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第2話
ドアを開けてくれた男の人は、白い肌と柔和な微笑みを持っていた。艶やかな長めの髪をさらりとかき上げながら、太一の隣に立つ初対面の僕の目を見て、おや?という顔で笑ってくれた。
「久志さん。今日、二人でもいい?」
「いいよ、どうぞ。はじめまして。日下です」
「あ……すみません、急に」
「いいえ。名前教えてくれる?」
「あ、はい、高橋です」
「……高橋、なに君?」
「悟です」
「ああ、君が悟君。いつも太一君に話を聞いてるよ」
「僕も……太一に、日下先生のことは」
太一は僕のことをどう話しているんだろう。
先生はそれを聞いて僕をどう思っただろう。
日下先生は、太一の父ちゃんの会社から仕事を受けているデザイナーらしい。デザイナーというのは本当にざっくりとした広範な言葉で、日下先生は"デザイナーみたいなもの"と説明した。具体的な仕事内容はきっとわからないけれど、こんなにきれいな人なら、きっときれいなものを創り出せるんだろうと思った。
先生は在宅で仕事をしていて、だから大体家にいるし、太一の勉強を見る傍らで自分の仕事をしている。
「あ……僕の叔父も、日下先生と同じで、家で美術関係の仕事をしているんです」
「そうなんだ。日下先生は、恥ずかしいなぁ」
「じゃあ、日下さん、とか」
「久志」
「え?」
広いリビングに置かれた大きなローテーブル。太一は勝手知ったる他人の家で、さっそくバッグから勉強道具を出して並べている。僕は床にぺたりと座りながらも落ち着かなくて、部屋の様子をきょろきょろ観察していた。
そんな僕たちに日下さんは冷たいお茶のペットボトルを渡してくれる。
「俺、久志っていうの。だから、太一君みたいに久志さん、でいいよ」
「あ……はい」
「キッチンの冷蔵庫はフリーだから好きにしていいよ。悟君は、勉強得意だって聞いてるけど」
「えっと、どうしてもわからないところが、あって」
「ああ。じゃ、それをまずやっつけようか」
「はい」
「久志さん、俺も昨日もらった宿題、わかんなかったー」
「そっかー。じゃあ、順番な」
一応雇い主である太一を優先し、それでも変わらない丁寧さで僕の勉強も見てくれた。僕たちがそれぞれ問題集を解き始めると、久志さんは壁際に設置してある大きなディスプレイのあるパソコンに向かい、自分の仕事に手をつける。
太一がわからないと声を掛ければ、すぐに椅子から立ち上がってこちらへ来てくれて、ゆっくり丁寧に教えてくれる。
Tシャツにジーンズというその格好は僕たちと変わらないのに、久志さんからは大人の雰囲気が漂っていた。実際僕たちよりもずっとずっと大人なのだけれど。
「ねぇ。久志さんって、何歳?」
「えーと。干支が同じだって、俺たちと」
「えっ!?そんなに上に見えないよね」
「うん。でも干支がどうこうって、すでにおっさんだよね」
「確かに」
久志さんが席を外した隙に、僕はこそこそと隣の太一に聞いてみた。太一は問題集から目も上げずに答える。うちの叔父さんと同じで、若く見える人なんだぁ。
その日から時々、僕は久志さんのマンションで勉強を見てもらうようになった。最初は太一に連絡して行ってもいいかと聞いていたけれど、二人から好きな時に来ればいいと言われて、僕はわからない事があると直接久志さんのマンションへ出かけるようになった。いつも太一が勉強していて、そのテーブルの隣にお邪魔する。太一も僕がいると気晴らしになるみたいだ。
「いらっしゃい。今日、太一君いないんだけど」
「え?」
「ご家族で法事があるとかで」
「あ……そうですか……」
昨夜勉強しているときに、またしても壁にぶつかった。だから僕は午前中にマンションの呼び鈴を鳴らしていた。出迎えてくれた久志さんは、柔らかそうな髪をかきあげながら笑っている。
「別にいいよ。わからないところがあるんでしょ?」
「あ……でも……」
「暑いから、中入って」
僕は緊張して靴もうまく脱げないほどだった。何度か顔を合わせた久志さんに、僕はいつの間にか恋をしていた。
自分がホモだったなんてって悩むよりも先に、久志さんを思うだけで身体が勝手に反応する。十七歳の男子高校生の性欲はどこまでも溢れ続け、夜ごと訳もわからず自分を慰めていた。
そんな僕の破廉恥な妄想を久志さんが知るはずもなく、何の屈託もなく誰もいない部屋に二人きりになる。ぎこちなく勉強道具を取り出す僕のすぐ傍に、久志さんは腰を降ろし、どこがわからないの?と優しく聞いてくれる。丈の長いシャツを着てきてよかった。久志さんとの距離が近すぎて股間に熱がこもる。
「これ?悟君、この系統の論点、苦手なんだね」
「は、い」
「えっとね、まずベースを理解してから」
久志さんの髪は少し耳にかかる長さで、俯くとサラサラと頬に触れる。そのたびに少し僕の方に首を傾けるようにして、ペンを握った手で髪を耳に掛ける。その仕草がなんだかたまらなく色っぽい。久志さんのていねいな解説を聞かなきゃいけないのに、僕は気もそぞろで落ち着かなかった。
「じゃ、この問題解いてみて」
「はいっ」
僕は久志さんの視線を感じながら問題を解いた。教えてもらったようにすれば、なんと言う事もなく解ける問題だった。人に教えてもらうというのは本当に有益なことだと思う。
「……できた」
「すごい。悟君は理解が早いな」
「いえ。久志さんの教え方が、超うまいから」
「ちょーうまい?表現が若いなぁ」
久志さんはへにゃりと目じりを下げて笑った。目元に小さなホクロがあって、僕はそれをじっと見つめてしまう。
「問題集、やっていく?」
「いい、ですか?まだいても」
「いいよ。俺も仕事しながらだけど、わからないところがあれば声掛けてね」
「はい。ありがとうございます」
久志さんはぽんぽんと僕の肩を叩いて、自分の仕事用のデスクに向った。痩せたその背中を見ているとどんどん妄想が膨らみそうになる。僕は必死で目の前の問題集に取り組んだ。
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