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第53話

 ラヴィソンは精力的に自国の情報を集め始め、片端から頭に入れていった。そんな彼の突然の変化は当然宰相にも聞こえ、どういうつもりか探らなければと慌てた矢先、然るべき手順を踏んで、ラヴィソンは国王陛下への謁見を願い出た。親書の返事を受け取ったあの日から、初めてのことだった。  謁見を許してくれたアンソレイエは、会わなかった日々の分だけ慈悲深くなったような印象だった。それはラヴィソンの心境の変化だったのかもしれない。 「久しいことであるな、ラヴィソン。息災で何よりだ」 「アンソレイエ国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しいこととおよろこび申し上げます。本日は謁見をお許しいただき、こころから感謝を申し上げます」 「そなたに会う日を、どこかで待ちわびていたように思う。よく来た。しかし……自国に戻りたいという話らしいが」 「身勝手な申し出を、何卒お許しいただきたく、本日は参上いたしました」  ラヴィソンの決意を許すも許さないも、何もかもこの目の前にいる国王のさじ加減一つだ。今は駄目でもいつかは。ラヴィソンはどれほど長い時間がかかったとしても諦めないと腹に決めている。フォールはいつも通りただ静かにラヴィソンの背後に控え、物事が彼の思う通り進むように祈っていた。  アンソレイエはゆったりとした玉座から、そんな二人を眺めた。この国に、彼らは馴染んだのだと思っていた。護衛だった男は軍関係の仕事を得て、王子だった男は自分が与えた小さな宮殿で、側仕えたちと仲良く暮らしていると聞いている。この度の突然の申し出を受けて、ラヴィソンと仲のいい息子はもちろんだけれど、普段飄々とした有能な宰相まで、動揺のあまり久々に弟らしい顔でアンソレイエに食ってかかった。どうしてですか、そんな馬鹿なと。  ジョワイは確かにラヴィソンに肩入れしていたけれど、ラヴィソンの方は宰相に愛想よい振る舞いはしていないはずだ。にも関わらずこの状況。文官たちにはまだ知られていないこの話が公になれば、ラヴィソンを惜しむ声はさらに大きくなるだろう。彼の影響力を、この国の王として軽んじることは危険だ。 「今そなたの祖国がどういう状況か承知しているか」 「ここ最近、僅かながら。お恥ずかしいことではございますが、私はそういったことすべてを放棄してまいりました」 「なぜ突然?きっかけがあったのならば、話してくれぬか」 「祖国に、恩返しがしたいと考え至りました」 「恩?」  ラヴィソンは小さく頷き、密かに息を整え、うまく説明できるだろうかと少し不安になりながら、威風堂々とした王を見つめる。 「私には兄が二人おります」 「ああ」 「長兄は、私を旅に送り出したとき玉座にありました。次兄は、私が旅路にある時分に命を落としたそうです」 「そうか……残念なことであるな」  アンソレイエの哀悼に、ラヴィソンは謹んで礼を述べた。あの兄に、もう会えないのは本当に残念だと思いながら。 「次兄はとてもこころ優しい人でした。相手の気持ちに寄り添うことが出来、それを厭わない人でした。彼は今私の一族の眠る廟にいるということです。私は、彼の墓を参りたく思います。そして、永らく続いてきた一族の末裔として、墓を守りたい。最期はあまりに情けないことで、民たちを苦しめ、貴国にも多大な迷惑をお掛けしました。廟は、苦しんだ民たちから石を投げられているそうです。最もな感情を、理解しておりますが、いつまでもそれでは未来がない。私の人生の残りで、彼らに償いをしたい。私たち王族は民のおかげで続いてきたのです。一度は国を滅ぼした、その責任をとるべきであると考えます」 「立派であるな」 「恐れ多いお言葉でございます」  立派な心意気だ。しかしその言葉を額面通りに受け取るには、アンソレイエは老獪すぎた。この国の預り知らぬところで、密かに不埒者に唆されているのかもしれないし、悪事を企てないとも限らない。久しぶりに見たラヴィソンは、あの日この場で額ずき慈悲を請うた時のまま、清廉で高貴で、さらに美しく成長したように見受けるけれど、人間は変わる。中身と外面は、一致しないものだ。アンソレイエは肘掛を軽く叩いて、そうかそうかと気安いように応じつつ、彼に与えた自分の情けを、後悔する日が来ないことを祈るばかりだ。 「ラヴィソン、そなたがいつか祖国のために何かをしたいと言ってくるだろうと、予想はしていた。自分の国だ、気になるのは当然であろう。色々と頼み事はしてきたが、そなたに仕える者たちや宰相、我が息子の進言で、そなたの国のことからは遠ざけてきた。そしてフォールはそなたの元へ戻り、光も取り戻し、それ以降穏やかに暮らしていると聞いていたので、この度のことは少し驚いているところだ」 「陛下におかれましては、常々寛大なお気遣いを賜りましたことを改めて感謝申し上げます。並びに、この度の私の申し出でご心労をお掛けいたしましたことをお詫び申し上げます」 「フォールはいかがか。大変な怪我をしたと聞いていたが」  アンソレイエはラヴィソンの背後に目をやり、跪いて頭を下げ、大きな岩のように微動だにしない男に声をかけた。突然水を向けられて驚いたけれど、フォールは顔を伏せたまま、さらに頭を低くした。 「おかげさまで、今は回復しております」 「それは何よりだ。知っているか、ラヴィソン。フォールは私がひどく野蛮で冷血漢で、ラヴィソンを辱めた挙句殺すのだろうと思っていたようだ。そんな環境に、そなたを一人残して去ったことを後悔しているようだった。見殺しにしたのだと」 「まさか、そのような」 「返書を自国へ運ぶ任務に伴って、本人も相当に苦労したようだが……まあ、そのあたりはあまり言わずにおこう。そんなフォールをこちらへ連れ戻し、……少しおかしいだろうか?そもそもここはそなたらの国ではないが……まあ、よかろう。シャルルー自ら出張って連れ戻してきて、ラヴィソンは目が見えぬ以外は無事であると聞くや否や、ワンワン泣いたとか……ま、このあたりも伏せておこうか」  突然始まったアンソレイエのおおらかな大暴露話に、フォールは焦り、落ち着きを失くしてモジモジと身体を揺すった。当時の記憶は曖昧なので、自分では虚と実の区別もつかない。ラヴィソンはそんなフォールの頭を誰が撫でたのかと気になって仕方がなかった。  アンソレイエは自分を見つめる黒い目が本当に澄んでいて美しくて、ああ、彼は真実立派なのかもしれないなと感じた。 「……そなたらの祖国は、少しずつ立ち直り始めている。私もあまり懐の深い男ではないので、酷であると承知の上で、そなたの血族はすべて身分を剥奪し政には携われぬようにしている。それを苦にして命を捨てた者もいると聞く。今現在、あの国の中枢にいるのはほとんどが私が我が国から遣わせた者たちだ。占領、侵略、そんな謗りを受ける謂れはないが、属国としたも同然だからそれなりの反感は覚えよう」  今のお前の祖国は、すでに思い出にあるような国ではない。それでも、行く価値を見いだせるか?  アンソレイエは穏やかにラヴィソンを追い詰める。今さら変化を、危険を、なぜ取ろうとするのだ。何か思惑があるのか。 「プランスがとても寂しがっている。私も親だ、息子を愛している。そなたを大事に思う者たちが、この国にはたくさんいる。思いとどまり、これまで通り、ここに残ってはくれぬか」  ラヴィソンは、晴れた日の空のような目を持つ友人の顔を思い浮かべた。大切な大切な、友達だ。そして、遠くの祖国に想いを馳せる。変わり果てたらしいあの国に、今はもう誰もいない。誰も自分を歓迎しない。着いた途端に殺されるかもしれない。この国に向かって旅をしていたあの頃と同じ状況に、ラヴィソンはおかしいような気分だった。  違うのは、これが自分の道だと心底から言い切れること。そして、無駄死になどしてたまるかという本気の覚悟があることだ。きっと、少しは強くなった。成長かどうかはわからないけれど。  ラヴィソンはアンソレイエに微笑んだ。 「祖国に、戻りたいと存じます。陛下が我が祖国にしてくださったことを忘れることはございません。あの日この場で申し上げたことを、軽んじているわけでもありません。ですが、陛下の寛大なるお許しを賜りたく、伏してお願い申し上げます」  その言葉とともに、漆黒の髪がさらりと揺れて、ラヴィソンは深く頭を下げた。アンソレイエは、ああ、この男はすっかり王子であるなと思い、引き止めることを諦めた。彼の決意の善悪など、今はわからない。しかしもう、止まる事はないのだろう。 「さようか。ではもう、止めぬ」  アンソレイエはそう言って、ラヴィソンの旅立ちを許した。扉が一枚開いた。ラヴィソンはその感覚に感動し、身の引き締まる思いがした。 「長い間、それこそ目が見えないような不遇にあっても、そなたは私とこの国に尽くしてくれたと承知している。そなたの国へ差し向けた兵力の見返りに、そなたを丸ごと引き受けたのは事実であるが、十分働いてくれた。もう、そなたを縛る口実は見つからぬよ」 「アンソレイエ国王陛下には、この感謝を、言葉で述べることもできないほどでございます。いつか必ず、このご恩をお返しできるよう、精進してまいります」 「私に恩返しをと思うのならば」 「はい」 「あの国の再建に尽くすがよい。為政者になれるなどとは思わずただ粛々と、為すべきことを為すがよかろう」 「はい」 「心配ではあるが、期待はしている。あの国は私の支配下にある。それを肝に銘じて、存分に己の道をゆくがよい」 「はい」 「辛いことがあれば、便りを寄越すがよい。そなたがこの国にしてくれたことを私は忘れぬ。感謝しているよ。ラヴィソン、そなたはもう、私の友人だ。いつでも頼っておいで。身体を厭うように」 「ありがたいお言葉は、これからの私のよすがとなります」  いつもそばにいる宰相は、この場にいることを嫌がってどこかへ逃げてしまった。あの男は子供の頃から泣き虫なのだ。ほんの僅かの人間しか同席していないとはいえ、誰かにそのざまを見られるのが耐えられないのだろう。だからと言って、泣くのを我慢することもできない。彼は本当に、ラヴィソンをよく守っていた。息子のプランスも、ラヴィソンのことを大切にしていた。それら全てはなんの計略でもなく、ラヴィソンの人徳の賜物なのだろう。アンソレイエは自分でさえもすっかり魅せられていることに、こころの中で驚いていた。  お手並みを拝見させてもらおう、遠い異国の落ちぶれた王子よ。腐り落ちる寸前だったあの国は、もうすでに花も実も枯れている。それでも行くのなら見送ろう。その矜持に敬意を表して。  アンソレイエは笑顔を見せて、ラヴィソンに頷いた。 「己の努力を、報われたいと思うか」 「私に尽力してくれたすべてに、報いたいと考えます」 「老いらくの助言ではあるが、為にはなろう。何かを成そうと思えば、風を読むことだ」 「風を……」 「追い風は大体良いが、煽られぬように足元を見よ。風のないときは、立ち止まって辺りを見よ。向かい風が辛ければ、振り返って見るがよい。そこにはきっと、救いがある」  アンソレイエの言葉を反芻し、ラヴィソンは深く胸に刻み込む。この国での、周りの親切を思い返し、自分の至らなさを振り返る。道はある。行くだけだ。  深く深く頭を垂れて、ラヴィソンは感謝と敬意を示し、この国の生活と決別した。  ◆ 「アン……どうか、泣かないでおくれ」  この国を離れると話したら、側仕えたちはやはり大いに驚き、深く悲しみ、そして泣いた。ラヴィソンはそれが本当に辛くて辛くて、彼らを悲しませてでも行くべきなのかと悩んだ。それでも、行くのだと、彼らに告げた。  ここで静かにずっと暮らすことを、もう一度考えてはもらえませんかと、彼らは涙ながらに懇願した。もちろんラヴィソンを思ってのことだ。どこへもいかなくてもいいではないか。ここでずっと、しあわせに。みんなここにいるのだから。  ラヴィソンは本当にその通りだと思った。けれど決意は変わらなかった。祖国の未来が、行き止まりだと思いたくはないから。  ラヴィソンは立ち上がり、懐から綺麗な布を取り出して、アンの手に握らせた。アンは震える声で、勿体のうございます、とそれを受け取ろうとしない。 「私が涙を拭いてやれるのは、こうして傍にいるときだけである。アンは涙もろいので、また泣いてしまうこともあろう。そのときはそれで拭くがよい」  アンはまた新しい涙をこぼした。そして、坊ちゃまは、本当にお優しく、ご立派な方でございますと言った。その様子を見ていたゼンとダンも、涙をこらえることができなかった。 「心配は要らぬ。私はきっと、無事でいられる。優秀な騎士が、守るのだから」  フォールは壁際に控えたまま、目を伏せてその決意と従順さを無言で表す。命に代えても。それは、言葉に出来るほど軽いことではない。 「王族は、騎士に守られるものである。しかしそれに甘んじるのではなく、守られた身で、存分に働かねばならぬ。それが王族の使命であり、生きる道であるのだ」  この国への旅路においても、使命を全うしようと自分を鼓舞していた。これが自分の役割なのだと。しかしもう、あの頃のような悲壮感はない。希望と決意だけだ。どれ程辛くとも、味方がいる。だからきっと大丈夫だ。 「離れがたく、別れがたい。身を、切られるような思いである。これから先もずっと、そなたらの優しさを思い、ここでの恵まれた生活を思い、きっと悲しみに暮れるだろう。そなたらのしあわせを祈り、不自由はないだろうかと案じるだろう」  それでもラヴィソンは自分の決めた道をもう迷わない。ひたすらに行こう。そうすればいつか、晴れやかに笑える日が来るのだと信じている。 「きっと私は、空っぽだったのだ。器だけは大層で、中身は何もなかった。その器を、命がけで守り抜いてくれたのはフォールであり、少しずつ満たしてくれたのはそなたらである。そなたらの優しさで、今私は満ち足りている。フォールのおかげで傷ひとつない。だから、踏み出せるのだ。どうか、私の勝手な振る舞いを笑って許してほしい」  三人とも、クシャクシャの泣き顔で、それでもラヴィソンの言葉に頷いた。どうかご無事で。どうかしあわせで。遠く離れても、私たちはあなたを大切に思っていますと口々に言いながら。  思わずラヴィソンの目にも涙が浮かんだ。だけれどそれをこぼさず、笑顔で彼らを抱きしめた。 「いつか、そなたらを迎えに参る。そうして、みなでわが祖国へ旅をしよう。きっと、楽しい道中であろう。案内は、私にさせるがよい。とても……よい国であるから」  彼らには、馴染みも縁もない、ただ大きいだけの国。今はきっと、不幸な風が吹いている我が故郷。だけどいつか、見てもらいたい。  願いは叶う  祈りは届く  奇跡は起こる  それはこの国で学んだことだ。きっと、祖国でも。そう信じている。  ◆  出立の日は、朝から薄く雨が降っていた。少し肌寒いような気温を、側仕えたちは恨めしく思いながらも、ラヴィソンとフォールを、気丈に笑顔で見送ってくれた。愛馬に跨り、祖国への道を辿る。やがて大きな河に出て、雲間からわずかに射す朝陽が水面を輝かせていた。ラヴィソンはそれに目を細め、パルトの首を巡らせて、フォールの方を向いた。 「……フォールは、何も言わぬのだな」 「え?」  いつも無駄なことを言わない男ではあるけれど、ラヴィソンが突然祖国へ戻ると言い出しても、ではお伴しますとしか言わないことを、さすがに不思議に思っていた。  不安や不満はないのだろうか。進言や助言は?ラヴィソンの行動に注文をつけたいとは思わないのか。聞き入れて欲しい希望は?  フォールはラヴィソンよりもよっぽど不思議そうな顔で、はあ、と気の抜けた返事ともつかないような声を漏らした。 「ラヴィソン様のお決めになられたことについて、何も申し上げることはございません」 「さようか」 「その真意を、お教えいただく必要も、ないと考えます」 「さようか」 「私は、ラヴィソン様の心身をお守りしつつ随行させていただくわけでございますが」 「うむ」 「それに伴って必要なことは全て、ラヴィソン様からすでにお聞きしております」 「さようか」  フォールに不満がないのであれば、ラヴィソンからこれ以上言うことはない。ただ、この国へ来た時の護衛任務においても再会以降においても、フォールの働きを、労うことはあっても褒めたことがないような気がした。いつもとても感謝しているのだから、言葉にした方がいいと思うけれど、旅の最中に馬上から言うことはおかしいだろう。彼はもっときちんと褒められるべきだ。いつか祖国で、盛大に。では今、自分が彼にできることはないのだろうか?  今回の旅路は、祖国に入ってからが正念場だ。様々な場面を想定し、緊張していたフォールは、なんだか考え事を始めたらしい美しい主を見つめた。ラヴィソンはほんの少し、小首を傾げ、フォールを見た。     「フォールの望みは、何か」      思いがけない質問と、朝陽を浴びるラヴィソンの美しさに、フォールは考えがまとまらず、しかしラヴィソンから目をそらすことも出来ず、うわ言のように答える。     「……は……望み……私の、そうですね……」 「うむ」      ラヴィソンは表情も変えずにフォールを見つめている。漆黒の瞳は、もしかしたら本当に宝石で出来ているのかもしれない。フォールが言葉を途切れさせたからか、コパンが大丈夫かよと言わんばかりに胡乱げに振り返っているけれど、それにも気づかない。     「……これから先も、ずっと……ラヴィソン様が笑っておられるのを、お傍で拝見したいと……そう、望みます」 「……さようか」 「はい」    よくわからない答えだと自分でも思った。  もちろんラヴィソンのしあわせが一番の望みだけれど、しあわせなど、どんな形か誰にもわからない。だけど、きっと笑っている時はしあわせなはずだ。美しい青年は、感情の伴わない笑みなど浮かべるはずもない。  ラヴィソンも、想定していないような答えだったのできょとんとしてしまった。だけれど、とてもフォールらしい返事だと思った。手綱を引き、参るぞと愛馬に声を掛け、もう一度フォールの方を見ると、ラヴィソンは力強い笑みを浮かべた。     「その緑の瞳に、望みのものを。こころしてついて参れ」 「は!」  その時、彼らの未来に向かって、風が吹いた。

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