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第11話

 翌朝、多岐はミハナを家に残して孔雀屋へ出向いた。ミハナには何故か止められたが、昨日は結論を確認し合う前に帰ったのでオオクマに聞きたいことも二、三残っていた。ミハナは本日は終日休みということで、玄関で見送ってくれた。  朝ご飯は自宅で済ませて、多岐はいつも通り孔雀屋の住居棟へ向かった。朝からテキパキと動く者もいるが、夜の仕事を終えたばかり、もしくは今夜に備えて昼過ぎまで寝ている者も多い。玄関で靴を預けて階段を上がり、珠の進の部屋を訪ねたら襖は開けられたまま、もぬけの殻だった。風呂か?部屋で待っていようかと多岐が入ろうとしたところへ、すずらんがやってきた。手には掃除道具。ぼんやりしている多岐に声をかける。 「おはようございます、多岐のだんさん」 「おはよう、すずらん。昨日はお使いをありがとう。あれはあんなだが、悪い男ではないので怖がらないでやってくれ」 「おおくまさまですね。はい、とてもおやさしい方だと思います」 「うん、さすがに見る目があるね。それで、珠のはどうしたのかな。風呂かい?」 「珠のお兄さんは、ゆうべは見世からおもどりになっていません」 「そうか。じゃあ、あちらへ行ってみようかな」  オオクマは客ではないし、むしろ珠の進の手を煩わせた公権力であって、もてなす必要はないのだが、二人にして慌ただしく帰ってしまったものだから、オオクマの酒につきあって夜更かしをしたのかもしれない。多岐はもう一度靴を履きなおして孔雀屋の正面玄関に回り、改めて珠の進を探す。この時間は、うまく客を長居させられた男娼たちが起き始める頃合いで、各部屋に朝餉が運ばれるのを見かけるし、ここから直接仕事へ向かうのか帰宅するのか、また来てねと客を見送るのもよくある風景だ。それらを通りすがりに眺めつつ、多岐は珠の進の部屋の前に到着した。どれほど親しくなっても付き合いが長くても、多岐は勝手に襖を開けたりはしない。 「珠の、おはよう。俺だ、起きているか?」  まだ寝ていても、唸り声か何かであっても、珠の進は返事をするし、とにかく返事さえ聞けば、多岐は襖を開ける。しかし、返事がなかった。はて。多岐が形の良い顎に指を当て、どうしたものかと佇んでいると、辺りを歩き回っている見世の者が何か言いたげな視線を送って寄こした。どうかしたのかと聞こうとしたら、襖の向こうからようやく返事が聞こえた。ただし、珠の進の声ではなかった。すらりと襖を開けると、そこには誰もおらず、続き間との仕切りの襖が開いていて、声はそちらからしたらしい。多岐は短い溜息を鼻から吐き出して、その部屋へ近づいた。 「おう」 「おはよう。だらしない……ちゃんとしろ」  オオクマは、起きていた。起きてはいたが、布団の上で書類を眺めていた。寝巻は臍まで見えるほど着崩され、胡坐をかく太ももも丸見えだ。無精ひげはいつもよりも濃く、仕事をしながら寝て、起き抜けにその続きをやり始めたような印象。多岐はそちらの部屋には入らず、敷居の手前に腰を降ろした。布団の上に数枚散らばる書類も、オオクマの眺める書類も、多岐には真っ白にしか見えない。書かれている文字やその他は、特定の網膜にしか映らないようになっているからだ。つまり読んでいるのは警察内の秘密文書。捜査資料かもしれない。オオクマは生返事で書類から顔も上げず、なんか用事かと聞いた。 「うん。昨日は急に失礼して悪かった。教えられる範囲で、今後の捜査の予定を知りたくてな。俺の仕事とミハナくんの送迎のこともあって」 「容疑者は未明に確保したと報告があった」 「つまり」 「もうミハナの身辺に悪いやつは来ない」 「……ありがとう」 「いや、こちらこそ。長らくの協力に感謝する」  守り切る自信と覚悟はあったものの、いざ本当に悪党は掴まえられたのだと聞かされて、多岐は心底安心した。ミハナを自宅に返すかどうかとか、送迎を今後どうするかとか、次に考えるべきことはあるもののミハナの安全は保障されたのだ。 「たくさんいたのか」 「ん?ああ、まあそうだな。主犯格だけでも三人か。組織ぐるみだったから、作る奴だの売り歩く奴だの、薬を入手するとか情報を集めるとか手分けして、まあ手広くやってたみたいだな」 「全員?」 「取りこぼさん」 「そうか」  解決か。長かったし、色々あった。でも、すべてにおいて、よい結果が得られた。多岐やミハナにとってはとんでもなく大きな話だったけれど、オオクマにとっては大したことではなかったのだろう。死人やけが人もきっとまだ出ていなかっただろうし、手に負えないほど"悪い蝋燭"が出回る前に手を打つことができたのだから、むしろ小さい事件だったのかもしれない。先ほどから熱心に読んでいる書類は、だから別の仕事のものかもしれない。忙しい奴だな。そして、有能だ。とても頼りになる。ミハナは渡さないが。多岐はなんだかそういうことを考えながら、窓から射しこむ陽に照らされてどっしりと座るオオクマを眺めていた。 「ところで」 「ん?」 「珠のはどうした」  ここへ昨日二人残して帰った。ここは珠のの部屋だ。オオクマは酔いつぶれてここで寝てしまって泊まったのだろうことは想像できるとして、住居棟にも見世にも珠の進の姿がないのが不思議で仕方がない。オオクマはちらりと多岐へ視線をやり、すぐまた別の書類の束を手元に引き寄せながら何を言ってるんだ?と呟いた。さっきまで読んでいた書類は消えている。 「いるじゃねぇか」  オオクマが太い指で自分の背後を指さす。多岐が身体を伸ばしてオオクマの後ろをのぞき込むと、寝巻を纏った珠の進がそこにいた。両の手のひらと右の頬を、ぴったりと熊の背中に押し当てて、目を閉じてしな垂れかかっている。オオクマが巨漢で、珠の進が手足を縮めていたことも手伝って、すっかり隠れてしまっていた。なるほど、と多岐は思った。あのあと二人で飲んで、二人で酔い潰れたのだろうと。珠の進は酒を飲んでいなかったが、結局オオクマに付き合ってやったのかもしれない。 「珠の、おはよう」  多岐は膝で半分立ち上がりつつ、あまりよく見えない珠の進に声を掛けた。しかし、ものの見事に無視される。寝ているのかもしれない。珠の進の美しい目は閉じらている。多岐は畳に座り直し、ほんの少し顔をしかめた。 「飲みすぎじゃないのか、お前たち」 「そんなに飲んでない」 「珠の進は二日酔い以外ではちゃんと朝起きる」 「だから、起きてるだろうが」 「寝てるんだろう、あまり大きな声を出すな」 「おい、多岐。俺はお前がこの男の情夫だと承知していたが」 「コトの噂だ。事実ではない」 「ややこしい……俺は男も女も金で買ったことなんかないから知らんが、男娼ってのは厄介なもんだな」 「言葉に気を付けろ。お前だって娼館通いをしている身だろうが」 「してねぇよ。査察だなんだ、仕事で行くことはよくあるが、俺は接待を受けないし、自分でわざわざ出かけない」 「そうか。誤解していた」 「コトだからな。面と向かって聞かれなきゃ、いちいち否定なんかしねぇだろう」 「同感だな。お前今日仕事は?」 「ある。が、昼からだ。くそねみぃ。人の身体で散々遊びやがって、冗談じゃねぇ……」 「え?」 「おい、黙ってないで何とか言え」 「よせ。珠のは寝てるんだろう」 「お前の目は本当についてるのか?寝たふりに決まってんだろうが、この狸はよ」  オオクマはがばっと太い腕を自分の背後に回して、珠の進を引っ張り出そうとする。珠の進は慌てたようにオオクマの腹に腕を回してしがみついて抵抗している。なんだ、起きていたのか。 「クマ、乱暴はよせ」 「いい加減に離れろ」 「やだ」 「あーあーあーあー、めんどくせぇな……」  オオクマは珠の進を自分の背中から剥がすことを諦めたようだ。ため息をついて、再び書類に目を落とす。多岐が困っていると、オオクマの身体の陰から、珠の進が顔を見せた。 「おはよう、多岐」 「ああ……」  見慣れた多岐でも、目が眩む。白い肌は艶めき、ふっくらとした唇に乗るほほえみは、爽やかでさっぱりとした色香を含んでいた。どこも留めていない髪がするすると流れ、珠の進の露わになっている肩や首筋を隠したりチラつかせたりしている。  寝巻の身ごろはほとんど掛け合わさっておらず、胸も腹も見えている。割れた裾からは、真っ白で張りのある太ももがむき出しだ。つまり、オオクマと同じ。そんな様子を目の当たりにして、これはもしかして、昨晩二人は、そう、なのか。多岐はようやく気が付いた。  どう考えても、事後か……  多岐はひどく複雑な心境だった。ここは娼館だ。色を売る場所だ。しかしオオクマは客ではない。そして昨夜が初対面だったはずだ。男娼として長年働き、コトにおいて、つまりこの国において最高峰として人々の口の端にのぼり続ける珠の進が、仕事でもないのに共寝をしたのだとすれば、それは。 「……どう、言えば、いいのか」  多岐はそう呟いたきり黙り込んだ。オオクマが無理強いをしたとは思えない。まあ、孔雀屋で誰に対してであっても無体を強いれば無事では済まないが。客ではない男と自ら寝たのなら、そこに特別な感情があったのじゃないだろうか。長い付き合いで、珠の進が時々口にしていた、憧れていた類の感情が。多岐はもう一度、オオクマにくっついたままの珠の進と、くっつかせたままのオオクマを見る。こんな風に誰かにくっつく珠の進は見たことがない。自分もされた記憶がない。年端も行かないような時分から一緒にいる自分でさえも。多岐の感情はますます複雑になっていく。オオクマだけは、この朝もいつもと変わらない様に見えた。 「おい、朝飯出ないのか」 「食べる?」 「ああ」 「じゃあ、持ってきてもらうよ。多岐も食べる?」 「ああ……そうだな……あ、いや、俺はいい。済ませてきた」  珠の進は優雅な手つきで傍に置いてた鈴を鳴らす。鈴で呼ぶとき、それは床を上げてくれという意味も含まれる。すぐに聞こえた誰かの返事に、襖越しに朝ごはんを二人分支度しておくれと言っている。ずーっとオオクマの背中にくっついたままだ。いつか図鑑で見た、動物の子供のようだと多岐は思った。オオクマは、ふわふわと大きなあくびをしては、書類を捲っている。  襖を閉めて多岐が立ち上がると、廊下に面した出入り用の襖が開けられて、顔なじみが食卓を運び入れて朝食の支度を始めてくれた。お互い何とも言えない顔で、でもさすがと言おうか、無駄口をたたくこともなく挨拶だけをして、他の者も含めてどんどんと準備が整っていく。そうしていたら、多岐が背中にしていた間仕切りの襖が開いた。振り返るまでもなく、開けたのはオオクマだった。     「お前やっぱりでかいな」   「お前に言われたくない」   「そこに立たれると邪魔だ」      オオクマは、寝間着のままだったけれど一応合わせも整えて、まあだらしないことにはあまり変わらないけれど、目のやり場に困るような恰好ではなくなっていた。その後ろから現れた珠の進も、同じだ。ようやく、いつものような雰囲気の珠の進だ。髪を束ね、すっきりと姿勢よく立ち、微笑み、オオクマにくっついていない。     「多岐、背が伸びたんじゃない?」   「どうかな」      きっとそうだよ。珠の進は楽しそうに笑って、いつもの自分の席に着く。オオクマは、その正面に座った。そこに茶碗だなんだが用意されているからだ。多岐は二人と角を挟んでいる席に腰を下ろす。そこにはお茶の用意だけがあった。いただきますと手を合わせてから、二人は食事を始めた。     「多岐、お弁当要る?」   「ん?ああ……」   「要らないの?仕事でしょ?」   「孔雀屋は弁当を持たせてくれるのか」   「みんなじゃないよ。クマさんも要るなら用意してもらうけど」   「要る」   「はい」      誰か、といつものように珠の進が声をかけ、部屋の外から返事がある。お弁当を三つ用意しておくれと、そう頼む珠の進も、いつもの通りに見える。     「三つ?多岐は一人で二つ食べるのか」   「僕のだよ」   「なんで」   「一緒がいいから」      お椀の中にふう、と息を吹きかけて、伏し目がちにそう答えた珠の進は、明らかにいつもと違った。それで、多岐は動揺した。  長く一緒にいて、珠の進はずっと同じだった。仕事上の立場が変わり、世間を多少知り、つらい思いを味わい、それでも、ずっと同じ。"いつか自分も変わるかもしれない"と漠とした憧れを抱え、同じ日々を淡々と過ごす。新しい客も、新しい同僚も、新しい初めての友人でさえ、珠の進を変えなかった。それなのに、たった一夜で、こんなにも鮮やかに。     「珠の」   「ん?二つ要る?ミハナの分も、持って帰るなら」   「……いや」      多岐に向ける顔は、変わらなかった。面倒見がよく、気働きができて、あっさりとしている。大事にされることに慣れ、美しい自分が特別だとわかっていはいるものの、頓着しない。周囲が愛している珠の進という像を真っすぐに高く高く掲げて微動だにしない。そうするために生きている。人生で、それ以外にすることがなかったからだ。なのに今、珠の進はそれを休んだ。そんな印象だった。    彼も変わるのだろうか。    ミハナは今まで、普通の人生を送ってきた人だ。家族仲良く暮らし、友達と遊んで、恋人を作る。離れていても家族を大切にし、友達は大勢に増え、恋人は時々入れ替わる。そう、ミハナには過去に恋人が何人かいた。そんな話をわざわざ聞いたりはしないが、疎い多岐であっても、例えば誰かと話しているミハナを見れば、いろんな人に好意を持たれる側の人間だとすぐにわかる。多岐にお付き合いしましょうと言ってくれた時も、生まれて初めて告白したような感じではなかった。だからきっと、今までの恋人だった人たちが、ミハナをその時々で変化させて、今のミハナがいるのだ。でも、ミハナが自分と交際を始めても、全く変化はない。手を時々つなぐ。嬉しそうな笑顔で多岐を見上げる。それは、恋人同士という特別な関係になくとも、目にできるミハナなのではないのか。自分たちの間には性行為がないから、いつまでも友人同士や顔見知り程度の親密さしか生まれないのではないのか。その証拠に、珠の進は、こんなに。     「多岐?大丈夫?おなかすいてるなら、朝ご飯」   「いや、いいんだ」   「……そう」   「おい、多岐。車だろう?仕事へ行くついでに、俺んちまで送ってくれないか」   「ああ」 「じゃあ僕も行く」   「珠の、俺は今から仕事だから、珠のの外出に同行できない。だから」   「クマさんのお家について行くだけだよ」   「待て待て。家主の許可を得てから言えよ」   「行ってもいい?クマさん」   「いいわけないだろう」   「……はぁい」      ミハナを変えたいと、多岐の頭に浮かんでしまった。今の彼を好きだけれど、自分しか知らない彼を見たい。多岐はその日一日、そのことばかりを考えて過ごした。

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