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第10話

 それから二人はそれぞれの馬に乗って、黙々と国境を目指した。  戦争中であるとはいえ、諸般の理由から隣国との往来はそれほど制限されておらず、また騎士は二人分の通行証を持っていたので見咎められることはないだろう。通行証は、王宮が我が国の第三王子のために用意した数少ないもののうちの一つだ。宿屋での二晩の後は、相変わらず人気のない場所で野営で夜を越え、ラヴィソンはもうあまり苦痛を感じなくなっていた。騎士も少しだけ慣れたのか、ラヴィソンを一人にする時間が増えた。町の近くに来たら、ラヴィソンを適当な場所に隠してサージュとエギュに見張りをさせて、ほんの短い間であるけれど買出しに出かけることさえある。ラヴィソンは、それほど心配であるなら一緒に行けばよいと言うけれど、騎士は頑なに肯かなかった。  ラヴィソンは少し、元気が出て、なんというか開放的になっている気がしたからだ。それはもちろん悪いことではない。この旅そのものと自分の先行きを悲観して鬱々とするよりはよほどいい。しかし、物珍しそうにキョロキョロしたり、興味を惹かれた何かをじっと見つめたりされるとこちらの心臓がもたない。そもそも、その生まれ持った高貴な雰囲気が駄々洩れになっている。バレたらどうしようと気が気ではなく、騎士は買いたいものさえ忘れてしまいそうなのだ。     「隣国へ入れば、いやでも街中しか道がありません。それまではどうぞ」   「さようか。この国も見納めであると思えば、素通りが惜しいように思えただけだ。ほとんど王宮から出ずにいたが、故郷であるから」   「……」   「もう言わぬ。何よりも、この身が大事であると理解している」      騎士は自分の気持ちに必死に耐える。先が短いのであれば、二度とこの国の地を踏めないのであれば、自由に歩き回る日が来ないのであれば、多少の危険など顧みずに散策させて差し上げるべきではないのかという気持ちだ。しかしそれを実行してしまえば、誰よりもまずラヴィソン自身の安全が保てない。無事にバルバの国へ渡る。それが第一義だ。その目的が達せられなければ、何もかもが水泡に帰すのだから。だけど。     「……殿下」   「よい。ここでサージュとエギュと待っている。遊んでいる場合でないことくらい」   「私の無礼な行動をお許しいただけるのであれば、わずかですが町へお連れできます」   「サージュは目立つ。で、あろう」   「はい。エギュに、私と二人で乗り、私の腕から出ないということでよろしければ」   「腕から。私は抱えられるということか」   「はい。親子に見えれば、怪しまれません」   「………………」  無礼に過ぎただろうか。騎士は豊かな芝生の上に膝をついて頭を下げながらそう思った。ラヴィソンはいつも通り設えられた場所に座り、騎士の言葉について考える。  そしておもむろに口を開いた。 「親子には無理があろう」 「……で、ございましょうか。殿下のご尊顔を隠していただければ」 「兄弟が関の山と考える」 「は」 「弟の真似は慣れている」 「は」 「参る」 「お供させていただきます」  騎士は自分の提案が正しかったどうか不安を覚えたけれど、自分のできるすべてを惜しむことなくラヴィソンに捧げたいと考えていたので、ささやかながら彼の願いを一つ叶えられたことが嬉しかった。  さっそく二頭に本日の予定を話して聞かせながら、騎士はテキパキと馬上の旅装を解いていく。それらは木の洞に押し込んで隠す。サージュは留守番であるので、この辺りで待っているようにと頼んでおく。 「サージュは偉いので、私は案じていない」 「はい。私もそのように存じます」  ラヴィソンは軽やかに立ち上がり、その美しい手でエギュとサージュの鼻づらを撫でてやる。馬たちは機嫌よさげに長い尾を揺らしている。 「街では、おとなしくしていればよいのか」 「できれば、その美しいお声を低く願いたく」 「声がよくないか」 「いいえ。あまりにも尊く、幸運にも耳にした者が驚いてしまいます」 「さようか」  ラヴィソンはよくわからなかったけれど、何度か軽く頷いて、ぺんぺんと二頭の馬を叩くとひらりとエギュの背に跨った。騎士は失礼いたしますと声をかけてから、ラヴィソンの後ろに乗り手綱を取る。ラヴィソンは背中にぴたりと騎士の気配を感じて、少し居心地が悪いと思った。真上から声が降ってくることも、正直に言えば不愉快で受け入れがたい。それは騎士も承知しているらしい。 「何卒ご容赦ください。私もできる限り声は発しません」 「……構わぬ。説明をしてもらわねば、せっかく見物してもよくわからぬ」 「は。では、参ります。エギュ、頼むぞ」  騎士はそしてサージュに行ってくるよと声をかけてから、町の方へ繰り出した。  町は比較的大きく、まだ昼前であることで買い出しの市民らで賑わっていた。国境に近いので騎士たちのように外套を着てフードを被り、顔のほとんどの布で隠した旅の人間も多く、騎士が危惧したほどは目立たなさそうだ。  先日泊まった宿屋の亭主にもらった物資は本当にありがたく、的確な品揃えのほかになぜかラヴィソンにぴったりの雨よけまで入っていた。だからそれほど頻繁な買い物はせずに済み、必然的に旅費は節約でき、危険が減る。今回補充するべきは保存のきく食料と香辛料、ランタンなどに使う燃料など嵩張らないが大事なものばかりだ。亭主からの袋にも入っていたけれど、さすがに減りの早いものなので折を見て追加しなければラヴィソンに一層不自由を強いることになる。  騎士が目当ての店を探しながら馬を歩かせていると、ふと、ラヴィソンが騎士の外套の袖を引いた。ラヴィソンはさっきから騎士に質問をしたかったのだけれど、人は大勢おり、声を出すのを控えるように言われてたのでどうすればよいかと思案していたのだ。騎士もそれを察したらしく、すいっと上半身を倒して自分の耳をラヴィソンに寄せる。ラヴィソンはその耳に囁きかける。 「買わぬのか」 「買うよ」 「店を選んでいるのか」 「そう」 「たくさんあるから」 「そうだね」  騎士は出来るだけ兄弟として不自然でないように、かつ言葉少なに答えた。ラヴィソンが袖を放したので、騎士も姿勢を戻す。  それからそのやり方が二人の間で採用され、ラヴィソンは何かあると騎士の袖を引くようになった。騎士はその都度、ラヴィソンの囁きを拾わんと身体を倒す。そうすると大柄な騎士が前に座る華奢なラヴィソンを抱え込むように見える。 「よ!旅のお兄さん!前に座ってるのはまだ馬に乗れない子かい?大事に抱えちゃってさあ!」 「まあな」 「うちのお菓子を買ってあげなよ!甘くて子供には大人気だよ!」  騎士は肩を竦めてその商人をやり過ごす。さっきからラヴィソンがグイグイ袖を引いている。おそらく抗議だろうと、騎士は少し歩いてからその身体をラヴィソンに寄せた。 「なんだい」 「お菓子を所望する」 「……そうか」 「うむ。子供ではないが、お菓子を所望する」 「えーと……甘い方が?」 「さようである。甘いお菓子を所望する」  食べたかったのかと騎士は驚いた。さっきの店に戻らずとも、似たような甘いお菓子を売る店はたくさんある。騎士は何がラヴィソンの口に合うのかわからず、何種類かを扱う少し大きめの店の前に馬を停めた。そしてラヴィソンを馬上に残してストンと降りる。 「どれがいい?」  騎士が聞けば、ラヴィソンはじっと店先を眺め、もっとよく見ようという無意識だろうか、どんどん身体が傾いていき、馬から落ちそうになっている。エギュはおかしな重心に耐えるべくフラフラと脚を踏ん張っている。騎士はラヴィソンを手のひらで支えると、そのまま抱き下ろした。  地上に降りて並んでしまえば、身の丈は小さな子どもでないことはわかる。店の主人も興味深そうにラヴィソンの挙動を眺めている。ただし、微笑ましげに。 「どれが人気だ?」 「そうだね、こっちの色んな新鮮な果物に白蜜かけたやつと、こっちのふんわり蒸したスポンジに、砂糖をつけてこんがり焼いたやつかな」 「だ、そうだ。他にもあるが、どれがいい?」  騎士はラヴィソンを何気なく自分の外套に隠すように肩に手をやって自分の方へ寄せながら、ラヴィソンに聞く。ラヴィソンは初めて目にするお菓子を作る様子と、それを売るお店と、お菓子そのものに目を奪われて、いつの間にか店先の縁に両手をかけて見つめるほど張りついている。店の主人はそんなラヴィソンに、小さく切ったお菓子の欠片がいくつか乗った皿を差し出した。味見していいということなのだろう。しかしラヴィソンはその意味が分からず首を傾げた。騎士はおかしなものではないとは思いつつも俄かに緊張する。 「……味見をして決めたら?お兄ちゃんも一つ食べてみよう」  騎士はそう言いながら、一つ手にして顔を覆う布の下から口に入れる。思ったほどは甘くない。そして、不審な味はしない。ラヴィソンは騎士を真似て皿の上から一つ摘まむ。顔を覆う布をどうすればいいのかと一瞬思案すると、騎士が自分の方へラヴィソンの向きを変えて、周りの視線から庇いつつするりと布を上げてくれた。ラヴィソンはその小さな口に、初めてのお菓子を放り込む。何とも言えない素朴な甘さが、染みる。 「美味しい?」  ラヴィソンはコクコクコクコクと何度も肯き、上等な革の手袋から覗く白い指で、そのお菓子をピシリと指した。これを所望するという意味なのだろう。騎士はそれを二つと果物の白蜜がけも注文してお金を払う。それを見た途端ラヴィソンは、無駄遣いをさせたかもしれないと気づいて慌てた。お金が必要だということを失念していたのだ。再び馬上の人となると、騎士は手綱を操りながらラヴィソンの目の前で袋からさっきのお菓子を取り出した。 「どうぞ」  ラヴィソンはそのお菓子ではなく、騎士の袖に手を伸ばし、引く。騎士が身体を倒せば小さな声が聞こえる。 「……もう、せぬ」 「え?」 「無駄遣いをさせてしまった」 「無駄じゃない。何も気にすることはない。このくらい、何ということはない」 「しかし」 「大丈夫。何も心配はいらない。さあ、温かいうちに」 「馬の上で」 「そう。楽しいよ」  ラヴィソンは騎士の言葉にようやく安堵して、差し出されたお菓子を受け取った。さっきの欠片とは違って確かにほんのりとあたたかい。ちぎろうとするラヴィソンに、騎士が声をかける。 「かぶりつくと、より美味しい」  ラヴィソンは騎士の言うとおりに、自分で顔布を上げてその中でお菓子にかぶりついた。それが本当においしくて、ラヴィソンは本当である、美味しいと背後の騎士に伝えたくてふむふむと頷く。騎士は両手でお菓子を食べるラヴィソンが万が一にも落ちたりしないように支えつつ、目の前の外套のフードがふかふかと動くのを見て笑みをこぼした。  それから目当てのものが売られている店を見つけて必要なだけ買い求め、気の済むまで、とはいかないまでも、市場の賑わいとこの国の普通の町の日常を少しだけ案内しながら遠回りをし、昼餉は市場で買ったどこででも売られているような、たっぷりの野菜と少しの肉を薄いパンで挟んだものを、川べりの木陰で座って食べた。 「口に合った?」  ラヴィソンはこくりと頷き、ふうと息をついて辺りを見渡した。日差しが川面にキラキラと反射して、少し離れたところからさっきの市場の喧騒が聞こえてくる。仕事をする男が行きかい、家事をする女が子供を抱いて笑っている。美しい、よい国だと、ラヴィソンは思った。  彼らの生活をこの身に代えて守れるものであれば、躊躇うことはない。わが祖国を愛しく感じられる。  騎士はラヴィソンの背中を見つめながら、この国にあるこの尊い人を、この風景を、しっかりと目に焼き付けておこうと思った。

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