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第3話

 二日目の朝、騎士が夜明けとともにラヴィソンに声を掛けると、返事はあったけれどあまりに小さい声だった。慌てて天幕の中を覗くと、ラヴィソンは敷物に身体を横たえたまま動こうとしない。 「……殿下?お加減がお悪いのでしょうか!?」 「当たり前である。全身はひどく痛み、気分も優れない」  しかし手のひらだけは痛みが軽くなっていた。ラヴィソンはそのことは口にしないで、騎士の出方を待った。騎士は取り乱した様子で、立ち上がれないほどなのか、少し休めば楽になりそうかなどと聞いてくる。ラヴィソンは、ここで駄々をこねたところで医師も薬師も来ないらしいと悟ると、静かに身体を起こした。  騎士は失礼しますと声をかけてから、そのたくましい腕でラヴィソンの背中を支えた。 「昨日と同じくらい、進むのか」 「できればそのようにいたしたく存じます」 「……」 「馬にお乗りになるのが、お辛いのでしょうか?」 「我々にとって馬は、それが走るのを眺めたり、ほんのわずかな時間ゆっくりと駆けるためのものである」 「私と一緒に乗られますか?速度は落ちますが、楽な姿勢で座っていられます」  ラヴィソンは、誰かと一緒に馬に乗るということを聞いて、自分が幼かった頃のことと、女が横抱きにされて男と馬で駆ける様子を思い出した。 「無礼である。私はそのような扱いを許さぬ」  騎士はいたく恐縮し、ラヴィソンに慈悲を乞い、バタバタと天幕を出て行ったかと思うと、昨日ラヴィソンを座らせたフカフカの敷物を鞍にくくりつけたり、鐙の位置を調整したりして、ラヴィソンが少しでも楽に乗ることができるように設えた。  本日はこまめに休憩を取り、森の中を進むので昼食もまともな食事ができるようにすると言うと、騎士は相変わらず目を伏せて膝をついて、ラヴィソンに出立を促した。  ラヴィソンの細い身体は本当にあちこちが痛み、立って動くなどできるとは思えなかったけれど、自分が動かなければ何もかも進まないのだと叱咤し、騎士の助けを借りてどうにか再び騎乗の人となった。 「殿下。もし」 「何があっても進むしかない。いずれ終わる旅である。……死ぬほどの痛みではない」  ぴしりと背筋を伸ばし、ラヴィソンは顎をあげてそう言った。王家のものに、平民が情けをかけるなど言語道断である。太陽の光が差し込み輝き始めた森の中を見つめながら、ラヴィソンは騎士の気遣いを背中で切って捨てた。  騎士はラヴィソンの精神力に感服し、参りましょうと道なき道を進み始める。ラヴィソンの乗った赤毛の馬は、相変わらず騎士の愛馬の尻を黙々と追いかけた。  森は深く広大で、獣の気配にさえ気をつけていれば、街中を移動するよりもよほど静かで安全だった。騎士は森の中に詳しくないとは言いながらも、綺麗な水源を見つけることもうまく、ラヴィソンの気を紛らわせようと、時々、周囲の様子を伝え、ラヴィソンは初めて見るものに少しだけ癒されつつ進んだ。やがて、騎士の言葉がなくとも何と無く辺りを見回すようになり、自分から何かを発見したりもした。そのほとんどは、ラヴィソンにとって、正体不明であった。 「……あれは、何か」 「はい。どれでしょうか?」 「今、動いたのだ。そこの木の、ほら、葉っぱが」 「ああ……あれは虫でございます。葉っぱに化けて、身を守っているのでございます」 「ふむ」 「森の中には、たくさんの生き物がおります。途中、我々の後を、小さな動物が代わる代わる従いてきておりました」 「そうだったのか。それは、なぜ」 「珍しいのでしょう、馬も人も」  何度目かの休憩を、古い木が横たわる場所での食事とした。騎士は、天幕を張るほどの余地がなかったので、上布だけを木の枝に引っ掛けて日陰と衝立を作り、フカフカの敷物を重ねることで、ラヴィソンの座る場所とした。火を起こすことに成功すると、騎士はラヴィソンを残して狩りに行き、それほどの時間も経たない内に、獲物を持って帰ってきた。 「殿下。すぐそこに小川がございます。足を少し冷やされるとよろしいかと存じます」  ラヴィソンは動くのが億劫であったけれど、旅慣れている騎士が言うことであるので、頷いて立ち上がった。  騎士は二頭の馬とともに小川へ案内してくれた。川べりにはちょうどいい岩があって、そこに腰かければふくらはぎの辺りまで水に浸かることができた。その岩には、騎士が革を敷いてくれていた。 「馬も、食事をさせるのでここに。殿下、何かございましたらお声をお出しください」 「……先ほどのところまで、私の声が聞こえるとは思えぬが」 「私は殿下のことを第一に。お声を聞き逃すことはございません」  そんなものかとラヴィソンは思った。王宮にいた時も、たくさんの人間が自分の周囲にいて、自分のことで知られていないことなどほとんどなかったし、ポツリと漏らしたその一言が、その日の食事や翌日の予定に反映されることも少なくなかった。従う者と言うのはそういうことができる人種なのだろう。  騎士は何事かを自分の愛馬に言い含めて、食事の支度をしに戻って行った。  残されたラヴィソンは、騎士に靴を脱がせてもらった足を、恐る恐る小川に浸けてみる。川遊びなど、したことがない。指先が水に触れた時、ちょっと驚いて引っ込めてしまった。馬たちは自分の喉を潤しながら、ラヴィソンの様子を優しい目でじっと見ている。大丈夫かと聞かれているような気がして、少し照れ臭くて、ラヴィソンは思い切ってトポンと両足を一度に水に入れた。とても冷たくて気持ちがいい。  昼の陽の光を受けて水面は輝いている。とっぽんとっぷんと足を入れたり出したりして、楽しくなって水を蹴り上げる。飛沫が散って、草陰に隠れていたらしい何かがガサガサと動く。ラヴィソンは、食事を終えて馬に乗ったら、今度は後ろを気にしながら駆けようと思った。自分の後ろを小さな動物が従いてくる景色など、想像もできない。  その時突然、馬の様子が変化した。二頭とも首をすっと伸ばし、一点を凝視している。  小さな川のほとりの向こう側には、岩に腰を降ろしたラヴィソンの視線の高さほどの草がたくさん生えている。その草が、何故か存在感を放っているように思える。馬たちもじっとそちらを見ていて、ラヴィソンも同じ場所から目が離せない。  何かいる。  直感がそう伝えている。姿は見えないけれど、何かが。すると騎士の馬が慎重な足さばきでラヴィソンの傍へ近づいてきた。ラヴィソンの赤毛の馬は、相変わらずそれの後をフラフラと追う。しかしそれでも、二頭とも視線は固定されている。  音もなく、青い草が左右に横倒しになり、その開いた空間に獣の顔が見えた。気配の正体を目にして、ラヴィソンは恐怖に竦みあがってしまう。黄金色の双眸が、ラヴィソンを静かに、しかし強く射抜く。本の図解でしか見たことのない巨大な獣。口の中にはきっと鋭い牙があるのだろう。僅かでも動けば、こんな小さな川など飛び越えてきて、食べられてしまうのだ。助けてもらわなければ、死んでしまう。  ラヴィソンは震える唇を動かした。定かではないけれど、声は多分出ていなかっただろう。どんな些細な刺激で、獣が踊りかかってくるかも知れない。馬はちゃんと逃げられるだろうか? 「大丈夫です。そのまま、じっとしていてください」  不意に背後から影が落ち、それが騎士のものだと知れる。ラヴィソンは叫びだしたい衝動を抑えるのに必死で、動くことなどそもそもできなかった。騎士は、じっとその獣の目を見つめ返し、ジリジリと自分の背中にラヴィソンを隠す。騎士の腕越しに、ラヴィソンもその獣を見ていた。  突然、獣がゆらりと立ち上がった。地面からその肩までの高さは、おそらくラヴィソンの腰の位置ほどだろう。相対する獣の全容が現れて、ラヴィソンはいよいよ恐ろしくなった。こんな大きさであれば、きっとこの騎士どころか二頭の馬さえ噛み殺されてしまう。  気づけばラヴィソンはガタガタと震えていた。まるで時間が止まってしまったような、違う世界に紛れ込んでしまったような、理解しがたい静寂が辺りを満たしている。 「……!」  ラヴィソンはギクっと身体を強張らせた。声を出さなかったのは奇跡に近い。こちらをじっと見ていた獣がゆらりと一歩を踏み出したのだ。ラヴィソンの顔ほどもありそうな獣の前足が、草を踏みつける。  もう駄目だ。  ラヴィソンは目を閉じることもできずに襲われるのを覚悟した。しかし獣はそれ以上前進はせず、ゆったりとした動きで身体を翻し、のそりのそりと森の奥へ歩を進め始めた。わずか数秒のことだったはずだけれど、ラヴィソンはその獣の太くて長い尻尾の先がようやく見えなくなるまで、生きた心地がしなかった。 「殿下」 「……」 「もう、行きました」 「……わかっている」 「はい。あいつも、殿下の来訪を知って謁見に来たのでしょう」 「……なんだ?」 「生意気にも、ラヴィソン殿下にご挨拶を」  騎士は逆手に握っていた短刀を腰の鞘に納め、大きな息を吐いた。それを合図にするように、馬たちが悠々と尻尾を振りながらラヴィソンから離れていく。  ラヴィソンは、なんて人騒がせな獣だろうかと憤慨した。謁見においては、まず使者を立て、こちらの許しを求めるのが先決であるのに。もちろんラヴィソンとて、森の中の大きな獣に使者を立てられるとは考えていないけれど、恐怖が去った今、初めて見た獣に慄いた自分が恥ずかしく、感情を持て余して少し騎士に強く言いつけてしまう。     「あの獣は、非常に無礼である。私の前に突然に姿を現し、目を伏せもしないなどもってのほかだ」   「もしかしたら、もう少し小さな動物が、先触れの使者として寄ってきていたかもしれませんね。馬に驚いてその役目を果たせなかったのかもしれません」   「……」      ラヴィソンは、自分が水遊びをしている最中に草むらを何か小さなものが駆けていったことを思い出し、追い返してしまったのは自分かもしれないと反省した。しかし仮に小さな動物を先に目にしていたところで、あのように巨大な生き物の挨拶や口上を受け止められたとは思えない。大きな声で吼えられては、その音だけで吹き飛ばされてしまうかもしれない。  静かで豊かな森に、その姿だけであれほどの威圧と恐怖を与えられる生き物が存在していることに、ラヴィソンは自分が世間知らずであることを思い知る。この旅を続けていけば、自分の知識は深まるのだろうか?……そんな未来など、来ないのだけれど。     「お怪我はございませんか」   「ない。そもそも、あの獣に触れられてはおらぬ」   「はい。しかし獣に驚かれて、おみ足をどこかへぶつけられたりなど」   「私はそのような無様なことはせぬ」   「大変失礼いたしました。この度は偶々危険に及びませんでしたが、今後は気をつけます。どうぞお許しください」      騎士は深々と頭を下げた。なんとはない異変を感じ、様子を見に来てみれば一触即発の状況で、我が身を盾にすることを躊躇いはしなかった。しかし、川の向こうからこちらを見つめる大きな獣は穏やかだった。攻撃の意図はなさそうだった。それでも、馬たちは暴れないことが奇跡だと思えるほど緊張していたし、ラヴィソンはかわいそうなほど怯えていた。馬に、絶対に王子を守ってくれと頼んでおいたおかげで、獣もこちらまでは来ず、馬も取り乱さずにいてくれたのだろう。  ラヴィソンは騎士に対して鷹揚に、許すと応えた。騎士はそれに喜びを表し、食事の用意ができましたと言って、ラヴィソンの足を拭いて靴を履かせる。ラヴィソンの座っていた岩から革の敷物を回収し、戻りましょうと促した。     「馬はどうするのだ」   「腹が膨れれば戻ってくるかと存じます」   「……かしこいのだな、馬とは」   「はい。旅の相棒として、信用に足る存在です」      ラヴィソンはふと、騎士はどうなのだろうかと考えた。父と兄からの言いつけで、宛がわれたこの男を伴ってはいるけれど、彼は信用できる男なのだろうか?あれこれと気遣いを見せ、細々と動くことを厭わないようだけれど、ラヴィソンにとってそれは平民の当たり前の態度であるので判断が難しい。今までは王宮で働く者と王族以外、ほとんど接することなく生きてきたのだ。周りは親族か傅く者ばかりの環境にあって、自分の側使いその他が信用できるかどうかなど考えたこともない。誰かを信用など、したことがない。     「ああ」      ラヴィソンが眉間にしわを寄せて、深く考え事をしながら騎士の後ろを歩いていたら、騎士が声を上げて立ち止まった。ラヴィソンは振り向いて膝をついた騎士を、きょとんと見つめた。     「どうやら、先ほどのお詫びに使者を立ててくれたようです」      騎士の頭越しに視線を遣れば、ラヴィソンが座るべき場所に、小さな動物が三匹も我が物顔で座っていた。

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