いいえ。でも旅館で、リクエストすればいいと思いますよ。着て出かけたいわけじゃないんでしょう?部屋の中で何着て過ごそうと、客の自由です」
「…………いい」
「俺に遠慮してますか?」
「違う。……もっとかわいいの、自分で買うし」
「はい」
「うん。ありがと」
神坂のフラストレーションは一瞬で消滅した。好きにして構わないと、佐川がいつも言ってくれるからだ。その代わり、佐川に抱きつきたい衝動を抑えるのに一苦労だった。神坂は、ニコニコと笑顔で佐川を見ることで、全力で"嬉しい"をアピールした。佐川にしてみれば、俺の何を試しているんですかと詰問したくなるほどの魅力的な笑顔だった。
温泉宿にゆっくり一泊して、佐川の部屋に戻って夜までを過ごし、神坂は帰っていった。いつも通り、その瞬間から二人にさみしさが重く圧し掛かる。それでも、先日までのような苦しさは随分と軽減されていた。遠距離恋愛も一年も経てば、曲がりなりにも自分を誤魔化す術を得るものだ。
その翌月に、神坂が佐川の部屋に行ったら、プレゼントが置いてあった。佐川はあまりこういうことをしないので、神坂はものすごく驚いた。どうしたんだ、何なんだと、ドキドキしながら佐川に矢継ぎ早に聞き、いいから開けてくださいと言われる。神坂がそろそろと小さな包みを開けてみたら、透明なケースに入った櫛が出てきた。感動のあまり、神坂は固まってしまう。
「浴衣着たら、そういうの、髪につけるんでしょ?」
「う」
「何色の浴衣にするか、聞いてませんけど。なので完全に俺の好みで」
「う」
「史織くんは、何でも似合いますけどね」
「嬉しいいいいい……」
「え、その”う”なの?」
「うっさい!!」
「俺うるさい!?今うるさい!?」
「トラのばかーーーー!!」
嬉しくて照れくさくてしあわせで、神坂は佐川の丸太みたいな二の腕にグーパンをお見舞いした。結構痛いんですよ、と佐川が言うけど、そんなことはお構いなしだ。神坂は、いくつか候補に挙げていた浴衣を全部頭から消去する。この櫛に似合う浴衣が欲しいから。
「つけてみてください」
「やだ」
「なんでです?」
「僕今、浴衣じゃないから。ちゃんとしてからつけたいの」
「そうですか。じゃあ、来月見せてくれますか?」
「おう」
「楽しみにしてますね」
約束があると、少しだけ頑張れる。一年も経って、ようやくそれに気づいた。神坂は来月の連休に佐川に逢うまでに、かわいい浴衣を見繕い、この櫛の似合う髪型を練習しないといけない。とりあえず、神坂はその透明なプラケースごと、頭の上に載せてえへへと笑った。
「すっごい、かわいい浴衣着るからな」
「はい」
「楽しみにしとけ」
「はい」
佐川は目を細めて神坂を見つめる。もっとちゃんと僕を見ろ。神坂はそう言って、佐川の唇にキスをした。
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