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第38話
「洗濯するもの、ありますか?」
「え?あ、うん、でもいい」
日曜日の朝、佐川は神坂にコーヒーを淹れてから、洗濯機を回し始めた。確かにシャツや下着といった洗濯物は出たけれど、それらは神坂のバッグに収まっている。家に持って帰って洗うつもりだからだ。
佐川にそう言うと、結構長い間黙り込んで、それを俺が洗いますと言う。
「乾かないだろう、僕が帰るまでに」
外はしとしとと雨が降っている。昼からは晴れるとテレビで言っていたし、気温が低いわけではないので、時間を掛ければ乾くだろうけれど、神坂がこの部屋を出発するまでに乾くかどうかは疑問だ。
佐川はもう一度、洗濯しますと言う。相変わらずの頑固さに、神坂は苦笑いする。
「そんなに洗濯好きだったか?」
「乾かなくていいものだけ、洗濯します」
「え?」
「…………置いていってください」
神坂はマグを置いて立ち上がり、佐川の傍に寄った。じいっと見上げると、佐川が情けないような無表情で、神坂の髪を撫でる。
「……この部屋に、史織くんのものがないのが、嫌なんです」
「……」
「パンツ一枚でいいから、置いていってくれませんか」
「……勝負パンツだから、大事なやつなんだけど?」
「はい。かわいいパンツでしたね。でも、勝負を挑む相手は俺でしょう?」
「まあな」
神坂は踵を返して、部屋の隅に置いてあったバッグの中から、ランドリーポーチを取り出し、中身を全部、洗濯機に投入した。お気に入りのかわいいパジャマは、初めから置いていくつもりだったので、すでにザバザバと回り始めている。
「シャツ、アイロン当ててくれる?」
「ここにアイロンはないです」
「先に言えよ!もう入れちゃったじゃんか!」
「俺が一生懸命、パンパンして干します」
「……おう」
そして神坂は、出かけようと佐川を誘う。午前中はこの部屋にいて一緒に洗濯物を干して、昼飯と買い物をしに、午後から出かけようと。佐川は嬉しそうに頷き返す。
「……僕の、だろ?あれ」
「ですね。でも、さっきまで新品だったし」
「でも、僕のだろ」
「……はい」
ほんのちょっとの食器しか入っていない、キッチンに備え付けの小さな棚には、ちゃんと神坂の分のグラスとマグがあった。今コーヒーを飲んでいるのがそれだ。佐川のとは色違いのおそろいで、神坂のは、淡いピンクだ。
歯ブラシも洗面台に用意されていた。神坂が持参したのを見て、佐川が面白くなさそうな顔をしていたけれど、置いて帰るつもりだと言えば、満足げに頷いていた。
「何を買うんですか?」
「カレンダーと、お箸と、タオル」
「はい」
「僕のだからな。勝手に使うなよ」
「はい」
「お前の分も、買ってやるぞ」
「カレンダーを?」
「カレンダーは一つでいいだろうが。お箸。ないんだろう?」
「ですね。いつもコンビニでもらうので」
予報どおり雨が上がり、昨日と同じように散歩しながら駅前に出る。カレンダーは、卓上だと邪魔だろうということで、壁掛けタイプにした。中途半端な時期過ぎて、品揃えは壊滅的だったけれど、シンプルで書き込むスペースの多いものを選ぶ。
お箸とタオルも買い、神坂は部屋着や靴下も買った。男物の下着も一応カゴに放り込み、会計を済ませた後のショッピングバッグを佐川に押し付ける。
「次の洗濯で、洗っといて」
「はい」
「僕のだから、勝手に着るなよ」
「サイズが」
「うっさい」
あんまりたくさんは、あの部屋に置けないだろうと神坂が聞くと、佐川は、自分の所持品は少ないから、神坂の分の収納は確保していると言う。
「……ありがと」
「いえ」
帰りは新幹線で帰る、と神坂は佐川に言う。そうですか、と佐川は頷いて、買い物の帰りに、一緒に定食屋さんで早めの夕飯を食べた。佐川は焼肉を食べに行きましょうかと聞いたけれど、神坂のリクエストはこの店だった。
「最近の飛行機って、安いですよね」
「……そうだな」
新幹線も飛行機も、最終出発時間はほとんど同じだ。佐川の家から空港と新幹線の停車駅までも、ほぼ同じ時間で行ける。だったら、と、ギリギリまで一緒にいられる新幹線を、神坂は選んだ。
部屋に帰ると、佐川は神坂の細いうなじを手のひらで包むようにして彼を引き寄せ、おでこをくっつけて、「一秒でも、長く」と呟いた。神坂は、自分の気持ちを説明しなくても伝わっている満足感と、今この瞬間、佐川と同じ気持ちでいる安心感に、何も言わずに目を閉じた。
新幹線の駅まで送って行く行かないで、帰り際に少し揉めた。佐川は当然のように一緒に行く支度を始め、神坂が一人でいいと言ったからだ。音を立てて、狭い部屋の空気が凍りつく。
「なんでですか」
「道も覚えたし、一人でいい」
「なんで?ちょっとでも一緒にいたいって、さっき言いましたよね?史織くんはそうじゃないんですか?」
「そういう意味じゃない。だけど、キリがないだろう」
「……ないわけないでしょう。どんだけ嫌でも、新幹線の時間は決まってるんですよ!?キリなんか」
「そんなに怒らなくってもいいじゃんかっ」
「怒ってって……怒ってるんじゃないだろ……」
佐川は言葉を途切らせて、ため息とともに黙り込んだ。神坂はあまりの気まずさに、動悸が治まらない。バッグを持った手が冷たくて、なのにひどく汗をかいている。佐川や自分が、本当はものすごく緊張していて、ストレスを感じているのだと思い知る。こんなに簡単に諍いが起きるほど、不安定な状況だったのだ。
「……ごめん」
「……」
「……嫌なんだ。駅で別れるのとか、ああいう、本当に離れ離れになる感じが嫌なんだ」
「……」
「僕だけ新幹線に乗って、ドアが閉まって、声も遠くなって、そんで、発車したらどんどん見えなく」
「もう……いいです。俺が、最低でした。すみません」
「バカトラのばーか……」
神坂の脳裏に、もう別れようかという考えが浮かんだ。そんなことを思いつく自分にびっくりして、身体が強張る。佐川は普段、すごく穏やかで優しくて、簡単に苛立ったりしない。一緒に住んでいたころは、神坂のわがままにも奔放さにも、振り回されはしても、こんな風に話の途中で逆上したりはしなかった。
自分との関係が原因で、佐川をよくないほうへ変えてしまっているのなら。
「呆れましたか」
「……おう。呆れ返って言葉もない」
「俺を、嫌いにならないでください」
「……うん。ならないから安心しろ」
佐川は必死だった。どこへも行かないで、と叫びたくなる。ずっと自分だけを好きでいて、と。それを言うのが、ルール違反だというのはわかっている。言葉にできない気持ちを伝えたくて、だから何度も抱き合ったはずなのに、渇きはまったく癒されず、何も満たされていない。それが怖くて、辛い。
自分たちはこのままどうなってしまうんだろう。こんな風にほんのささやかな逢瀬を重ねるしか、できることはないのに、こんなにも足りなくて離れがたい。
せまっ苦しい玄関先で、もう少し、もう少しと、神坂を抱きしめる。神坂は佐川の煩悶を感じて、優しくない大人でごめんなと呟いた。佐川は取り乱していて、それさえ耳に入らなかった。
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