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第52話
じっくりと商店を見て回っていたので、すっかり昼飯時になっていた。フォールはラヴィソンに腹の空き加減を尋ね、そういえば空腹だとラヴィソンは答えた。
「どこかで、昼食を召し上がりますか」
「うむ」
「ご希望はございますでしょうか?」
「フォールがいつも行く店がよい」
「は」
食事できる店はたくさんあるけれど、軍人の胃袋を満たせる店というのは限りがある。安くてうまくてたくさん食べられる店だ。そしてできれば宿舎に近い方がいい。ということで、フォールはラヴィソンを促して、普段自分が通っている店へ向かった。ラヴィソンが入るような店ではないのだけれど、平民の生活を覗き見たいというのであれば格好の店。有り体に言えば粗野で繁雑な定食屋だ。しかし味はいい。
「お食事の後、私の住んでいる宿舎が近いので、ご案内いたします」
「それは楽しみである」
「残念ながら、軍関係者しか中には入れないので、外観だけとなりますがご容赦くださいますようお願いを申し上げます」
「うむ。軍施設の一つであると考えれば必然的にそうなろう。構わぬ」
「恐れ入ります」
もちろんフォールは中に入れるように許可を求めたのだけれど、さすがのテナシテも首を縦には振らなかった。宿舎には希望する隊員と軍関係者が入居している。機密を管理するような役職者は入らないので、見られて困るところはない。しかし、一人許せば緩くなる。恋人を連れ込んだりし始めれば、何かあった時に取り返しがつかない。だから、宿舎には入居者以外は入れないのだ。ラヴィソンは特別だとフォールは食い下がったけれど、特別なのはお前にとってだけだバーカと一蹴された。
そのやりとりを思い出し、フォールは悶々としたけれど、今更判断が覆ることはないので仕方がない。そうこうしているうちに、件の食堂へ着いた。いつも混雑している店だけれど、昼のちょうどいい時間だったので少し待ちが出ているほどだった。ラヴィソンを待たせるわけにはいかない。別の店にするか。フォールがそう提案しようと口を開くより一瞬早く、表で客と話していた店の者が目ざとくフォールを見つけ、その側にいる美しい青年を見るや否や、大きな声を出した。
「よーう!フォールじゃねぇか!昼飯、うちで食ってくだろ?すぐに空くからちょっと待ってろよ!」
ラヴィソンはその声の大きさにびっくりしたけれど、フォールが向かっていたのがその店だと知り、彼に近づいていった。
「はじめまして。ご飯を食べに来たよ」
「お!はじめましてーそうかい、嬉しいねぇ。今混んでるけど、すぐ空くから、ちょっとだけ待ってくれるか?」
「うん。みんなで順番でしょ。並んだ方がいい?」
「いやあ、大丈夫。まとめて二、三空くから。君、フォールのあれだろ?」
あれ。フォールのあれとはなんだろう。ラヴィソンは自分がフォールのなんなのか即座にはわからなかった。きっとこの店員もわからないから言葉を濁したのだろう。だけれど、そう、自分はフォールにとっての何かなのは間違いない。だからラヴィソンは頷き、フォールを青ざめさせた。
店員はフォールの動揺など意に介さず、ラヴィソンをしげしげと眺めて、なんて綺麗な子なんだろうなぁと思っていた。目が不自由だという噂があった気がしたけれど、知性に輝く黒い瞳は、全てを見通しているような強い光を宿していた。
「はい、空いたよ。中へどうぞ」
「ありがとう」
店員を睨みつけるフォールを従えて、ラヴィソンは意気揚々と店に入った。他の客が一斉に彼を見る。その視線を大きな身体で遮りつつ、フォールは窓際の席にラヴィソンを座らせた。ラヴィソンにとって、硬い木の椅子が新鮮だった。
「日替わり定食というものがありまして」
「ほう」
「特に好き嫌いがなければ、それで一食がうまく賄えるような品です。その日の、店のおすすめの皿のようなものです。本日は……ああ、ここに説明が。もし他のものがよろしければ、こちらから選んで注文も可能でございます」
「フォールはいつもどのようにしているのだ」
「考えるのが面倒なので、日替わり定食にしています」
「では僕もそのように」
「は」
客と一緒になって興味津々で二人を眺めていた店員を手で呼び、嬉しそうに近づいて来た彼女に日替わり定食を二つ、と伝える。店員はニコニコしながらラヴィソンを見て、挨拶をし、自己紹介までしている。
「ようこそ!うちの日替わり、結構量あるの。ちょっと少なめにしとく?」
「うん。フォールの半分くらいがいい」
「少なっ!あ、いや、わかった了解。細いもんね。そうしよう。ああ、何か飲む?」
「フォールと同じがいい」
「ですって、フォール。何飲むの?」
「水でいい。何か飲む?なんて、聞いたことないのに」
「だってー新しいお客さんなんだもーん!しかもめちゃくちゃ綺麗で可愛いしサイコー」
「早く注文を通して持って来てくれ」
フォールは苦い顔で店員を追い払い、ラヴィソンに、ここには水か酒かしかないので水にしました、と恐縮しつつ説明する。店内をキョロキョロしたりお品書きをじっくり観察していたラヴィソンは、水でよいと答えた。
「僕は酒は嗜まぬゆえ」
「は。承知いたしております」
「しかし本日は大変な記念日であるから、祝杯をあげてもよかっただろうか」
「もしお望みでございましたら、お屋敷でそのようになさるのがよろしいかと存じます」
そんなやりとりをして、待つほどもなく食事が運ばれて来た。フォールのが通常の量だとするなら、確かにラヴィソンには食べきれない。自分の前に置かれた皿でも十分すぎるほどだった。
「ありがとう。おいしそうだね」
「おいしいよー召し上がれ!」
気のいい店員はラヴィソンにとびっきりの笑顔で答えると、去り際に彼の肩に軽く触れた。フォールは後できっちり抗議しようと腹に決めつつ、ラヴィソンに食事をすすめる。
「ご説明致しましょうか」
「さっき読んだので、よい」
「は」
食事は間違いなく美味しかった。そしてやはり少し多かった。それでもラヴィソンは綺麗に食べ終え、お腹を擦り、またたくさん歩くので、すぐにお腹が減るだろうと言った。フォールは頷き、では参りましょうかと微笑む。
「僕が払う」
「……は、しかし」
頃合いを見計らって寄ってきた店員を前に、勘定の段になってフォールは戸惑った。ラヴィソンが世間知らずのままであれば、そう、この国まで旅をしてきた頃のようであれば、きっとこの食事に対価が必要だなど思いもよらなかったはずだ。おいしかったとその一言ですべて片付く。しかし、ラヴィソンは成長して庶民の経済にも詳しくなった。だから、彼の気づかないうちにそのあたりを済ませてしまうということが難しい。断ることも失礼なような気もするが、どうしたものか。
「おいしかった?」
「うん」
「よかったー足りなくなかった?」
「十分だったよ」
「そう。それで、フォールにご馳走したいの?」
「いつもフォールにお世話になっているから、お礼なの。仲がいい人同士は、するんでしょう?」
「そうね、たまにね。あーじゃあ」
「僕知ってるよ。今度はフォールが出すんでしょう」
「正解。じゃ、綺麗な僕から、今日のお勘定はいただくわね」
それでまた今度二人で来てね。
店員は片目をつぶって見せて、フォールもそれでいいでしょうと笑った。フォールはラヴィソンに頭を下げて、ありがとうございますと言った。ラヴィソンはとても大きなことを成し遂げた気分だった。
店を出て、入るときと同じように声の大きな男に見送られて歩き出す。
「僕は、よくないことをしただろうか」
「え?いえ、そのようなことは」
「本で読んだのだ。それで、ご馳走しあうというのを、してみたかった。フォールには不愉快であっただろうか」
「いいえ。少し、驚いただけでございます」
「さようか」
「……次に機会を与えていただけるのであれば、僭越ながら私が」
「うむ。楽しみにしている。実はそれも含めての御馳走しあう、なのだが、フォールは知っているだろうか」
ラヴィソンが少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。そうしてようやく、フォールは理解した。これはきっと、彼にとっては夢の実現なのだ。ささやかすぎて、かえって胸が痛い。あちらです、と案内を続けながら、フォールは神妙に頷いた。
「気を許し合う仲間同士で、何かいいことがあったりするとご馳走しあいます。付き合いがこれからもずっと長く続くと、これからも変わらない二人でいられると、そう思える相手であれば、次は自分がと言えるからです」
「うむ」
ラヴィソンはフォールの説明が自分の理解と一致していたのが嬉しくて、安堵した。独り善がりであってはフォールに悪いのではないかと思っていたからだ。フォールはフォールで、美しい主の想いの一端を汲めたらしいことに一安心を得て微笑む。
「私がラヴィソン様の御傍を辞することはありません。仲間同士などというのは思い上がりも甚だしく、もちろん言葉の綾ではございますが、次は私がと申し上げたことに偽りはなく、またこのような機会があれば、何よりありがたく存じます」
「僕もである。きっと、一度では覚えられることも少なく、慣れぬままであろうから、折を見て訪れたい」
「は」
「そのときには、供を」
「は」
食事をした店とフォールの住む宿舎は目と鼻の先だったけれど、相変わらずラヴィソンはあちこちに目を奪われて歩は遅々として進まず、フォールはそれに合わせることが何より楽しいので急がせることもない。宿舎前の小さな広場にようやく着いたかと思えば、そこで大道芸人たちが曲芸を披露していた。この村でもそう頻繁ではないので人だかりが出来ている。ラヴィソンは何が行われているのか見学したくて仕方がなくて、環の中心を覗こうとピョンピョンと跳ねてみる。その度にきれいな黒髪が楽しげに踊る。
「あちらからでしたら、見えそうです」
「うむ」
肩に担ごうかとも思ったのだけれど、それをすると自分たちよりも後ろの人が見えなくなる。始まってから少し時間が経ったのか、離れて行く人が時々いて、フォールは目ざとくその隙間を見つけて美しい青年を誘導すると、うまい具合に前の方まで進むことが出来て、ラヴィソンは視界一杯でその大道芸を見ることができた。フォールは自分が大柄だとわかっているので中腰になり、楽しそうにしている主の様子を見ながらしあわせを噛み締めていた。
ひとしきり芸が終わると、ラヴィソンは手のひらが痛くなるほど手を叩き、彼らに賛辞を送った。
「フォールは見えていただろうか?僕だけよい場所にいて、夢中になってしまったが」
「ご高配には及ばないことでございます。私もラヴィソン様のお傍で楽しんでおりました」
「であればよかった」
「はい。ありがとうございます」
「彼らは旅の者だという。毎日のように旅をしながら、あれだけの芸を身につけて、さらに磨くことは大変な努力であろう」
「さようでございますね」
「練習をしたら、僕もできるようになるだろうか」
「ラヴィソン様にできないことなどありませんので、きっと。ですが、やはり時間は多少かかるのではないかと考えます」
「さようであろうな……うむ……すぐできるようになれば、アンたちを驚かせられたのだが……やはり……今日中というのは……」
「あ、ラヴィソンじゃん」
「ほんとだ!ラブちゃんじゃん!」
芸者たちは何度目かの挨拶口上を述べて新しいお客を呼び込み始めている。ラヴィソンは彼らに場所を譲り、フォールとともにどんな練習が必要だろうかと話しながら宿舎へ向かい歩き出したところで、声をかけてくれたのは、ルイとルカだった。
「珍しいな、村まで来るなんて。買い物?」
「見学である」
「ああ、念願の。楽しい?」
「とても素晴らしい経験をしている」
「ラブちゃん、今の、あの面白いのも見られた?」
「うむ。初めてだったので、驚いた。とても楽しい催しであった」
「だよねー!俺たちも見たことなかったから楽しかった!」
「ラヴィソン、ご飯は?」
「先ほど戴いた。日替わり定食というものである」
「ああ、どこの店かわかった。俺たちもそこにすればよかったな。そうしたら一緒に食べられたのに」
「また来るので、その際に」
「そうだね。今からどこへ行くの?」
「フォールの住んでいる宿舎を見学に参る」
「入れないよ?」
「承知している」
「配偶者は入れるんだけどね」
「さようか」
「配偶者のふりして入っちゃう?」
「嘘はよくない」
「黙ってこっそり入っちゃう?」
「それはならぬ。規則を守らぬ者は、規則に守られぬ」
「俺らも今時間あるから一緒していい?」
「うむ」
歩き出すまでもなく、振り返れば、宿舎が建っていた。ラヴィソンが感慨深くその建物を見上げている間に、フォールは小さい声でルイに、おかしなことを言うんじゃないと睨みつけた。ルイは肩を竦めて、おかしくないもーんとそっぽを向く。ルカまで、数代前の王様は護衛と結婚したはずだからおかしくないぞと嗾ける。全くこの兄弟は突拍子もないことを言うから困る。フォールは気持ちを切り替えて、外観だけで申し訳ありませんともう一度詫びつつ、古そうだけれど頑丈そうな建物を簡単に説明した。
「あの柵の向こうが敷地です。出入り口には一応警備の人間が立ちます。ここからは見えませんが、小さな厩舎もございます」
「ほう」
「私を含め、馬番が面倒を見ます。決まりはないのですが」
「立派なことである」
「外から見たってわかんないよねー……あ、あれね、あそこの赤いのがひらひらしてる窓、あそこが俺の部屋ね」
「俺の部屋は、その隣だよ」
「ひらひらしてるあの赤いのは何か」
「やだー!ラブちゃんのえっち!」
両頬に手を当てて、ルイが楽しそうにキャーッと叫んでみせる。その口をフォールが雑に塞ぐ。警備に立っている同僚が迷惑そうな顔をする。ルイは時々よくわからないことを言うので、ラヴィソンは気にしなかった。
「フォールの部屋はどこか」
「は、ルカの部屋の上でございます」
「みな、まるで家族のように住んでいるのであるな」
「……は……その……仕方なく……そうならざるを得ず……」
建物にはたくさんの窓があって、開いていたり、花が飾ってあったり、ルイの部屋のように何かがひらひらしていたりしている。フォールの部屋だと教えてもらったあたりを見上げるけれど、地上から高さもあるし日差しが反射して部屋の中を窺い知ることはできない。フォールの普段の生活の一端を見学できればよかったのだけれど、これが限界だ。
「満足である」
「恐れ入ります」
とにかく、フォールの居場所を見ることができた。もしかしたらこの先、ここへ訪ねてくることがあるかもしれない。ここで待てば、あの階段からフォールがやってくるのだろう。迷わずに来られるだろうか。しかしそれはまた次回だ。警備の男にいい加減にしろよと呆れたように軽く追い払われて、四人は少しだけ建物から離れた。
「怒られちゃったねー」
「彼には彼の仕事があるのだ。邪魔をしてはならぬ。僕の配慮が足りなかった」
「いえ、ラヴィソン様に落ち度などあるはずもございません」
「これからどうするんだ?」
「図書館へご案内しようと思ってる」
「うっそ、マジで?それってフォール的なおすすめ?」
「僕が頼んだのだ。そなたら、行ったことはあるか?」
「俺はあるけど、兄貴はないかな」
「大体追い出されちゃうんだよねー俺は嫌いじゃないんだけどさ」
「ああいったところでは、静かにしておらねばならぬのだが、ルイはそれを承知しているのだろうか」
「してるしてるー。でもさ、面白い本とか見つけると嬉しくなるじゃん」
「それについては全く同感である」
「でしょ?でさ、すぐ人に教えたくなってさー」
思い出に残る面白い本のことから、さっき見た大道芸についてまで楽しそうに話している三人を眺めつつ、フォールはこの後の段取りを考える。図書館では時間がある限り過ごすだろうから、そのあとすぐに屋敷へ送っていけるように馬を引いてきておきたい。しかしラヴィソンは疲れていないだろうか?ここから馬を預けた店は図書館と逆方向だし、近くはない。どうするのが一番いいだろうか。
何事か考えているフォールに気付いたルカが、どうした?と声を掛けた。
「いや、馬をな」
「うん?どこかへ預けてるのか」
「ああ。カールのところに」
「んーちょっと遠いか」
「そうなんだ」
「門限はある?」
「特にないが、陽が傾く頃にはお屋敷にお戻りいただく予定だ」
「だったら俺が馬、連れてこようか?」
兄弟の申し出は正直ありがたい。この辺りを案内している間に馬を連れてきてもらえば彼を歩かせる必要がない。しかし、彼らにパルトはともかくコパンを扱えるとは思えない。別れ際にラヴィソンが知らない人について行ってはいけないと言い聞かせていたからなおさらだろう。コパンは人の言葉を理解しているような気がする。しかし、自分がラヴィソンの傍を離れることに不安もある。どうしたものか。自分以外の三人の会話があまり理解できなかったラヴィソンは、黙っていたけれどようやく口を開いた。
「何か問題が起きているのだろうか。馬が、何か」
「は……いえ。少し、お暇をいただきたく存じます。馬を連れて参りますので、ルイとルカと、こちらでお待ちいただけませんでしょうか」
「僕も預かり所へ、ともに参ればよいのではないのか」
「歩くうちに、あそこから随分離れてしまいました。段取りの悪いことで申し訳ない限りでございます」
フォールは深々と頭を下げて、ラヴィソンの許しを請う。確かに少し脚がだるい。こんなにたくさん歩くことがないので、同じ距離をまた引き返すのは少し苦痛かもしれない。ルイとルカと一緒にいれば、迷子になる心配もない。ラヴィソンは、ではそのようにと頷いた。
「ありがとうございます。ルイ、ルカ、すまんが俺が戻るまでラヴィソン様のお相手を頼みたい」
「了解」
「ラヴィソン様にお疲れの出ないように、この辺りからは移動しないでくれ」
「じゃあ、裏手の芝生んとこ、あそこで座って待ってるよ」
「ああ」
宿舎裏にある芝生の広場周辺には飲み物や軽食の屋台もあるから、ラヴィソンが退屈することもないだろう。フォールはラヴィソンにもう一度頭を下げてから、急いで馬の預かり所へ向かった。フォールの足ならそれほど時間はかからない距離だ。彼の大きな背中を見送り、ラヴィソンは兄弟を振り返る。
「フォールは、鍛えているからあんなに歩くのが速いのだろうか」
「足が長いからじゃないの」
「さようか」
「あ、あそこ、ラブちゃん、あれねぇ俺らがよく行くお風呂屋さん」
「ああ……少し前に仔馬が生まれた風呂屋であろうか」
「そうそう!仔馬見えるよ、見る?」
「是非」
「うん、あっちからも芝生に出られるから」
仔馬を見た経験がほとんどないラヴィソンは、俄然興奮してきた。どのくらい小さいのだろうか。産まれてから日が経っているからもう大きいのだろうか。近寄ったり触ったりしたら母馬に怒られてしまうだろうから、静かにそっと見守らねば。そんなことを考えつつ、兄弟に促されて風呂屋の方へ移動しようとしたその時、宿舎から出てきた男がひどく不愉快そうにラヴィソンたちを見遣り、大きな声でお前が噂のガキかよと吐き捨てるように言った。ラヴィソンは自分のことを言われているとは思わなかったのできょとんとし、しかし兄弟は一瞬で剣呑な目になり、友人を背に庇った。
「なんすか」
「あ?お前らには言ってねぇし。つか、お前らも兄弟いつも一緒でうざいね」
「いやーほんと、仲いいもんで」
「褒めてねぇ」
男の暴言を、ルイは相変わらずあははと笑い飛ばし、ルカは硬い表情で黙り込む。そんな二人の隙間から様子を窺っていたラヴィソンを指差し、その男はお前だよ、と言った。指を差されるなど初めてのことで、驚きのあまりその振る舞いを諭すことも思いつかない。そもそもこの男は誰なのだ。宿舎から出てきたのだから軍関係者なのだろう。ガッチリとした体格は相応だし、兄弟が一応敬語を使っている。上官なのだろうか?
「返事ぐらいしろよ、かわいいお坊ちゃん」
側仕えたちが呼ぶように呼ばれて、しかしその不快感は大きかった。ラヴィソンは眉を顰めて誰何しようとしたけれど、ルイが先に相手をけん制した。
「いやほんと、何なんですか、先輩?ちょっと友達と遊んでるだけなんで、勘弁してもらえないっすかね」
「は?何お前ら、このガキと友達?」
「ガキじゃねぇし」
ルカの声は地を這うように低かった。明らかに怒っている。先輩、とルイが言った。あまり事を荒立ててはよくないのではないだろうか。どうやら彼の狙いは自分のようだ。ラヴィソンは二人を制して、一歩前へ出る。
「用件があるのなら聞こう」
「はあ?どこまで調子乗ってんだ、お前」
「すまぬが、あまり難しい言葉はわかりかねる。宿舎を見学していたのだが、もう離れるので案ずることはない。何か迷惑をかけたのであれば詫びよう」
「なんだその言い方は。くそ、フォールはお前に何か弱みでも握られてんのか」
「フォールの弱み……?」
ラヴィソンは本当に何を言われているのか理解できなくて黙り込んだ。フォールの弱みなどあるのだろうか?何でもできるあの男に?混乱するラヴィソンを他所に、その男はイライラと腹立たし気に、汚い言葉を吐く。周囲が少しずつざわつき始める。
「お前あれだろう?どっか、違う国の貴族かなんかなんだろう?だからフォールを自分の物みたいに考えてんのかも知れねぇけど、そういうの本当に迷惑だから」
「そのように考えたことなどない」
「じゃあフォールを何だと思ってるんだ?召使いとか小間使いとか、そういう風に勘違いしてんじゃねぇかって言ってんだよ。お前何様なんだよ、偉そうに」
フォールを何だと思っている?何を言っているのか本当にわからない。ただ、この男はものすごく怒っていて、それはフォールのためらしい。ラヴィソンは自分のフォールへの接し方を窘められているのだろうかと考えたけれど、ああ、なんだか焦ってしまってうまく考えがまとまらない。知らずにぎゅっと強く拳を握り、何を言うべきか必死で言葉を探す。
「フォールはフォールであり、僕は僕である」
彼の怒りの原因はわからない。質問に答えれば多少は気が済むかもしれない。だからラヴィソンはどうにかそう言った。ルイとルカは、ラヴィソンを連れて去るべききっかけをじっと待っていた。事を荒立てずに、ラヴィソンができるだけ傷つかないように。
男は大げさにため息をついて、これだからガキは、と大げさに嘆いてみせた。
「俺はそんなことを言ってるんじゃねぇよ」
「そなたの質問はよくわからぬ。何が知りたいのか」
「お前はフォールの何なのかって聞いてんだよ最初っから」
「よく、わからぬ。そなたはフォールの友人だろうか」
「は?俺?俺はさーほら、時々、仲良くしてる間柄。そういう関係だよ」
仲良くしている。ラヴィソンの目には、その男の意味ありげな笑みは映らず、ただ俯いて自分の記憶を探っていた。この国で光を再び得て以降、色んな本を読むことを許され、読了した私小説の類も膨大な数にのぼる。その中に何度も出てきた言葉だ、もちろん庶民のやり取りとして。ラヴィソンは一つ頷き、その男の方へ顔を向け直す。
「仲のよいことは素晴らしいことである」
男は拍子抜けし、兄弟は思わずくすりと笑った。馬鹿にされたと勘違いした男の顔がゆがむ。
「クソガキが、マジで調子乗んなよ。大体お前はフォールに迷惑を掛けすぎじゃないか?甘えるのもいい加減にしろよ」
「迷惑とは。フォールがそのようなことをそなたに申したか」
「休みの日全部を奪われて、迷惑じゃない人間なんかいねぇだろ。普通は友達と会ったり、朝寝をしたり、酒を飲んだり、そういうために休みがあるんだ。一人で何も出来ないガキの面倒をみるためじゃない」
「もしそれが僕のことをさすのであれば、そなたの言葉は間違いである。僕は自分のことを自分でするよう努力している。しかし、それとフォールを傍にと望むことはまったく別であり、フォールがいるからといって着替えを手伝わせたり食事の用意をさせたりはしない」
フォールに何かをして欲しいわけではない。傍にいて欲しいのだ。
ラヴィソンは気丈に振舞ってはいたけれど、彼の言葉に激しく動揺していた。自分はフォールに迷惑を掛けているのだろうか。休みの日に会いに来て欲しいと頼んだことは間違いだったのだろうか。今日この日も、自分はとても楽しくて充実しているけれどフォールはそうではないのだろうか。何かが変わりそうで、それが嫌で、ラヴィソンは挫けそうな自分を叱咤する。見ず知らずのこの男に、屈したくはなかった。
「僕は、朝自分で寝台を降りて着替えることも出来るし、庭へ出るのに自分で窓も開けられる。フォールと湯浴みをしたときに、フォールの身体を拭いたこともある。僕は、ちゃんと同じことが出来る」
それはラヴィソンの精一杯だった。自分の思いつく限りの精一杯を、しているつもりだった。普通の平民には遠く及ばないことはわかっている。だけれど、少しは近づいけていると、そう思いたかった。努力を続ければ、自分もフォールたちと同じになれるのだと。
男はラヴィソンを鼻で笑い、バカじゃねぇのと吐き捨てた。と、同時にルカは我慢をやめた。兄の制止の手をすり抜けて、先輩隊員の胸ぐらを掴んで近くの店の壁際に追い詰め、あっという間に押しつける。止めなければ。ラヴィソンは混乱の中でどうにかそう思い至り、衆人環視の騒動はまずいと察し、友人の名を呼んだ。
「ならぬ、ルカ。暴力は、ならぬ」
「よせって、ルカ!いい子だからやめろ!!」
ルカは無表情で、いつもの穏やかさは消え失せていた。ラヴィソンに言いがかりをつけていた男も軍人だから、一方的にやられているわけではない。ルカの腕を掴み、睨みつけ、隙があれば攻撃しようと凄んでいる。殴り合いが始まれば止められないだろう。どちらも怪我と処罰は避けられまい。それは本当にまずい。人の目が集まり始めているし、ラヴィソンは焦り、声を大きくした。
「バカとはなんだ。ラヴィソンに謝れ」
「ルカ、ならぬ。引くがよい」
「おい、何やってんだ」
「ラヴィソン様!」
人垣の中から現れたのは、血相を変えたフォールと、テナシテだった。テナシテは夜勤に出る道中に通りすがったらしい。直属の上司の登場に、ルカもさすがに引くしかない。離れざまにお互い密かに相手の身体を撃ち、さっと距離を取る。フォールはラヴィソンに何かあったのではないかと慌てて駆けてくる。
「おいコラ。何やってんだって聞いた。答えろ」
テナシテは形の良い顎をツンと上げて腕を組み、部下二人を睥睨している。そんなことはどうでもいい。フォールは突進するようにラヴィソンの傍へ寄り、お怪我はございませんかと尋ねた。
「僕は、なんともない。あの者が話しかけてきて、そう、ルカが代わりに腹を立ててくれたのだ。しかし僕の態度が悪かったのかもしれぬ。であるから、きっと誰も咎められるべきではないと考える」
「お傍を離れましたことを、どうぞお許しください。お怪我がなかったことが幸いでございました」
ほとんど尻を蹴り飛ばすような催促で、テナシテはその隊員に駐屯所へ向かうように指示をする。隊員はそれに頷きながらも、フォールに近づき、肩を叩き、早口で話しかけた。また今度一緒に飲みに行こうだとか、次の休みはいつだっけだとか。
しかしフォールは返事をしなかったし、振り返ることもなかった。わざとではない。頭の中は目の前にいる美しい青年のことしかなく、身体に触れられても気づかなかったし、しつこく何事か話しかけられても耳に届かなかったのだ。隊員は憎憎しげに、しかし残念そうにその場を後にした。もちろんそのことさえ、フォールは無関心だった。
「どうぞお許しください。このような」
「ルイとルカがいてくれたし、僕に危険はなかった。僕は知らぬ者ではあったが、彼らの職場の者である。ここは屋敷ではないから、色々な者の往来がある事は承知していたので、フォールに落ち度はないものと考える」
「ご不快な思いをなさったと、そのようにお察し申し上げます。ただそれだけでも、大問題です」
不快かどうかは別として、確かに驚いたし慌てた。今もまだ動悸がする。だけど、これは新しい経験をしたからだ。フォールのせいでもなければ、先ほどの男の言葉にいつまでも動揺しているわけではないはずだ。ラヴィソンは、安心が欲しくて言葉を重ねた。
「僕は既に平民である。であるから、このような交流は普通であり、先ほどの者とも同等で、問題はない。僕は、平民としてここにおり、もちろんフォールやルイやルカとも同じである」
ちゃんとできるのだ。まだまだ不慣れであるとは承知で、だけれど自分は平民として振舞えているはずだ。そうでなければ、おかしい。だって、自分はもう長らく平民なのだ、フォールたちと同じに。だからこんなことは大したことではない。そのはずだ。ラヴィソンはそういう気持ちをこめて、目の前に跪く男を見つめた。
しかし彼は、ひどく真剣な顔で言った。
「ラヴィソン様におかれましては、この先どのようなことがあってもその高貴なご身分に些かの変わりもないと存じます。場所を移し、日々の生活が違っても、ラヴィソン様はラヴィソン様であり、我々のような平民と同じではございません」
フォールにしてみれば、持って生まれた血筋は環境や状況で変えようがなく、今回のような特別なことが起きて自国を治める一族の一員ではなくなったとはいえ、たちまち平凡な民となるはずがない、その美しさも気高さも、一生のものであって誰も奪うことが出来ず、ラヴィソンはいつまでも何があっても自分にとっては守りたい、尊く大切な方だと言いたかったのだ。
しかしフォールの言葉を聴いた友人たちは顔を顰めた。言われたラヴィソンも目を瞠り、唇を噛んだかと思うと踵を返して駆けだす。その先には馬が二頭。ラヴィソンは勢いそのままにパルトに飛び乗る。その足音にようやく顔を上げたフォールは、弾かれたように立ち上がり、お供をしようと自分の愛馬に駆け寄った。しかしコパンは、ピシリと耳を後ろに伏せて、あろうことか自分の飼い主を威嚇した。その迫力に、思わずフォールの動きが止まる。その隙にパルトはラヴィソンを乗せて走り出し、コパンはフォールをもう一度威嚇してから彼らの後を追った。フォールは自分の主と愛馬とに、置き去りにされたのだ。遠くなっていくラヴィソンの背を呆然と見送るしか出来なかった。
「あーあ……」
「最悪だな」
「俺はこれからこの大男を朴念仁と呼ぶ」
「僕はもうそう呼んでいた」
「さすが隊長、慧眼です」
「ラブちゃんかわいそー」
親しい男たちの言葉に我に返り、フォールは慌てた。ラヴィソンを追わねば。しかし、彼の機嫌を損ねたらしい。追いかけることは許されるのだろうか?グズグズしている間に彼に身に何かあったら。
「あの子の家までそう遠くはないし、危険な道もない。お前は他に考えるべきことがあるだろう」
「俺は、ラヴィソン様のことしか考えたくない」
呆れ果てたようなため息とともに、テナシテは周りにまだいるやじ馬たちに散開を促す。中心人物の退場もあって、彼らはあっという間に散り散りになっていった。動揺し、ラヴィソンを追おうとするフォールに、ルイはフォールって本当に何もわかってないねと珍しく渋い顔をしている。喧嘩の延長で気が立っていたルカも、落ち着きを取り戻しつつあった。
「ラブちゃんはすごく努力していた。平民の生活に慣れようとし、理解しようと歩み寄ってくれていた。お前はその気持ちを踏んづけたんだ」
「踏みにじったんだ」
「それ、踏みにじったんだ」
「そんな、つもりは」
「多少特別扱いを受けてはいても、あのお坊ちゃんはここで平民として生きていかなきゃならない。だからがんばってる。一番近いお前を参考にして真似をして、同じだ、同じだと、同じことが出来ることを喜んでさえいたんじゃないのか」
「ラヴィソンは、身分も姓も剥奪されて、元には戻れないんだよ。家族に会うこともない。自国の地を踏むこともない」
「ラブちゃんが一度でも、平民なんかごめんだね!とか言った事あるか?」
「それでもラヴィソン様は、俺たち平民とは違う!」
「……違っていて欲しいと思うんだろう、それはフォールのわがままだ」
図星を突かれて、フォールは声も出ない。そう、わがままなのだ、自分の。あの方は自分と違うから。平民にはなれないから。いつまでも誰かが守って差し上げなければいけないから。そう言い訳して、お傍にいることの理由にしたかった。それがなければ、どうすればいいのだ。同じでは、だめなんだ。
「謝ってこいよ。……きっと泣いてる」
フォールは宿舎の馬を借りると、矢のような速さで屋敷へ向かった。
◆
フォールがラヴィソンの自室に着いて、そっと扉を叩いたら、怒り心頭のアンが出迎えてくれた。元騎士が心底震え上がるほどの殺気を湛えて、アンは半眼でフォールを睨んでいる。
「……申し訳ない、その、少し、何が、あれしてしまって、こう、あれしようと、思ったんだが、つまり」
「坊ちゃまに触ったらぶっ飛ばす」
「はい」
それ以外に何も言えない。アンは本気だ。その証拠に前掛けの衣嚢は重そうに短剣の形に膨らんでいるし、実際手には荒縄も握られている。フォールは小走りにアンの脇を抜けて部屋に入り、ラヴィソンを探せば、寝室の手前の間の長椅子に膝を抱えて蹲っているのが見えた。大急ぎでその傍へ寄り、両膝と両手を床につけて頭を下げる。
「ラヴィソン様……申し訳ありませんでした。私の戯言で不快にさせてしまい、申し開きのしようもございません。どのようにお詫び申し上げればいいのか───」
しどろもどろでフォールが謝罪を繰り返していると、ラヴィソンがようやく顔を上げた。手にしていた母の形見で自分の頬を拭うけれど、瞬きをすればまた、美しい目から大粒の涙が零れ落ちる。フォールはその泣き顔に、自分のしてしまったことを嘆くこともできないほどに胸が痛んだ。泣いている。ラヴィソンが泣いている。泣かせたのは自分だ。どうしたらいいのかわからず、頭がどんどん真っ白になっていく。
ラヴィソンはあの後無心に馬を走らせて家に戻ると、異変に気付いて飛び出してきたダンにパルトとコパンを任せ、一目散に自室に引きこもって泣き出した。
自分は何と無様なのか。思いあがっていたのだ。そして、気付いた。自分をずっと誤魔化し続けていたのだと。そしてその茶番に、周囲を巻き込んでいたのだと。それが情けなくて、泣けてくる。
アンはオロオロと部屋の端っこを行ったり来たりし、ダンとゼンも何が起きたのか確かめたくてソワソワと部屋を出入りする。彼らに心配をかけているとわかっているのに、どうしても涙が止まらない。
泣きながらぼんやりと、泣いたのはいつぶりだろうかと考えていた。思い当たるのは、母を亡くした日。まだ幼かったラヴィソンはもう二度と優しい母に逢えないのだと聞いて、悲しくて寂しくて涙が止められなかった。乳母はそれを見て泣き止むようにと何度も言った。ラヴィソンが憎かったわけではもちろんなく、他の王族の目を気にした結果だった。ラヴィソンはそれでも泣き止むことが出来なかったので、一人で自分の部屋に戻りそこで泣いていた。いつもは誰かがいるその部屋はなぜか無人で、だから気の済むまで母を想って涙に暮れていた。そこに第二王子である次兄がやってきて、慰めてくれた。自分の懐から手ぬぐいを出し、涙を拭いてくれた。
ラヴィソンは胸の痛みに耐えるように目を閉じる。そうしていたら、フォールがやってきた。蒼白な顔で謝り続ける彼は、何も悪くないのだ。
「……平民は、このような場合如何致すのか」
ようやく口を開いてくれたと思ったら、思いがけない質問でフォールはまた少し焦った。グッと腹に力を入れて、主の真意を恐る恐る尋ねる。
「如何……とは」
「大泣きしている者に対する応じ方を問うている」
「は……」
かすれたラヴィソンの声にどう答えるべきか、考えをまとめる余裕はない。濡れた目がこちらを見ている。頬が赤い。ああ、なんと罪深いことをしてしまったのだ。フォールは未だ、なぜラヴィソンが泣いているのか、その理由が正確にはわからなかったけれど、彼が泣いているというその事実だけで、この世が終わるのではないかとさえ思った。
「そう、ですね……一般的には、その者の好きなものを渡して様子を見たり」
「好きなもの」
「お菓子ですとか、おもちゃが多いかもしれません」
「お菓子を、所望する」
アンは慌ててその支度に走っていった。
「他には」
「えーと……どこか痛いのであればそこを撫でたり、頭を撫でたり致します」
「なぜ、頭を」
「……頭は急所であるので、そこを撫でてもらうと信頼感が生まれて安心するのかもしれません」
「撫でよ」
「……は」
主の頭を撫でるなど、恐れ多くて手が震えた。フォールがそっと頭を撫でると、ラヴィソンはおとなしくしていた。艶やかな黒髪の感触を、素晴らしく思う余裕さえない。大きく美しい瞳からはまだ時々透明な滴が零れ落ちるし、悲しげな表情のままでクスンクスンと鼻を鳴らしている。フォールは自棄になっていた。この様子をアンに見られればまた怒られるのだろう。それでもラヴィソンの涙を止めるほうが大切だった。多分殺されはしない、はず、だ。
大昔、一番下の妹をよくあやしていた。それと同じようにラヴィソンを抱き上げると、軽く揺らして背中を叩く。
「すべて、私のせいです。どうか、泣き止んでください。私がすべて、悪いのです。お許しください」
思いがけないフォールの行動に驚いたけれど、ラヴィソンはフォールのぬくもりに安堵を得つつ、また新しい涙をこぼした。後悔と自責、これからの試練、そして何より、たくさんの別れの予感。
しばらくフォールにしがみついていて、ようやく泣き止んだラヴィソンは、アンが戻ってくる前に降ろしてもらってきちんと長椅子に座りなおした。フォールはラヴィソンの前に跪き、もう一度深く頭を下げる。
「───兄のことを、思い出していた」
「は」
「二番目の兄だ。ヴァン王子である」
「は」
「…………あの時聞いた、あの悪党の言葉を真に受ければ、兄はもうこの世にはおられないのではないか。フォールは真実を知っているだろうか」
突然のことで誤魔化すことはできなかった。フォールは自分の未熟さを恨めしく思いつつ、彼の薄幸さに胸を痛める。そして、低い声で答えた。
「……歴々の王族の方々と同じ場所で、休まれておられるようでございます」
「戻りたいと、考える。祖国に」
「え?」
ようやく、何かを考えることが出来た。旅に出てからずっと、まともな思考は働かず、闇の中に沈み、光を取り戻してからは自国を忘れようとさえしていた。あそこに自分の居場所など既になく、国が国として機能しているかも定かではない。血の繋がった一族たちがどうしているのか、民は餓えてはいないだろうか。そんなことを考え出せば終わりのない苦しみに囚われると本能が知っていた。どこかで、自分の役目は果たしたのだからという甘えもあった。
ずっとこのしあわせが続くことを願っていた。だけどどこかでわかっていた。ここは自分の居るべき場所じゃない。この生活は許されるものじゃない。行かねばならない。例え孤独な道であっても。手にした全ての優しさをここにおいて。
「フォール、僕は……私は、王族である」
平民になりたいと思っていた。だけど、自分の血は変えられない。与えられた使命を、果たさなければならない。
頬にはまだ涙のあとが残り、黒い瞳は濡れている。だけれど、ラヴィソンはもう泣いてはいなかった。毅然と、非の打ち所がないほど毅然と、自分の運命を受け入れていた。意を決したのだ。
フォールは美しい青年の先行きを思い、なぜだと、神に尋ねた。なぜこれほど、彼を高潔でいさせるのか。小さく穏やかなしあわせに、なぜ溺れさせて差し上げないのか。
答えはなく、フォールにとっては、神よりもラヴィソンが大切だった。
「ラヴィソン様が王族としての使命を全うなさるのでしたら、私も騎士として、この身を捧げたく存じます」
「私一人ではやはり頼りないことであろうな」
「いいえ。しかし王族は、守られるべきです。尊く気高い。王族として生きていく、その先行きの安寧は、騎士の務めであると考えます。どうぞ、お許しください」
ラヴィソンが異国で平民として暮らすのであれば、自分は馬番でいい。祖国へ、王子として戻る決意をしたのであれば騎士として供を。何の不思議も迷いもない。ただ、ラヴィソンがそれを許してさえくれれば。
ラヴィソンはフォールの秀でた額を見つめ、楽ではないこれからのことを思い、それは自分が選んだ道であると自分に言い聞かせた。一人で行けぬのであれば、何かを成し遂げられようはずもないだろうと。
「私を、忘れるがよい」
いないものと思えばよい。そう、死んだのだと。そうすればフォールはここで、きっと良い人生を送れる。フォールはしばらく黙っていたけれど、承知いたしましたと答えた。ラヴィソンは頷いた。これでよいのだ。しかしフォールの言葉は続いた。
「お顔もお声も、何もかもすべて忘れてご覧に入れます。私には記憶も思い出もなくても生きていけます」
「……」
「ただひたすら、ラヴィソン様をお守りできるなら。お邪魔はいたしません。姿を隠せと言うことであればそのように。でございますが、わずかだけでもお役に立ちたく思います。勝手で不相応な私の願いを、お許しください。ラヴィソン様の歩かれる道の、小さな石を取り除く、それだけでもいいのです。どうか……どうか」
もう、遠くにいて彼の無事を祈るだけの日々は耐えられそうにもない。何があっても離れたくない。自分のすべては、この美しい人のものなのだ。
ラヴィソンはフォールの静かな、しかし断固とした決意を斥けることはできなかった。誰にも頼らずに生きていくことなど、誰にもできない。できると思うことこそ、思い上がりなのだと、ラヴィソンはもう知っている。
「私の人生に、フォールは必要である。そばに」
フォールは驚いて目を見開いた。そして、心底嬉しそうに笑い、わずかに頬を染め、ああ、と感嘆の息を吐く。
「こんなすごいことがあるでしょうか。なんという……私にとってラヴィソン様の存在が何よりも大切なのは言うまでもないことでございます。お役に立ちたく、存じます」
「励むがよい」
「は!」
「私は色んなことを学んだ代わりに、少し、弱くなり、人に甘える癖がついたようである」
ラヴィソンが控えめにそう告げると、フォールは少し表情を曇らせた。
「……そのような果報者がいるのでございますか。卑しく浅はかではございますが、そのような僥倖を羨ましく思います」
ラヴィソンは小首を傾げて、言葉に出しても伝わらぬことはあるものだと不思議に思った。
やがて大量のお茶とお菓子を、側仕えたちが三人がかりで部屋に運んできた。ラヴィソンはその様子に微笑み、泣き止んだ彼を見て側仕えたちは胸をなでおろした。
きっと些細なことだったのだろう。ラヴィソンが成長するうえでの必要な躓きがあったのだろう。そう考えてフォールの背中や肩や足を、それぞれが踏んだり叩いたりする程度で矛を収めた。
「お夕飯は、フォールと一緒にお召し上がりになりますか?それとももう顔も見たくないようでしたら」
「ふ……アン、もうよい。フォールが困っている。村で少しびっくりすることがあっただけである。いつも通りに」
「はい、坊ちゃま」
恐縮して縮こまっているフォールをジロリと睨み、お夕飯まで、坊ちゃまのお相手をお願いね、今度泣かせたらマジでぶっ飛ばすわよと言い置いて、側仕えたちは出ていった。ラヴィソンは小さく笑っている。
「アンは、私が心配なのであって、フォールを嫌っているのではない」
「は……いえ……この度は本当に、申し訳なく、お側仕えの皆様方のご心配やお怒りはごもっともであると承知しております」
それでもアンはちゃんとフォールの分のお茶とお菓子も用意してくれていた。庭に出て、いつもの席で、風に吹かれていれば、こころが落ち着いていく。長い一日だった。
ふと、ラヴィソンはフォールの方を見遣った。
「私はフォールの何なのだ」
「え?」
「ずっと、私が平民でなければ、フォールと一緒に過ごすことは出来ぬのだと思っていた。同じでなければならないと。そうすれば、自分の本来の責任や運命から逃れられるとも考えていたようにも思う。しかし、それは誤りであったと、今はわかる」
「は」
「フォールは私に敬意を払ってくれるが、すでに落ちぶれているのは事実である。私は元王族であるというだけで、今は何者でもない。フォールと同じにもなれぬ出来損ないである。これほどまでに立場が違って、この先も一緒にいられるものなのだろうか」
フォールは手にしていた茶器を置き、目を伏せる青年を見つめた。例えば友達になどなれるはずがない。そんなことは恐れ多い。初めて会った日からずっと、彼は自分の主なのだ。しかし確かに、それはフォールの気持ちの問題であって実際には違うのかもしれない。恐れながら、とフォールは口を開いた。
「ラヴィソン様との差を、私は苦しいともおかしいとも思いません。大切な人と距離があったとして、それがなんだというのでしょう。もちろん、本当に離れるのは辛いことでございます。ですが、お傍近くに居られるのなら、なんの不満もありません。この距離を、どうするのかは人によるのでしょう。詰めてしまう者もあれば、埋めてしまう者もあるかと存じます」
「埋める」
「はい。私とラヴィソン様の間にある距離は、忠誠と尊敬で埋まっております。全く、離れてなどいないと思えるほどでございます。うまくご説明できませんが……私にとってラヴィソン様はラヴィソン様です。それが、すべてでございます。ずっとお傍におりたく存じます」
フォールの説明は、ラヴィソンに腑に落ちた。違いはあれど距離など、感じたことがない。それはフォールが埋めてくれていたからなのか。なんとすごい男なのだろうか。何でもできて、頼もしい。ラヴィソンは深く頷き、微笑んだ。
「なんと呼ぶのだろうか、この関係を」
ラヴィソンにそう尋ねられて、フォールはじっと考え、あっという間に困り果てた。
「……わかりかねます。名が、必要でしょうか」
ラヴィソンは声を上げて笑った。この男にも、できないことはあるのを思い出したのだ。
「フォールは、名づけが苦手であるから」
「さようでございます……その、ご容赦くださいますよう、お願いを申し上げます」
「かまわぬ。いつか私が名づけよう」
さあ、帰ろう
愛する我が祖国へ
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