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第2話

 旅はひどいものだった。少なくともラヴィソンにとっては。王宮を出るのに裏門を使った時点で、ラヴィソンはとても驚いたけれど必死に平然を装った。  まるで卑しい者のように人目を忍んで行動するたびに、気高くあれと教えられた矜持が毟り取られていく。屈辱のあまり顔面は蒼白になり、手綱を握る手が震える。それでも、進まねばならないのだ。胸にしまった親書をバルバの国へ渡し、祖国を救うために。 「殿下、お加減はいかがでございますか」 「いいはずがない」 「もう少し進みますと、森に入ります。今宵はそちらに幕営いたします」 「何を言ったのかわからぬ」 「は」 「森に、宿があると申したか」 「恐れながら。この旅で、宿に泊まる予定はございません」  ラヴィソンは前を向いたままで、随行する騎士の言葉に驚愕した。そして、だから自分なのかと腑に落ちる。王家にはラヴィソンのほかに王子がいる。しかし、もうすぐ二十歳を迎えるラヴィソンよりもずっと年下だ。ラヴィソンには姉も妹もいる。豪農や豪商に下賜された者もいるけれど、まだ何人かは残っていた。しかし王家の女であればこの旅は耐えられまい。夜一つを越えるよりも先に、自分の喉を裂くだろう。そもそも彼女たちは、一人で馬に乗って遠くへなど行けない。  押し黙ったラヴィソンに、かける言葉はなかった。騎士はただ黙々と周囲に気を配り、王子の様子にこころを砕き、先の長い旅の終わりを見据えていた。  密令であると言われてこの任務に就き、騎士に与えられたのは、保存用の食料とわずかな金貨、バルバの国で王に謁見するための王子の衣装、そして一人用の天幕だ。そのほかのものは騎士が自分で用意した。塩や魔除札や薬、そして自分の旅装の類だ。国からの援助は期待できないと知っていた。  騎士は自分の馬で駆けている。長年運命を共にしてきた相棒だ。彼は見慣れない同行者にもその馬にも威嚇などせず、騎士と同じように不慣れな二人を優しい目で見守りつつ走る。  王宮を出てすぐには、街が栄えて人も多いので駆け抜けることはできなかったけれど、昼を過ぎるころには街は後ろに遠くなり、国内に点在する村々を結ぶ道と、川や草原ばかりになった。  最初の休憩のとき、騎士は川べりの岩場のようなところで馬をとめた。巨大な岩陰に隠れれば人目につかないし、大小に散らばる岩の中には、高さのちょうどいい座れそうなものもあった。騎士は荷物の中から鞣した一枚革を取り出して、岩の上に敷いた。 「殿下」  騎士は支度が済むとラヴィソンの馬の横に蹲る。ラヴィソンはその背に脚を乗せて優雅に馬を下りた。  困ったのは、ラヴィソンが差し出した食事を口にしないことだった。粗末でわずかな干した肉と、殺菌作用のあるハーブとともに詰められた生ぬるい水。ラヴィソンは始め、それが食べ物であるとさえ信じなかった。 「どうか、ご辛抱ください」 「要らぬ。飢えて死んだ方がましだ」 「殿下のお命は、私が死んでも守り抜きます」 「それがお前の使命である。当然だ」 「は」 「……要らぬ。腹は空いておらぬ」  実際、ラヴィソンは空腹など感じてはいなかった。照りつける太陽と吹き抜ける海風。慣れない長時間の乗馬と、揺さぶられて疲弊する精神。腹が空いているかどうかなど、感じている暇はなかった。  騎士はそれでも頭を下げ続け、どうにかラヴィソンは苦い水だけは口にした。傍を流れる河の水の方がよほど美味しいそうに見える。それでも水分を取って、視線を巡らせれば、はるか遠くに王宮の天辺が見えた。  まだ、見える。  引き返せば、今夜はいつもの寝台で眠れるだろう。朝陽は、二度と見られないかもしれないけれど。  もう少し休まれますかと聞いてくる騎士の方は見ず、ラヴィソンはもう良いと答えた。早く、引き返せないほど遠くへ行ってしまいたい。騎士は荷を愛馬へくくり直し、ラヴィソンを促して、先を目指した。  二人ともフードのついた外套を着て、海風を避けるための布を顔の下半分に巻きつけた、旅のときの一般的な格好で移動していた。目元しか出ないようなそれは、誰にも怪しまれずに人相を隠すことができる。騎士がわずかな休憩で先を急いだのは、それでもできるだけ早く人目のない森へ入ってしまいたかったからだ。騎士にしてみれば、生まれながらに高貴な人の雰囲気は、外套などで隠せるものではないと感じていた。  まだ二十歳にもならないとは聞いていたけれど、その身体は華奢で小柄で、実年齢よりも数年幼く見える。艶やかな黒い髪は短くすっきりと整えられ、白くしっとりとしたうなじを見せている。きっとその目も黒い宝石のように輝いていることだろう。王族の方のご尊顔を見るなどもっての外で、騎士がそれを実際に確かめることはないけれど、肖像画ではそうだった。  過酷な旅になる。彼の背負う運命は、自分のものよりもきっと辛いだろう。自国や王族への忠誠心は揺らぎつつあるけれど、目の前のこの美しい王子だけは命に代えても護ると誓う。  そこから一つの町と二つの村を抜け、彼らは鬱蒼とした森にたどり着いた。騎士はためらうことなく森の中へ進み、時々木々の間から空を見上げて星の位置を確認した。ラヴィソンは疲れでほとんど意識のない状態で、手綱を握りしめることが精いっぱいだったけれど、彼に宛がわれた赤毛の馬は、騎士の愛馬の尻をただひたすら忠実に追いかけているので、逸れることはなかった。 「どうぞ、こちらへ。お足元にお気をつけください」 「私が地面に座るのか。その、低いところへ」 「恐れ多いことではございますが、何卒ご辛抱ください。すぐに天幕を張ります」  やがてほんの少しだけ開けた場所に出た。騎士は先に馬を下り、陽の暮れた森の中でみつけたわずかな平地の周囲をすばやく検分した。動物にさえ気をつければ問題ないと判断し、ラヴィソンが全くの無表情でゆっくりと辺りを眺めている間に、騎士は自分の荷の中からふんわりと柔らかい織物を出し、落ち葉の重なる上に敷く。そこへ座っていただきたいと促せば、王子の声は冷たく尖った。騎士が懇願し、馬の傍に蹲ったけれど、しかしラヴィソンはすでに、自力で下馬できない状況だった。 「降ろせ」 「は」  騎士が大柄であるとはいえ、馬の上から男を一人、優しく降ろすことは難しい。できるだけ彼の身体に触れないように、負担のないように、まず脚を揃えてもらってから慎重に横抱きして、自分の身体が触れないように腕の力だけで持ち上げて、そのままゆっくりとさっき用意した敷物の上に座らせた。背中をそっと後ろの大木にもたせ掛けると、ラヴィソンは細い息を吐いた。  騎士は水を差し出してから、慣れた手つきで天幕を張り始めた。その中にも、同じような柔らかい織物を敷いた。総じて温暖なこの国ではあっても、陽が落ちれば気温は下がるし、森の奥の暗がりの地面はいつも冷たい。織物は、騎士の母親が丹精込めて織ったものだ。何故か詳細を告げずに旅に出るという息子に、売ればひと月分の食費ぐらいにはなるその大事な商品を二枚も持たせた。 「殿下。お待たせをいたしました。どうぞ、こちらでお休みください。食事の用意をいたします」 「干した肉なら口にしない」 「日中はどうぞ、ご辛抱ください。森の中であれば、まともな肉を手に入れられます」 「お前が」 「はい。ですので、どうぞ天幕の中へ」  騎士はもう一度深く頭を下げてから、火を起こし始めた。ラヴィソンはその背中を見るともなく見遣り、生き物のように大きくなる火を不思議に思った。そして騎士にもう一度懇願される前に、天幕の中へ入る。騎士は小さなランタンを差し入れ、その入口の巻き布を降ろして、森の奥へ向かった。  騎士は闇でも目が利いて、だからこの季節が最もおいしい小さな獣を狩ることは比較的容易だった。綺麗な川が流れていて、その水が安全であったので、水筒を満たし、傍に生えていたハーブも数枚ちぎって放り込む。たった一つの調理器具である鍋にも水を汲んだ。  天幕の中にいて欲しいと、尊い人に望んだのは、食事の支度を見せないためだ。その美しいだろう目には、美しいものだけが相応しい。  騎士が戻ると、天幕の中で光が揺れていた。美しい人は、影さえも美しい。騎士はそのことに感心しつつ、てきぱきと獲物を調理し、ラヴィソンに声をかける。 「殿下。食事の支度が整いました」  しかし、一向にラヴィソンは出てこない。何度かお声をおかけして、不審に思った騎士は丁寧に断りを述べてから、天幕の入口に下がる布を持ち上げる。ラヴィソンはそこに座っていた。 「さっさと開けよ」 「…………は。失礼いたしました」  騎士は慌てて布を跳ね上げる。ラヴィソンは無表情に天幕の外に出て、騎士が何も言わないうちに、先ほどの場所へ腰を下ろした。  騎士はそのことに安堵し、手製の具だくさんスープを盛った器をラヴィソンに差し出す。ラヴィソンはそれに関して拒む元気もなく、黙って受け取り、口にした。熱いスープは冷えた身体の強張りを溶かし、わずかではあるけれど安心を与えた。一日食事をとらなかった胃はやはり空であったらしく、ラヴィソンは騎士の勧めるがままに何度か器を空けた。 「ラヴィソン殿下、恐れながら、お手を拝見させていただきたく存じます」 「触れるな」 「は。触れません。どうぞ、このように、掌をお見せください」  ラヴィソンは思案した。長い馬旅であるので、指のない革の手袋をつけている。騎士はおそらく、それでも痛む手の様子を診ようというのだろう。診るだけであれば確かに触れないで済む。しかし、ではこの手袋は誰が外すのか? 「…………許す。これを外して診るがよい」 「は」  騎士は慎重に、ラヴィソンの手首の辺りの紐をほどき、編み上げを緩めてそっと手袋を脱がせた。冷たい水にも汚い物にも触れたことがないだろう白い手のひらは、真っ赤に腫れて、水ぶくれになりそうになっている。騎士はもう片方の手袋も脱がせて、痛くはありませんかと聞いた。 「痛い。……しかし、仕方あるまい」 「……」 「そのうち、慣れよう」  騎士は何も言えなかった。この手は、このような荒っぽい旅で傷つくためにあるのではなかったはずなのに。白く柔らかいまま、なんの苦労も痛みも知らずに生きていくはずだったのに。 「薬を、民間治療薬ですが、塗ってもよろしいですか?」 「何でできている」 「ハーブと、油分でござます」 「何に効くのだ」 「炎症どめにございます」 「……痛みは、減るのか」 「多少は」 「……許す」  よほど痛みを感じるのだろうか。騎士は荷物の中から持参した薬の幾つかが入った袋を取り出し、炎症どめの塗り薬を選んで蓋を開け、こちらですと念のためにラヴィソルに見せた。 「良い」 「は」  騎士はなるべく手早くそれを塗り終えて、清潔な布を裂いてその手に巻きつけた。簡単ではあるけれど精一杯の治療をして、騎士は深々と頭を下げる。 「大変ご無礼をいたしました。明日の朝は、日の出とともに出立いたします。どうぞ、天幕の中でお休みください」 「……」  騎士はそう言って立ち上がると、天幕の入り口の布を巻き上げてその側に跪いた。ラヴィソンは、こんな状況で眠れるものかと怒りを覚えたけれど、それを伝えるほどの元気は残っていなかった。  ゆっくりと身体を起こして天幕に入り、背後で布が降ろされて、途端にふつりと意識が途切れた。  倒れこんだラヴィソンの身体は柔らかい敷物に受け止められて、太陽が上るまで彼を包んで守った。

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