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第4話
その日を境に僕は、勉強が手につかなくなった。考えるのは久志のことばかりで、興奮が鎮まらない。太一は平日の全部と、土日のどちらかを彼の部屋で過ごしている。だから、僕と久志が愛し合えるのは週にたった一日だけだ。
僕は、太一の帰った後からでも会いたいと訴えたけれど、久志は夜はじっくり仕事をしたいし、高校生をそうそう遅くに呼べないよと困ったように笑った。だけどその唯一の一日も、彼の仕事の都合で会えないこともある。
会えば、お互いを求めて、息苦しいほどの情熱をぶつけあうようなセックスをする。僕はすっかりそういうことが得意になって、久志がどういうことをされると感じるのか、ダメだイヤだの真意はどちらか、ちゃんとわかるようになっていた。
一人で部屋にいたらまったく進まない勉強は、久志の部屋でも大差ない。だって、今座っているこのフローリングで抱き合ったことも何度もある。隣で問題集と格闘している太一には、きっと想像もつかないような濃密な大人の時間。久志はいつも僕の事を見てくれているので、僕が彼のことばかり考えていることにすぐに気がついたようだ。
「悟君?」
「……え……あ、はいっ」
「どうしたの?この間ここへ来たときと、やってるところ変わってないよね」
勉強全般は得意だけれど、苦手箇所はもちろん今でもある。多少集中していても、一つ躓けばそこでもうおしまい。後は悶々と久志のことを考えているだけ。僕のここのところの日常ははそうやって過ぎていた。
僕はそんな自分に久志が気づいてくれたのが嬉しくて、太一のわからないように彼を熱っぽく見つめる。
「勉強に、身が入らなくて」
久志は僕の顔をじっと見て、かすかに笑った。意味深に絡み合う視線に僕は満足した。太一は自分の問題集を解きながら、気のない声で「確かに最近、ぼーっとしてるなぁ」と呟く。親友だけど、言えないこともあるんだ。
「いくら悟が賢くても、ぼんやりしてる余裕あるか?」
「……ないよね。でも、なんか」
「ねぇ、悟君」
久志は太一の解答の中で誤りを見つけてそれを指差しながら、顔を上げずに僕に話しかける。僕はうつむく久志もきれいだと見つめてしまう。
「太一君と勉強しないのなら、君がここへ来る理由はないんだよ」
俺は一瞬で凍りついた。優しく柔らかい声で、久志に拒絶されたからだ。太一は慌てて彼に、してるよ!悟は勉強してるよ!と訴えている。久志は太一に微笑みかけて頷いている。
「もちろん、わかってるよ。だけど俺は、太一君の成績に責任があるからね」
そしてようやく久志が僕のほうを見る。その目には、僕への非難の色が浮かんでいた。少なくとも、僕はそう感じた。
僕は居たたまれなくて、テキストの類をいっぺんにバッグに放り込み、握っていたペンもそのまま突っ込んで、逃げるようにして家に帰った。そして、恥ずかしくて悔しくて、僕はベッドに潜り込んで泣いていた。
ひどい!ひどい!ひどい!!
太一の前で、恋人の僕をあんなふうに言うなんて!
もしかして久志は、太一に気があるのだろうか?僕みたいなのよりも、太一のほうがよっぽど魅力があるのかもしれない。背は若干低いけれど、同じ陸上部で鍛えた身体は逞しく、誰にでも愛想がよく、何より家は金持ちだ。
ああだけど、久志は僕の運命の人なのに?
その後、太一からは何度も携帯にメッセージが届いていたけれど、久志からは何も連絡がないまま夜が更けていく。夕飯だと呼ばれて行けば、昼寝とは余裕だなと、叔父さんは僕の寝癖を見て笑っている。僕は曖昧に唸っただけで、俯きがちに夕飯を口に押し込んだ。
叔父さんは勉強しろとも大学はどうするんだとも言わない。進学したいので学費は出してもらうことになるかもしれないけれど、働き出したら返すつもりだとは前から話している。奨学金がもらえるように、学校の先生とも相談している。叔父さんとは養子縁組をしているわけではないので、叔父さんの収入が仮に多額であっても、僕の受給資格に影響はないようなことを言っていた。いずれにせよ、僕は能天気な大学生にはなれそうにないということだ。
なんだか、そんな、前から分かっていてとっくに受け入れたはずのことが、とてつもない不幸のような気になってくる。
「……叔父さん」
「ん?」
「僕が大学に行かなかったらどうする?」
「俺はどうもしない。どうにかするのはお前だろう」
「だよね……」
僕が傷ついても躓いても、大人たちには関係ないのか。
僕は自分の舞い上がりぶりを反省するのが嫌で、"この世で一番不幸な自分"という設定で嘆き悲しんで暇を潰した。誰もわかってくれないんだと。僕の初めての愛は壊れてしまったのだと。
風呂に入ってベッドの中で漫画を読みながら、僕はまだ不貞腐れていた。そうしたら、携帯電話が震えだした。
「悟?」
「…………」
出ないという選択肢もあったのに、僕は喜び勇んで電話に出てしまった。自分の子供っぽさに腹が立つ。相手からの連絡をシカトして、焦らせばよかったのだと後悔し、せめてもの抵抗で無言を貫く。
久志の声は、相変わらず優しくて色っぽい。
「ごめん、寝てたかな。もう切るね?」
「寝てない!…………寝てないよ」
「そう?じゃあ……怒ってる?」
「…………少しね」
「そう」
沈黙は、僕に焦燥感しか与えない。何か言わなければ、久志との電話が終わってしまう。それは、この愛し合う関係の終わりに等しい気がした。だけど、なんと言えば僕のこの傷ついたこころの痛みが伝わるのかがわからなかった。
そう、僕は久志に傷つけられたのだ!
僕は猛烈な悔しさと恥ずかしさと怒りを覚え、携帯電話を強く握り締めた。久志を、ひどい目に合わせてやりたいような気分だ。もちろん、そんな方法は知らないけれど。
「ごめんね、悟」
「……」
「だって、悟があんなふうに俺を見るから……バレちゃいそうで」
「僕は、そんなヘマしない。僕のせいにするつもり!?」
「俺がね。ドキドキして、顔に出そうだったから」
「久志……」
「ダメだよ、あんなの。あんなんじゃ、皆にバレちゃうだろ」
俺が悟のことを好きなのが、ね。
ささやくような久志の告白に、僕はあっという間に怒りを忘れ、久志よりもずっとドキドキと胸を高鳴らせた。
「久志……ごめんね」
「ん?」
「疑ったんだ。もう僕のこと、嫌になったのかって」
「そんなこと考えたの?電話してよかった。ふられちゃうところだったね」
「僕が、ダメだったんだよね」
「うーん……悟は受験生だから、俺のせいで勉強がおろそかになるのは困るんだ」
「うん」
「それと、やっぱり誰かにこの気持ちを知られるのは恥ずかしいし」
「うん」
「だって、高校生に夢中なんて、ね?わかるだろ?」
「うん!」
すっかり上機嫌になった僕は、久志に精一杯甘い言葉を捧げ、明日行ってもいいかと聞いた。明日は太一が来ない日だから、朝から来ても構わないと言われて、今日の辛い出来事が何もかも報われたような気分になった。
「久志、愛してる」
「最近の高校生は、オトナだね」
電話を切るときに、久志はそう言って笑っていた。
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